第33話「写しの町」
薄くなった空の灯りが、水に、薄く映っていた。
たそかれの朝だ。絣の部屋の隅で目が覚めて、坂を下りてきた。残ると、ああなる、という声が、耳の奥に残ったままだ。
杭に、舟が着いている。弦八さんが、綱を解いていた。岸に、荷が積んである。藍の布の束と、桶。
水の奥に、屋根が見えている。小さく、遠く。煙は、今朝もある。
乗るなよ、と絣さんは言った。残ると、ああなる、とも。行ったら、残ることになるのか。分からない。分からないのに、煙から、目が離れない。
こわい。……いや。行きたい、が先だった。
「弦八さん」
声が、思ったより大きく出た。弦八さんは、綱から目を上げない。
「……向こう。行きたいです」
言ってから、顔が熱くなった。向こう、は違う。向こう岸は、ぼくのいた側のことだ。ここでは。言い間違えたまま、取り消せなかった。
弦八さんが、顎で、荷を示した。
「坊主。それ、持て」
布の束を、抱えた。重い。腕の中で、藍の匂いがする。乗せてくれる。礼を言いかけて、やめた。言っても、この人は返事をしない。
坂の上を、見た。土間の戸口に、絣さんが立っている。止めない。何も言わない。見ているだけだ。
舟に、足を下ろした。揺れた。荷を抱えたまま、座った。立ってはいられない。この前と同じだ。
弦八さんが、杭から張った綱をたぐる。舟が、進む。岸が、うしろへ下がる。坂が、下から上まで、一本で見える。
水の奥が、近づく。
屋根だ。岸から見るたび、小さく、遠かった屋根が、大きくなる。低い。横に、長く並んでいる。坂がない。
平らな岸に、平らな町が乗っている。朝の光が、屋根の上に、まっすぐ当たっている。暗いところだと、思っていた。
舟のへりを、握った。首が、伸びる。
「あそこ、何ですか。あの、屋根」
弦八さんは、綱をたぐる手を止めなかった。
「水の奥だ。写しの町、っつう。出された話が、紙で着く。それだけだ」
出された話。
出す。親指で押して、出す。向こうで、ぼくが、何度もしていたことだ。……ぼくの話だけじゃない。向こうで出された話は、いくらでもある。ここに着くのが、どの話かは、分からない。
「着くって、どこから」
弦八さんは、答えなかった。綱を引く手が、同じ間で動いている。訊いても、ここから先は出ない顔だ。
舟が、岸に当たった。
板じゃない。石を並べた岸だ。人が一人、立っていた。年寄りでも若くもない。荷を受け取る手だけ、前に出ている。顔は、ぼくを見ない。
弦八さんが、桶を渡す。ぼくも、布の束を渡した。受け取った手が、重さに少し沈んだ。
「ついてこい。見るだけだぞ」
弦八さんが、先に歩く。ぼくは、あとから。
平らだ。足が、石を探る。ないはずの坂を、膝が上がって探す。歩きにくい。
戸口が、並んでいる。戸口ごとに、人が、座っている。
座って、紙に、字を書いている。
左に、一枚。右に、一枚。左を見て、右に書く。どの戸口でも、同じだ。筆の先が紙をこする音が、道の両側から、薄く、ずっと、している。
写している。
墨の匂い。紙の匂い。戸口の一つに、硯が置いてある。角が、欠けている。欠けたまま、使っている。写し終えた右の紙を、その人が、隣の戸口へ差し出した。受け取った人が、読みはじめる。
「え。……全部? この道、全部、写してるんですか。なにを。誰の」
「ああ」
「読まないで、写すんですか」
弦八さんが、はじめて、ぼくを見た。
「読むから、写すんだろうが」
それだけで、前を向いた。
読んだ人が、座っている。この道の、戸口の数だけ。
町の奥から、音がした。大きい。乾いた。鋏の音だ。紙を切る音を、ずっと大きくした音。一度だけ鳴って、やんだ。弦八さんは、そっちを見なかった。ぼくも、見なかったことにした。
一軒の戸口の前で、足が止まった。
座っている人の、手もとだ。左の紙。字の形は、知らない。画面の字でもない。人の手の字だ。それでも、並びに、見覚えがある。
荷運び係は、と、はじまっている。
息が、止まった。
荷運び係が、荷の紐がゆるんでいるのに気づく。黙って結び直して、渡す。そのあとに、一行。
顔は、上げなかった。
長すぎた後ろの半分を消して、前の半分だけを入れた、あの一行だ。結び目がきれいです、と、綴さんが書いてくれた、あの場面だ。
指が、紙のほうへ伸びていた。
「これ、ぼくの」
声が、出た。小さくなかった。言ってから、まわりを見た。誰も、こっちを見ていなかった。
座っている人は、顔を上げなかった。左を見て、右に書く。筆が止まらない。顔は、上げなかった。ぼくが書いた、あの一行のとおりに。
弦八さんが、戻ってきて、ぼくの肩に手を置いた。右の肩だ。重い手だった。冷たいところは、冷たいままで、重さだけが、上に乗った。
「見るだけだ、坊主」
伸びていた指を、引いた。
取られた、が先に来た。来てから、違う、と思い直した。取られたんじゃない。読まれてる。いま、この手の下で。
右の紙の上で、筆が、結び目のところに来た。知らない人の手が、結び目、と書いた。きれいな字じゃない。少し、斜めだ。それでも、ぼくが何度も直した場所だ。
喉の奥が、鳴った。
人の手の字で、ぼくの話が、ここにあった。




