第29話「最初に」
綴さんの手のひらに、指を置いた。
まだ、なにも書かない。置いただけだ。手のひらは、冷たい。前に握ったときと、同じだ。
空が、濃くなっていた。糸巻きは、形だけになっている。屋根の手は、どれも止んで、しゃり、しゃり、は、もう来ない。空に、灯りが、ひと並び。その明かりだけが、坂の上の石の床に、薄く落ちている。
ぼくと綴さんは、床の、坂から離れたところに、並んで座っていた。白は、坂の半分から下にある。夜の白へは、下りない。前に、そう言われた。
明日、空が薄くなったら。
いまから、それまでが、ぼくの時間だ。
ポケットの中で、親指が、画面に触れていた。
あと一つ。次で、肩です、と綴さんは言った。肩の、その次は、知らない。たぶん、ない。
さっき、底を灰にする一行を、打ちかけた。消した。あと一つなら、底に使うのが筋だ。筋だろ。絣だって、切れ、って言ったんだ。……筋って、誰のだよ。
書いて底に使っても、手を沈めても、底はなくなる。底がなくなれば、この人は忘れる。頭の規則だ。どっちでも、同じだ。だったら。
綴さんに、使う。
言った。声に出さずに。言ってから、手のひらの上の指が、動かなくなった。
読んでほしい。この人に。なくなる前に、一本。この人のための一本。底は、ぼくの一行では、助けない。明日どうするかは、明日の、ぼくの手だ。……ぼくが、それを選ぶ。
こわい。明日、この人が、切られるのが。ぼくの手で、忘れるのが。どっちでも、この一本は、この人の中から、なくなる。なくなるなら、なおさら、いまだ。
ひどい。ひどいよ、ぼく。……親指を、画面から、離さなかった。
「綴さん。書きます。一本」
「はい」
「前は、声で読んでもらいました。画面を。今度は、手で。送る前に。綴さんが、最初です」
綴さんの顔が、こっちを向いた。閉じたまぶたが、ぼくの顔の高さにある。灯りの明かりが、まぶたの皮に、薄い。
袖が、鳴った。
スマホを出した。欄を開いた。ひらがなだけで、打つ。手のひらに書くなら、ひらがながいい。一字ずつ、切れる。あの夜も、ひらがなだった。
にはこびがかりは、にをおろした。
打って、指が止まった。岸では、弦八さんが下ろした。土間では、自分で。……呼ばれて下ろしたことは、ない。ぼくの一行で、担いで、上って。坂の途中で、灰になった。
だれかが、なまえをよんだ。
名前。あの人の名前は、ぼくも知らない。書いてない。呼ばれる、だけを書く。
確定させた。送らない。画面を、綴さんの膝の横に伏せた。
「綴さん。手を」
手のひらを、上にして、ぼくの膝の上に置いてもらった。冷たい。小さい。指の先が、袖から少しだけ出ている。
右の人差し指で、書いた。
に。
一字。手のひらの、まんなかに。ゆっくり。綴さんの指が、少し、曲がった。口が、動いた。音にはしない。に、と。
は。こ。び。が。か。り。は。
口のほうが、先に動いた。ぼくの指より。あの夜の一行の、頭だ。知っている。
に。を。
口が、止まった。知らない続きだ。待っている。ぼくの指を。
お。ろ。し。た。
書いた字を、口が、あとから追った。遅れて。一字ごとに。
だ。れ。か。が。な。ま。え。を。よ。ん。だ。
書き終えて、指を離した。手のひらの上に、なにも残らない。
綴さんの口が、閉じた。それから、袖の中の手が、ぼくの手を、探した。見つけて、一度、握った。
「……呼ぶんですね。あの人を」
「呼びます。誰かが」
綴さんが、立った。ぼくが言う前に。
足の先で、石を探って、坂へ。下りていく。半分まで。白が、はじまるところ。その手前に、立った。白には、入らない。袖が、白の上に、少し余って見えた。
伏せた画面を、起こした。暗い。親指で、いつもの場所を押す。開いた。送った。
白の下で、声がした。
一度。遠い。言葉は、分からない。ただ、呼んでいる声だ。名前を呼ぶときの、上がって、落ちる、あの形。誰の名前かは、聞き取れなかった。
現れた。ぼくの書いた、声だ。人には、入れない。荷も、あの人も、現れない。声だけが、出た。それでいい。あの人を呼ぶ声だ。ぼくが、そう書いた。……届くところがあるのかは、分からない。
右の腕の、上のほうに、冷えが、着いた。
袖の中で、上がってきて、そこで、乗った。重くはない。ただ、止まった。その先へ行く感じが、ない。たぶん、ここまでだ。
綴さんが、坂を上がってきた。ぼくの横に、座った。袖の中の手が、ぼくの腕に来た。上へ。
「……肩です」
「はい」
肩。ここでは、もう、一行も。……いい。
綴さんの指が、肩から、離れなかった。
「綴さん。いまの一行は、綴さんが、最初です」
「はい」
「綴さん。手を、もう一度」
手のひらが、ぼくの膝の上に、戻った。
綴さんの口の端が、上がった。
息が、鼻から、一度、抜けた。閉じたまぶたの上で、眉が、ゆるんだ。
……え。
笑ってる。この人が。
「……好きです」
顔が、熱くなった。目の奥が、来た。手のひらの上で、字を、書き直すふりをした。よ、ん、だ、を、もう一度。指が、震えてる。この人には、見えない。手のひらには、伝わる。
比べなかった。この人が。どの版より、とも言わなかった。
——荷物を先に雨からよける場面が好きです。自分より、先に。
伏せた画面の、いちばん下にある一行と、同じだ。
「もう一回、言ってください」
言ってから、口を押さえたくなった。
「言いません」
袖が、口に当たった。笑ったままの口に。
足音が、坂の下から上がってきた。頭と、弦八さんだ。弦八さんは、少し離れたところで、止まった。
頭が、腰から、鋏を抜いた。縛っていない鋏を。石の上に、置いた。ぼくの足の、すぐ横に。刃が、こっちを向かないように。
「明日、お使いにならないなら、わたしが」
丁寧な、小さい声だった。それだけ言って、頭は、綴さんを見た。一度。それから、弦八さんのほうへ、戻っていった。
ぼくに使え、じゃない。これで、一つずつ、だ。見せておく、だ。
石の上に、鋏。研いだ刃が、空の灯りを、まだ映している。
手が、伸びかけて、止まった。触らなかった。こわい。明日、これが、ここにあるのが。
綴さんの体が、ぼくの右の肩へ、傾いた。冷えの乗った肩へ。
「綴さん」
返事が、なかった。息が、長い。寝ている。笑ったまま。口の端が、まだ、上がっている。
手を、取った。袖の中から、短い指を、引き出して。ぼくの手の中に、入れた。冷たい。ぼくの手のほうが、先にぬるくなる。
石の上に、鋏。ぼくの手の中に、この人の手。
明日、ぼくの手は、どっちを握るんだ。




