第30話「切り屋の秋」
空が、薄くなった。
目を開けたら、手の中に、まだ、この人の手があった。綴さんの、短い指。ぼくの手のほうが、ぬるい。この人の手は、冷たいままだ。肩で、まだ、寝ている。
石の上の鋏は、なくなっていた。
ぼくも、寝ていたらしい。いつ、取りに来たのか。足音は、聞いていない。
空の灯りが、少し、遠い。消えかけているんじゃない。空のほうが明るくなって、灯りが、そこに溶けかけているだけだ。糸巻きが、動きはじめている。屋根の手は、まだ、止まったままだ。
坂の下で、綱が木をこする音がした。舟を出す支度だ。
綴さんの体が、肩から、離れた。目は、閉じたままだ。顔が、少し、上を向く。頬に、朝が来ている。
「……空が、薄いです」
「はい。薄くなりました」
来た。この人の手を、まだ、握っているうちに。
坂を下りた。白は、坂の半分からだ。その中に入って、岸まで下りた。綴さんの手を引いて。石を、声に出さずに。
岸に、頭が立っていた。腰に、鋏。縛っていない鋏が、揺れている。弦八さんが、舟の綱を、杭から外しかけている。与太は、水際の、もっと下だ。白の下で、見えない。
「お使いになりますか」
頭が、言った。丁寧に。小さく。
ぼくの手を、見ている。綴さんと、つないでいる右の手を。
握り直した。離したら、底へ下りて、水に入れる。この手を。この人は、ぼくの話を忘れる。はじめましてから、ぜんぶ。
離さなければ、与太が、一つずつ切る。底の列を。絣の身内のを。……この人を。
短い指が、一度、ぼくの手を押した。行け、なのか。行くな、なのか。
離したくない。離したら、この人の中から、ぼくがいなくなる。こわい。……いや。こわいのは、そこじゃない。この人に、知らない顔で見られるのが、こわい。それでも。見たい。この人の目が、開くのを。
「……あと、少しだけ」
「はい」
頭が、待った。立ったまま。
きのうも、言った。もう一回、言う。
「綴さん」
「はい」
「最初に読んだのは、綴さんです」
言った。指を、開いた。
綴さんの手が、ぼくの手から、落ちた。袖の中へ、戻っていった。
離した。離しちゃった。……ふり返るな。
坂の脇を、下りた。底へ。白が、低い。ぼくのすぐ上に、白。水際の陸。踏み抜かれた板が、傾いている。縁に、影が並んでいる。立っている影。座っている影。顔を上げない。
与太が、いちばん手前の影の前にいた。鋏が、開いている。
「待てよ」
「待たねえ」
「ぼくがやる。ぼくが消したんだ、ぜんぶ」
与太が、ふり向いた。自分の鋏を見た。それから、ぼくの右の手を。
「……上に、切られた手か」
鋏が、止まった。開いたまま。
坂の脇の、最後の石に、膝をついた。目の前が、水際だ。水は、動かない。黙っている。右の手を、見た。手首に、糸の跡はない。上に切られた手だ。八十八回、直した手。この人の手のひらに、書いた手。
見たい。
右の手を、水に入れた。
冷たくなかった。水なのに。前に左手を入れたときは、ひやりとした。今日は、ぼくの手と、同じ温度だ。どこから水か、分からない。手首まで。肘まで。
列が、崩れた。
音は、しなかった。手前の影から、順にじゃない。一度にだ。立っていた形が、座っていた形が、灰になって、陸に落ちた。列の形のまま。
陸が、沈んだ。
灰ごと、水の下へ。ぼくの膝の前まで、水が来た。傾いた板だけが、水から出て、残った。底が、ない。
軽い。
右の腕が、肩から、軽い。切られたときの軽さじゃない。あのときは、浮いた。今度は、下りた。腕が、ぼくのところに、戻ってきた。
……いま、か。いま、あの人の中から。
白が、動いた。
ぼくの上の白が、水のほうへ、流れていく。坂のほうから来て、ぼくの上を通って、水の上へ出て、薄くなる。頭の上が、抜けた。
空が、出た。
灯りの並びが、ある。朝の空の中に、薄く。
与太が、鋏を、腰に戻した。舐める灰も、なかった。背中を向けて、坂を上がっていく。
手を、水から出した。指の先から、水が落ちる。ぬるい。
坂の脇を、上がった。岸へ。
綴さんが、いなかった。
岸に、袖がない。頭は、舟のそばに立っている。弦八さんも。綴さんだけが、いない。底で生まれたものは。底と一緒に。……置いていくのは、覚えたものだ。この人じゃない。この人じゃ、ないだろ。
坂を、駆け上がった。白は、もう、ない。石が、ぜんぶ見える。灰色に、ところどころ、茶色。こんな色だったのか。
屋根の上で、手が、動いていた。しゃり。しゃり。糸をよる音が、戻っている。顔が、下を見た。ぼくを見て、手を止めない。
坂の上の、石の床。綴さんが、端に、立っていた。
絣が、横にいた。
「おれが連れた。あんたが置いてったから」
息が、抜けた。膝が、笑った。
絣は、ぼくの顔を見なかった。坂の下を見ていた。底があったほうを。なにも数えなかった。「で?」を、言わなかった。ぼくの横を通って、坂を下りていった。
綴さんは、顔を、こっちへ向けている。閉じたまぶたが、朝の中にある。
近づいた。手を、取らなかった。
ぼくを見たら。ゆうべみたいに、口の端が——
まぶたが、動いた。
持ち上がった。下から、目が出てくる。黒い。ぬれている。灯りが、小さく映っている。開いた。この人の目が。
「見えますか」
綴さんは、ぼくを見なかった。空を見た。灯りの並びを。それから、入り江を。
ぼくも、見た。白のない入り江。水の奥に、岸がある。岸の上に、屋根が並んでいる。小さい。遠い。あの日、暗かったところだ。今日は、空が薄い。それで、見えているのか。……分からない。
「……明るい、です」
見てる。見てるよ、この人。空、見てる。
綴さんの目が、ぼくに来た。
知らない目だった。
あ。……そっか。知ってた。知ってて、離したんだ。ゆうべ、好きです、って言ったのに。
はじめまして、が来ると思った。来なかった。口が、開いて、閉じた。ぼくの口も、はじ、まで動いて、閉じた。
一歩、引いた。この人の前から。近くにいたら、この人は、知らない子に困る顔をする。それは、見たくない。
綴さんは、ぼくから目を離して、町のほうへ、顔を向けた。屋根の手の音のほうへ。足の先で、石を探って、坂を下りはじめた。足の先で探る癖のまま。目は、石を見ている。
ぼくは、あとから、下りた。少し、離れて。
土間の戸口に、お甲さんがいた。皿を持って。綴さんに、差し出した。
「食え」
綴さんが、受け取った。お甲さんの匙の先が、ぼくに向いた。
「出さん」
匙を、腰に戻した。
弦八さんが、荷を担いで、坂を下りてきた。岸で、舟に積む。綱を、たぐる。頭が、乗っていた。
小さい体が、水のほうへ、身を折った。底があった、水のほうへ。深く。それから、舟は、白のない水の上を、向こうへ行った。
坂を、上がった。石の床を抜けて、通路の板。本の匂い。敷居の手前に、猫が、座っていた。目を、開けなかった。
戸は、閉じたままだ。隙間が、細く、明るい。ぼくが、戸の前まで、行っていないからだ。
座った。敷居の手前に。猫の隣に。猫は、動かなかった。
口の中で、言った。
〝にはこびがかりは、かおをあげて、はしを〟
喉が、閉まった。もう一回、頭から。
〝にはこびがかりは、かおをあげて、はしをわたりはじめた。〟
言えた。
うしろの、坂の下の、明るいほうに、あの人がいる。この一行を、もう、知らない人が。
読んだのは、もう、ぼくひとりだ。




