第28話「明日、空が薄くなったら」
石を、刃がこする音がした。
岸だ。白の中から、その音だけが、先に来た。屋根の糸の、しゃり、ではない。もっと低い。濡れた音だ。
坂を下りた。綴さんの手は、ぼくの手の中にある。袖は、余ったままで、指は、ほとんど出ていない。
岸の板の上に、頭が、座っていた。
膝の前に、平たい石。その上を、鋏の刃が、往復している。腰にあった鋏だ。紐が、解かれている。
初めて見た日、柄のところに、紐が十字に固く結んであった。刃が、開かないように。母さんが帳面を縛った、あの結び方で。その紐が、頭の膝の横に、ほどけて置いてある。
弦八さんが、横に立っていた。桶を持って。頭が手を出すと、桶から水を、刃の上に垂らす。言葉は、ない。濡れた石の匂いが、ここまで来た。
研いでる。あの、縛ってあった鋏を。
「頭さん。それ」
頭は、こっちを見なかった。刃が、石を往復した。
「来たか」
与太だ。杭の脇に、しゃがんでいた。立たない。鋏は、腰にある。
「頭は待つと言ったが、上が待たねえ」
「待てます、って。頭さんが、言いました」
「頭はな」
与太が、研ぐ音のほうへ、顎を振った。
「明日、空が薄くなったら、からだ。一つずつ。歩いてるやつも、立ってるやつも。……底の言葉でできたもんは、全部だ」
全部。
綴さんを、見た。見てしまった。
袖が、動かなかった。綴さんは、顔を、研ぐ音のほうへ向けていた。
「全部って。綴さんも、ってことだろ。なあ。答えろよ」
「おれは、底の言葉でできたもん、と言った。それだけだ」
「じゃあ、言えよ。綴さんは、って」
与太は、顔を上げなかった。
息が、入った。肩が、軽い。……軽い? なんでだ。期限を言われたのに。
待たなくて、よくなったんだ。……最低だ。
綴さんの手を、離していた。
離さないと、出せなかった。ポケットから、スマホを。
切らない、と言った。前に来た日に。……いや。言ったのは、綴さんが残る話だった。一つずつなら、綴さんも切られる。残らない。
沈めるのは、手だ。書くのは、一行だ。どっちも、ぼくのだ。書けば、現れる。ぼくの一行なら、まだ。底の列が、灰になった、と。
書いて、現れたら、底は、ない。与太の鋏が切るものが、なくなる。……綴さんは、忘れる。頭の言ったとおりに。
前に来た日に、逆のことを言った口で、いま、打つ。切られるより、いい。
切らせたくない。忘れられるのは、こわい。どっちかしか、残らない。
欄を開いた。
〝底の〟
打った。右の親指が、次の字へ行く。
遅い。親指が。打てない、ではない。打つのが、遅い。右の腕が、袖の中で、重い。肘より、上。肩の手前。前と、同じところだ。それなのに、今日は、重い。
打て。打てよ。
綴さんの手が、ぼくの腕に来た。袖の上を、肘から、上へ。指が、上がってくる。落ち着く場所を探している。
肩の、手前で、止まった。押さえた。袖の上から、指が、そこに残った。
「……ここです。次で、肩です」
次で、肩。現れれば、上がる。肩に。肩の次が、あるのか。ぼくは、知らない。
無理。いまは、無理だ。
消した。〝底の〟を。二字。スマホを、ポケットに戻した。
送る前に消したのは、何度もある。今日のは、消したんじゃない。指が、降りた。
「で? 消したの」
うしろから、絣の声がした。坂を下りてきていた。白の中から、腰の布の包みが、先に見えた。
「分かった。息でだ。あんた、打つとき、息が止まる。それから、吐いた。消したろ」
「打ちました。消しました」
「はっや」
絣が、顎で、坂の上を示した。
「飯。来いよ。弦八さんの小屋」
与太は、立たなかった。研ぐ音が、うしろで続いていた。
小屋の床に、灰の匂いがあった。絣が、炉の灰を棒で掻いた。下から、赤いのが出てくる。
「火、いいんですか。弦八さんの」
「弦八さんは、おれが火を起こしたら、黙って薪を足す。訊いたことねえけど」
絣が、包みを開いた。握り飯が、ふたつ。ひとつを、割った。片方を、ぼくの手に。もう片方を、綴さんの手に。自分のは、割らないまま、かじった。
「これ、いくつ目ですか。借り」
「あとで言う。食え」
研ぐ音が、屋根の板に当たって、戻ってきていた。火が、顔に、あたたかい。外は、期限で、中は、火だ。
絣が、米を飲みこんで、床を見た。
「底に、おれのもいる」
「……絣さんの」
「身内のが。言ったことがあんだよ、おれも。言って、取り消せなくなったやつ」
「身内って、誰」
「で? 食えって」
握り飯を、口に押しこまれた。塩が、強かった。
底は、向こう岸で消された言葉が来るところだ。綴さんが、そう言った。絣の身内のが、なんで、そこに。訊いた。絣は、自分の握り飯を、噛んでいた。答えなかった。
「切れ。一緒に。あんたの手で」
絣が、顔を上げた。
「今回は、数えねえ」
借りだぞ、が、聞こえた気がした。この人の、いつもの声で。言ったのは、別の言葉だった。
「数えねえって言ったの、はじめてだぞ、おれ。聞いたか」
絣が、鼻を鳴らして、目を逸らした。ぼくの口の端が、勝手に上がった。上がったのを、絣に見られた。
「……聞きました」
自分の半分を、絣の手へ、押し戻した。
「数えて、ください」
「やだね」
戻ってきた。借りなら、返せる。数えないなら、ぼくは、どうすればいい。
言わなかった。戻ってきた飯を、食った。
一つずつなら、綴さんが切られる。ぼくの手なら、綴さんが忘れる。絣の身内のは、どっちでも、なくなる。
どっちも、いやだ。いやだ。……いやだって言ったら、どっちか、なくなってくれるのか。
右の親指を、左の手で、握った。
綴さんが、握り飯を、袖の中へ入れた。食べなかった。袖が、少し、ふくらんだ。
「食べないんですか」
綴さんは、袖を、口に当てた。それだけだった。
研ぐ音が、止んだ。戸口の外を、小さい足音と、重い足音が、上がっていった。
坂を、上がった。頭と弦八さんの背中が、先にある。白を抜けた。坂の上の、石だけの床だ。空に、灯りが、ひと並び。
頭が、立ち止まって、鋏を持ち上げた。刃を、空へ向けた。開いた。閉じた。乾いた、短い音。底で、何度も聞いた音だ。
紐は、腰に、なかった。鋏を、腰に戻した。縛らないまま。
「待ってください」
「上が待たねえ、って言ったろ」
与太が、うしろに立っていた。ぼくを、見た。それから、綴さんの袖を、見た。
「おれは、言ったぜ」
頭が、刃を、もう一度、空へ向けた。研いだ面が、光った。
ポケットの中で、親指が、画面の上にあった。
灯りが、ひと並び、映っていた。研いだばかりの、刃に。




