第26話「切ってください」
土間の火が、戸口から、見えなかった。
白が、戸口の中まで、入っていた。前に来た日は、戸口で止まっていた白が、いまは、土間の床の上にある。火は、その奥で、にじんでいるだけだ。
お甲さんが、戸口の内側に、立っていた。匙を腰に差したまま、なにも言わない。白を見ている。
「お甲さん。今日、屋根は」
答えない。それも、答えだった。
綴さんの手を、取った。袖の中の手は、前に来た日と同じに、短い。袖を見た。見てしまう。見るな、と思うより先に。
「岸へ。頭さんが、います」
綴さんが言った。
「見えないのに」
「来たとき、声がしました。弦八さんと」
坂を、下りた。白の中へ。
岸に、小さい人が座っていた。腰の鋏は、紐で縛ったままだ。頭だ。待っている。ぼくが切るのを。切らないのに。
霧の奥で、綱が木をこする音が、低く鳴っていた。舟だ。まだ、着いていない。
「綴さん。頭さんは、いつから、ここに」
「わたしが来たときには、もう」
岸の脇から、重い足音が、上がってきた。石を踏みしめる。
荷運び係だ。背に、荷。あの日、弦八さんから受け取った荷だ。まだ、担いでいる。
荷が、重そうだった。前より、肩が、沈んでる。……下ろしてあげたい。弦八さんみたいに。ぼくには、持ち上がらないけど。
ぼくたちの横を、過ぎた。顔は、上げない。坂を、上っていく。
あの人は、もう、列じゃない。歩いてる。働いてる。だから、切られない。そう思って、目を離した。
綴さんの袖が、風もないのに、揺れた。目が、そっちへ行った。袖の中の手は、どこまで、あるんだ。
「上が言った。歩いてるやつもだ」
霧の脇から、声。与太が、白の中から出てきた。鋏は、もう、抜かれていた。
歩いてるやつ。
体が、動いた。綴さんの前に、出た。袖を、背で隠した。この人は、歩いてる。見えないけど、歩いてる。
与太は、ぼくを見なかった。
「そっちじゃねえ」
ぼくの横を、抜けた。坂を、上っていく。背中を、追う目で。荷の、背中を。
走った。坂だ。上りだ。足が、遅い。白の中で、足もとの石が、遅れて見える。膝が、石に当たった。
「やめろ! 待て、与太!」
与太は、止まらなかった。
荷運び係は、歩いていた。顔を上げない。荷を背負ったまま、坂を上る。ぼくの書いた人だ。坂を上った、と書いた。書いたから、上ってる。
刃が、肩の上に来た。荷の紐の、すぐ横に。
「軽くなるぜ」
乾いた、短い音。
荷の紐が、肩の形のまま、宙に一拍とまって、それから、石に落ちた。荷が、ひとつ転がって、止まった。
背負っていた人は、前かがみの形で、ひと息、そこにいた。それから、灰になった。白の中で、灰の色だけが、濃かった。
「あ」
ぼくの足は、まだ、坂の途中だった。
灰が、崩れた。荷の脇に。荷の上にも、かかった。
与太が、しゃがんだ。灰を、指でなぞって、口に運んだ。
「……甘ぇ」
鋏を、腰に戻した。ぼくの横を、通った。目が合った。与太のほうから、合わせてきた。
「あんたは、切らねえ。言ったろ。……邪魔が、遅かったな」
「なんで! あの人は、歩いてた。働いてた。弦八さんの荷を、ずっと」
「知らねえ。上が言った」
坂を、下りていった。白の中へ。
取られた。ぼくの書いた人を。与太に。……与太、と呼び捨てにしていた。気づいたのは、いまだ。
荷が、石の上にあった。背負う人の、いない荷が。
……重そうだ、と思った。まだ。あの人が、いないのに。
見てた。袖を。ぼくは、綴さんの袖を、見てた。あの人のことを、見てなかった。坂を上がっていったあと、どこで、なにを担いでいたか。訊かなかった。書いた人なのに。
……訊いて、どうなった。何も変わらなかったろ。変わらなくても、訊くんだよ。
坂を、上がった。荷の前まで。両手で、持った。腰まで、上がった。そこから、上がらない。下ろした。紐は、握ったままにした。膝が、痛い。石に当てた膝だ。それしか、痛くない。
袖の音がした。足の先で、石を探る音。
「綴さん。ここ。……灰は、ぼくの声の、足もとに」
言ってしまった。言ってから、腹の底が、重くなった。
綴さんが、ぼくの横で、しゃがんだ。灰の前で。
袖の中の手が、出た。指が。灰を、つまんだ。
「綴さん。それ」
「捨てられません」
袖の中へ、入れた。灰を。それから、もう、ひとつまみ。
「綴さん、それ、灰で」
「あなたの、人です」
ぼくの人。ぼくの一行で、坂を上ってた。……だったら、灰にしたのも、ぼくの一行なんじゃないのか。いや、違う。切ったのは、与太だ。でも、歩かせたのは。
綴さんの顔が、ぼくのほうを向いた。灰を持った手が、袖の中にある。
「影の町を、切ってください。あなたの手で」
切ってください。この人が。
「次は、列です。……来たとき、頭さんが、弦八さんに言っていました」
歩いてるやつも。じゃあ、歩いてないのも。列の、ぜんぶ。
「切ったら。綴さんは」
「わたしは、あなたの話を忘れます。それだけです」
消えます、と、前に来た日に言った。忘れます、と、いま言う。この人には、同じことなのか。
それだけ、って。それだけで済むわけがない。はじめましてから、ぜんぶだ。消したのも、ぜんぶ、この人の中から、なくなる。
頭が、言った。あの土間で。底で生まれたものは、底と一緒に、覚えたものを置いていく。この人の隣で。この人も、聞いていた。
覚えていてほしい。この人に。……こわいのは、次が列のぜんぶだってことだ。灰が、一人ずつ増える。分かってて、それでも、が出る。
切れない、と思った。……いや。切れない、じゃない。切りたくない、だった。
「いやです」
出た。口から。
「切らない。切らないです。綴さんが忘れるなら、切らない」
「あなたの人が、切られます。一人ずつ」
「それでも」
「それでも、ですか」
「それでも、です。綴さんが、ぼくを忘れるのは、いやです。切られるより、いやです。……ぼくの、勝手です」
綴さんは、言い返さなかった。灰を、もうひとつまみ、袖に入れた。それから、袖の中の手が、出てきて、ぼくの手首を探した。紐を握っていない、左の手首を。灰のついた指で。見つけて、握った。
足音が、下から来た。重い。……弦八さんだった。白の中から、上がってくる。
ぼくは、荷の紐を、まだ握っていた。
弦八さんの手が、横から、紐を取った。ぼくの手から。膝で、ひょいと上げて、背に乗せた。あの人と、同じ上げ方で。
息を、一度、止めた。止めたまま、ぼくの前を過ぎた。
それから、坂を上っていった。礼は、言わない。言われもしない。荷だけが、上っていく。
坂の下で、舟の綱の音が、一度、太くなった。着いた。見えない。
坂の下、白の薄いところに、頭の小さい形があった。こっちを、向いている。頷いた、には、見えなかった。
ぼくの手で。この人に。ぼくの話を、忘れさせるのか。
綴さんが、しゃがんだままだった。石の上に、灰が、まだ少し、ある。
短い指が、それを、つまんだ。袖へ。




