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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第32話「向こう岸の人」

猫が、背中で戸を押した。


ガラスが濡れた日の夕方だった。乾いた日が、いくつか続いたあとだ。猫は、ぼくを下から一度見て、尻尾で床を打って、何も言わずに通路の板を先に歩いていく。


本の匂いが、土の匂いに変わった。坂の上に出た。


白が、ない。


あの朝も、見たはずだ。見ていなかった。綴《つづり》さんのことしか、見ていなかった。


坂の石が、下まで全部ある。灰色に、ところどころ茶色。その坂の下に、軒が並んで、軒の下に藍の布が干してある。


白の下に、ずっと、こんなものがあったのか。岸のそばに、舟が伏せてある。あの舟より、小さい。


「うわ」


声が、出た。出てから、口を押さえた。癖で、足音も消した。消す相手は、もう、いないのに。


屋根の上で、手が動いている。しゃり、しゃり、と、糸をよる音。空の灯りは、数のまま、そこにある。


坂を下りる。藍の布の下を通る。布を干していた女の人が、ぼくを見た。見て、布のほうへ目を戻す。向かいの軒の子どもは、ぼくを見て、家の中へ入っていった。


誰も、何も言わない。沈めた子、と言う人も、ありがとう、と言う人も、いない。客だ。ぼくは、ここでは、ただの客になった。


土間の戸口に、お甲《こう》さんがいた。


ぼくを見た。匙《さじ》を持った手が、腰に戻った。


「出さん」


うなずいた。頼んでいない。頼まなくても、出さん、は来る。


土間の奥から、桶を抱えた人が出てきた。水が入っている。重そうに、両手で。


綴さんだった。


目が、開いている。ぼくを見た。知らない目で。桶を火の脇に置いて、立ち上がって、袖の先を口に当てた。


「向こう岸の人は、ここにいてはいけないことになっているので」


同じだ。あの日と、一字も違わない。声を小さくしてください、は、なかった。ぼくが、先に小さくしていたからだ。


息が、止まった。止まってから、出た。


「……はい。知ってます」


あの日は、呼んだのはそっちだろ、と腹の中で言った。今日は、はい、だった。知っているのは、ぼくだけだ。


綴さんは、少し首をかしげて、桶のほうへ戻った。お甲さんが、綴さんに皿を出した。


「食え」


綴さんは、立ったまま、食べた。箸の動きが速い。この人が、こんなふうに食べるのを、見たことがなかった。


ここで、こうして見ていたい。……今月いっぱい、だ。


坂を、下りた。岸まで。


杭がある。板の岸がある。水の奥に、岸が見えている。屋根の並びが、小さく、遠く。煙が、細く上がっている。誰かが、あそこにいる。行ける、のか。あそこまで。


水のへりに立った。


あの日まで、書いたものは、この坂に現れた。綴さんが、先に白のへりに立って。白が、ないなら、どこに立ってもらえばいい。


うしろで、足音がした。足の先で、石を探る音。


綴さんが、空の桶を持って、下りてきた。水を汲みに。ぼくの横で、桶を傾けた。


口が、先に開いていた。


「綴さん」


名前は、出る。この人の名前は。


綴さんが、顔を上げた。知らない目が、ぼくを見た。


やめよう、と口が閉じかけた。……いや。頼みたい、だった。もう一回だけ、出したい。こわいのは、困る顔じゃない。この人が立っても、出なかったら。それが、本当の終わりだ。


「……そこに。水の、へりに。立ってもらえますか」


言ってから、耳が熱くなった。知らない人に、立ってくれと頼んでいる。理由も言わずに。


綴さんは、理由を訊かなかった。


「はい。ここで、いいですか」


綴さんは、桶を置きながら訊いた。


「はい。そこで」


桶を置いて、水のへりに立った。袖の先が、少し長い。あの日、白の上に余っていた袖だ。


あ。同じだ。喉が、鳴った。


スマホを出す。欄を開く。親指で、打った。


〝水の上に、道が出た。〟


送った。


水は、動かなかった。


音も、ない。綴さんの袖も、動かない。坂の上で、屋根の手が、しゃり、と一つ鳴った。それだけだ。


腕が、軽い。切られた日の、あの軽さだ。


肩まで来たら、次はない。あの日、この人の指が肩で止まったとき、もう知っていた。知っていたことを、今日、目で見た。


綴さんが、こっちを振り返った。


「なにか、ありましたか」


「……いえ。なにも」


「そうですか。水、汲んでいきます」


桶が、水に入る音がした。


「はい」


いえ、と、はい。それしか言えなかった。何もなかったのは、本当だ。この人は、桶を持ち直して、坂を上がっていく。ぼくに、頭を下げてから。


右の肩に、左手を置いた。


冷たい。ここだけが。


土間に戻ると、綴さんが、空いた皿を差し出して、お甲さんにまた飯を盛られていた。立ったまま、食べている。見られた。知らない目で。見られて、目をそらしたのは、ぼくだった。


絣《かすり》が、框に座って足を揺らしていた。ぼくを見て、口の端だけで笑った。


「で? 借り、残ってるからな。あんたの」


「数えないって、言った」


「あれは、あの日だけ。きょうから、また数える。桶、洗う。薪、運ぶ。おれのぶんも」


「なんで、おれのぶん」


絣は、足を揺らすのをやめなかった。


「借りだから」


押し切られた。絣は、笑い方を変えなかった。借り、と言ったとき、目が一度だけ、戸口の外へ行った。坂の下へ。


「あっちは。煙が、出てた」


「乗るなよ。おれは乗らねえ」


「訊いてるのは、そこじゃなくて」


絣が、ぼくの顔を覗いた。


「乗るなって言ってんの」


絣は、足を揺らした。


梁の上で、音がした。


見上げた。梁に、人が腰かけていた。あの日と同じ場所に。どっちの側にも、下りてこなかった人。名前を忘れた、と絣が言った人だ。自分の名前を。


その人が、梁から、足を下ろした。


下りてきた。背が高くて、袖の色が、誰よりも薄い。顔を見た。見たことのない顔だ。目が、ぼくの顔で止まらない。


目が、ぼくの右手で、止まった。


その人の右手を見た。何も持っていない。桶も、鋏も、糸も。それから、自分の右手を見た。同じだ。何も持っていない。


「……書いた子か」


低い、かすれた声だった。


ぼくは、答えなかった。答える前に、絣が、框から足を下ろした。


「残ると、ああなる」


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