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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第31話「読めば」

朝、画面を開くと、あの着信が、まだいちばん上にあった。


巴《ともえ》、と出ている。字の形は、分かる。登録したのは、ぼくの指だ。


布団の上に座って、親指を、字の上に置いた。


この前は、ガラスの前で、ここで止まった。押せば、かかる。出たら、ぼくは呼び返せない。


字を見て、口を動かしてみる。


息。音にならない。あの日と同じだ。字は、ある。字の読みが、ぼくの口に、ない。


それでも、親指が押していた。聞きたかった。あの声で、名乗ってほしかった。呼び返せないまま聞くのが、こわかった。こわいより、聞きたいが、わずかに重かった。


呼び出しの音が、耳の中で続いて、止まった。


「おせえよ」


あいつの声が、耳に当たった。うしろで、靴の底がきゅっと鳴っている。体育館だ。朝練の、休みの時間。


「……」


息が、電話に入っただけだった。


「なんだよ。生きてんなら声出せ。おれの名前、言えんの? おまえ」


言えない。言えないのを、言えない。


電話を、耳から離した。画面が、顔の前に来た。字が、そこにある。字を見ながら、口を動かした。


「……巴」


出た。


喉の奥が、ぶるっと震えた。音だ。息じゃない。


「気持ちわりい。朝から名前呼ぶなよ」


あいつの声が、少し高くなっていた。


笑った。喉から、短く。電話の向こうでも、笑っている。ボールが、床を打っている。


「なんで、って顔してんだろ、おまえ。見えねえけど。……課題、やったか。先生がさ、おれに訊くんだよ。しおみは、って。おれが、おまえのかわりに、うなだれてんの」


「……ごめん」


電話を、耳に戻していた。字は、見ていない。ごめん、は、字がなくても出る。


「ごめんじゃねえよ。で、こっちはいつ来んの。新幹線代、貯めてんの」


来んの、の言い方が、夏と同じだった。あいつは、自分の用事を全部言って、こっちの返事を待たないで、切った。


なんで。


この前は、出なかった。同じ字で。なんで、は、あとだ。


画面を、伏せた。伏せたまま、言ってみる。


息だけが、出た。


ひっくり返して、見て、言う。出る。もう一度、伏せて、言う。出ない。


見ているあいだだけ、か。画面を持ったまま、しばらく動かなかった。


台所へ下りた。


母さんが、食卓で、役所の紙を見ていた。ぼくの茶碗は、もう出ている。味噌汁の湯気が、紙の上を横に流れていく。


「今月いっぱいで、戻るから。東京」


母さんは、顔を上げなかった。


「学校、もう休めない。先生から、来てる。この家のほうは、月末に、人に渡す」


「……うん」


うん、しか、出なかった。訊きたいことは、あった。いつ決めたの。この家の、なにが残るの。どれも、口まで来なかった。


「今月いっぱい。それで、終わり」


母さんが、紙を折った。それから、ぼくの顔を見た。見て、茶碗に飯をよそった。


「食べなさい。……あんた、朝から、誰かと話してた?」


「友だち」


茶碗を受け取った。湯気が、顔に来た。


「ふうん。名前、出た?」


「……読めば」


母さんは、意味を訊かなかった。箸を、ぼくの前に揃えて置いた。


玄関に、小さい箱が置いてある。帳面の箱だ。手で持って帰るぶんの。靴を履く場所の、すぐ横に、もう。


飯を食った。母さんは、折った紙を、また開いて見ていた。


終わり、と母さんは言った。終わるのは、この家だ。この家だけじゃない。戸も、だ。あの戸が開くのは、ぼくがここにいるあいだだけだ。来月のぼくは、東京にいる。


夕方まで、部屋にいた。机の上に、伏せたスマホがある。ときどき、ひっくり返して、見て、口の中で言って、また伏せた。


面倒な人間になった。それだけのことだ。


日が、低くなった。サンダルを履いて、アーケードに入った。


天井の隙間から、夕方の光が、床に落ちている。サンダルの音が、天井に返った。汀書房《みぎわしょぼう》の前で、足が止まった。


ガラスは、乾いていた。


奥は、ただ暗い。カーテンの色も、分からない。この前、ぼくがここを離れたときは、ガラスは濡れていた。


戸の前に、猫は、いなかった。


猫がいない戸は、閉まった古本屋の戸だ。日よけの布は、色が抜けている。張りが、ない。


ガラスに、ぼくが映っている。


「綴《つづり》さん」


声は、出た。あの人の名前は、出る。あの人のほうが、ぼくを知らないだけだ。ガラスは、乾いたままだった。


右の肩に、左の手を置いた。


冷たい。


手首は、もう、冷たくない。肘も、冷たくない。あの日、水は肘まで来て、ぼくの腕は、ぼくのところに戻ってきた。肩は、水に入れなかった。


服の上から、分かる。ここに、ひとつ、冷たいところがある。


押さえた。乾いたガラスの中の、ぼくの手が、同じところを押さえている。


見たい。開いて、坂を下りて、あの人の顔を見たい。知らない顔でも。知らない顔だから、こわい。見たいと、こわいが、同じ重さで、動かない。


戸は、乾いている。綴さんは、坂の下にいる。ぼくの話を、知らない顔で。


肩で、そこだけが、動かなかった。


まだ、ここだけは、冷たい。


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