第34話「続きは」
椀が、板の上に置かれた。
音が、低い。厚い椀だ。中は、薄い粥だった。湯気が、立っている。
写しの町の、一軒の土間だ。さっきまで、道の戸口で、知らない人の手が、ぼくの話を写していた。結び目、と書いていた。それを見終えたあと、弦八さんが、顎で、ぼくをこの戸口に入れた。
「食っていけ」とは、弦八さんは言わなかった。椀を置いた人が、そう言った。
弦八さんは、戸口の外の石に腰を下ろして、持ってきた握り飯を食べている。中には、入ってこない。
年寄りの男の人だった。背が低くて、指が墨で黒い。向かいに座って、自分の椀を持った。ぼくの右手を、見なかった。頭も、梁の人も、まずそこを見たのに。
粥を、口に入れた。薄い。塩が、ほとんどない。お甲さんの飯は、塩が強かった。あれは、綴さんの分だった。これは、ぼくの分だ。誰の分でもない椀を、もらった。湯気が、顔に来る。熱い。もう一口、入れた。
「向こうの子か」
「……はい」
「弦八の舟で来る子は、たいがい、読みに来る」
読みに。読むだけ? 書かないで? この人の指、墨で真っ黒なのに。
戸口の外を見た。弦八さんは、握り飯を食べている。こっちを見ない。書いた子だ、とは、この人に言っていないのだ。
「このごろ、何べんも着く話がある。荷運びの話だ。あんたも、向こうで読んだか」
匙が、止まった。
「……はい。読みました」
読んだ。何度も。そのあとに続くはずの言葉が、口の中に、形だけある。
「来るたび、少し違う」
年寄りが、粥をすすった。
「前のと、どこが違うか。見つけるのが、楽しみでな」
膝の横に、紙の束があった。年寄りは、椀を置いて、束から紙を抜いた。板の上に、並べる。左と、右。墨の色が、少し違う。
指が、右の紙の、ある行を、とん、と叩いた。
「ここだ。前のには、この行が、なかった」
顔は、上げなかった。
その行だ。ぼくが足して、半分にして、入れた行。上書きして消した前の版が、左にある。ぼくの手の中には、もう、どこにもない版が。
匙を、握り直していた。全部? 消したのも? 声に出ていないか、年寄りの顔を見た。年寄りは、紙を見ていた。
「直す人だな。書いた人は」
喉が、動いた。粥が、下りない。
言いたかった。ぼくの、って。言え。ぼくです。直したのは、ぼくです。
口が、開いた。
「ぼ」
そこで、閉じた。
こわい。言ったら、この人は、ぼくの顔を見る。書いた人の顔を。書いた人なら、この続きを、知っていなきゃいけない。
年寄りは、ぼ、を聞かなかったように、紙を束に戻した。
「あんたは、次、どうなると思う」
訊かれた。読んだ人として。言わなくても、訊かれた。
匙を、椀の中に置いた。音がした。年寄りは、待っている。急がない顔で。
「……続きは、ないです」
言った。言ってから、椀を持ち直した。粥が、ぬるい。
嘘だ。半分だけ。続きがないのは、ほんとうだ。書けないんだから。でも、ない、って言ったのは、読んだ人の口だ。書いた人なら、まだ、って言わなきゃいけなかった。
年寄りは、うなずいた。
「ないか」
束を、両手で持ち上げて、端を揃えた。一枚ずつでなく、束のまま、板の上で、とん、と。
「待つのは、慣れとる」
言って、束を膝の横に戻した。
椀の縁を、親指で押さえていた。待ってる。この人は、ぼくの続きを、待ってる。ない、って言ったのに。
どういう顔で言ったのか、見られなかった。見たら、ぼくです、が出る。
粥を、全部食べた。薄い粥を、全部。椀の底に、米が残った。指で取って、食べた。
「ごちそうさまでした」
年寄りは、うなずいただけだった。この町でも、礼は、返ってこない。それでも、言えた。
椀を戻しに、土間の奥へ行った。板の横に、低い棚がある。椀を置く手が、途中で止まった。
本が、何冊か、横に積んである。この町の本は、写した紙を束ねたものだと思っていた。違う。背がある。表紙がある。いちばん上の一冊は、裏返しに置かれていた。裏の表紙が、上を向いている。
その隅に、小さい紙が貼ってある。
白い、小さい紙。印が押してある。汀書房。
読めた。読んでから、息を吸った。
あの店の、値札だ。閉まる前の、あの店で、売られていた本だ。ぼくは、あの店が開いているのを、見たことがない。それが、水の奥の、この棚にある。
秋良さんの声が、来た。親父さんは、奥で、本を読む声がしとった。表まで聞こえた、と。
訊けば、この年寄りは、答えるかもしれない。答えないかもしれない。訊いたら、ぼくも訊かれる。あんたは、誰だ、と。訊いたら、さっきの、ないです、まで、ほどける。
訊かなかった。
値札の角が、めくれている。糊が、乾いて、浮いている。めくれた角を、指で押さえたくなった。押さえなかった。
戸口の外で、弦八さんが、立ち上がる音がした。
「坊主。戻るぞ」




