第27話「名前」
戸を出ると、アーケードの天井だった。
汀書房のガラスに、手が映った。アーケードを抜けて、家に戻るころには、空は暗くなっていた。台所に、灯りがついている。
母さんが、食卓にいた。焼いた魚の皿が、ひとつ。茶碗は、ふたつ出ている。箸を置いて、こっちを見ないで、言った。
「あんたのスマホ、鳴ってたよ。机で。置いてったでしょ」
机の上。朝から、置いたままだ。今日は、持たずに行った。
「出なかったけど。画面は、見た。この前来た子の字だと思うけど。……名前、なんだっけ、あの子」
口を、開けた。
顔は、ある。ホームで手を上げていた顔が。声も、ある。新幹線、高えんだよ、の声が。口が、動かなかった。
口を、閉じた。
母さんは、ぼくの顔を、一度だけ見た。それから、茶碗のほうへ目を戻した。
「まあ、いいわ。ごはん、あるよ」
母さんは、箸を取り直した。ぼくは、流しで手を洗った。右の手首を、水が通った。水のつめたさとは、別のものが、腕にあった。
魚は、あの日、あいつが頭から食べたのと、同じ皿に乗っていた。母さんは、なにも言わずに、ぼくの茶碗に飯をよそった。
「ごちそうさま」
「はい」
夕飯のあと、部屋に戻った。スマホは、机の上に、朝のままあった。
着信が、残っていた。字が出ている。ぼくが、去年、登録した字だ。
留守番電話が、入っていた。布団に座って、再生した。
「汐見ー、帰ったぞ。部活。おれだよ、おれ。……分かんねえだろ、言わねえと。巴だよ、巴。課題、やってんだろうな。先生には、渡したって言っといたぞ。……以上」
うしろで、駅のアナウンスが鳴っていた。あいつの声は、その雑音の中から、出てきた。
笑った。
布団の上で、声が出た。おれだよ、おれ、のところで、もう一回、噴いた。分かんねえだろ、言わねえと、って。ほんとにそうだよ。
笑ったまま、気がついた。
聞いた。いま。自分の名前を、ふたつ。……もう、ない。笑いは、残っている。名前の場所だけが、空いている。
もう一度、再生した。
巴だよ、巴。小さく、また笑った。聞いているあいだは、ある。終わると、ない。
声に出そうとした。息だけが、出た。
引いたあとに空いた場所の形なら、ずっと、見えてきた。消した版の、穴の形。いまも、見える。自分の中に。中身だけが、ない。
画面を、伏せた。伏せたまま、しばらく、手を離さなかった。
朝、スマホを持って、秋良さんの縁側へ行った。麦茶が、出ていた。
秋良さんが、じょうろで鉢に水をやっていた。片手で持てる小さいじょうろで、口の先が、曲がっている。水が切れるまで、ぼくの顔を見なかった。ぼくは、麦茶を飲んだ。氷が、ひとつ、鳴った。
隣の家の干し物の向こうに、山が出ている。前に見たときとは、違う。夏の山ではなくなっている。
「あんたの婆さんは、書いたもんを、誰にも見せんかった」
秋良さんが、じょうろを縁側の端に置いた。
「見せんでも、書きよった。毎晩な。台所で。わしは、隣の窓から、見とった。なにを書いとるかは、訊かんかった」
「……はい」
「あんたも、書いとるんだろ」
答える前に、秋良さんは鉢の向きを直した。答えを、待っていなかった。
「……はい。書いてます」
言えた。書いていないのに、それは、言えた。秋良さんは、軒を見上げて、なにも言わなかった。
家に戻ると、母さんが、箱の蓋を開けていた。帳面が、紐で十字に縛られたまま、いちばん上にある。婆ちゃんのだ。母さんは、それを別の箱に移した。小さい箱だ。手で持って帰るぶんの。
「あの子。名前、出た?」
「……まだ」
「わたしも」
母さんが、先に笑った。ぼくの口の端も、動いた。動いたのは、母さんの、わたしも、にだけだった。
「持って帰るからね。これは」
「……うん」
母さんは、表紙を、手のひらで一度なでてから、蓋を閉めた。帳面の中身を、ぼくは、まだ読んでいない。母さんが読んだかどうかも、知らない。訊かなかった。
夕方、着信の画面を開いた。
巴、と出ている。字の形は、分かる。読もうとして、口を動かした。音が、出てこない。閉じた。もう一度、開いた。同じ字が、同じ場所にある。
アーケードに入った。夕方の光が、天井の隙間から、床に落ちている。汀書房の前で、足が止まった。
ガラスは、濡れていた。
ガラスの前で、もう一度、画面を見た。
かけない、と思った。……いや。かけたい、だった。もう一回、あの声で、名乗ってほしい。
こわい。名乗られても、ぼくは、呼び返せない。
親指を、名前の上に置いた。押せば、かかる。出たら、ぼくは、なんて言う。
親指は、動かなかった。




