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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第8話「上」

戸口の外に、坊主頭が立っていた。


屋根の上にいる人だと思っていた。坊主頭は、ぼくを見なかった。ぼくのうしろの、綴《つづり》を見ていた。


「上が呼んどる。読んだ子を、連れてこいと言っとる」


綴が、立った。袖の中の手を、袖の中で握ったのが、布の動きで分かった。


は? 読んだ子? 書いたのはぼくだろ。橋を出したのも、渡し場を割ったのも、ぼくだ。それで呼ばれるのが、この子なのか。


「ぼくが行きます」


言ってから、背中が、戸口のほうへ固くなった。坊主頭は、ぼくを見て、綴を見た。


「向こう岸の子。……上が呼んどるのは、読んだ子だ」


「それでも、行きます」


坊主頭は、返事をしなかった。外へ歩き出した。ついていった。綴も、来た。


坂の上の、外れ。町の屋根が切れて、石だけになったところに、綱が一本、下りていた。上を見た。糸巻きよりも高い、あの灯りのひと並びのところから、下りている。


「これで、上まで? 登るんですか」


「登らん。乗るんだ。手を離すな」


坊主頭が、綱の先の輪を、ぼくの腰に回した。


「呼ばれとるのは、一人だ」


綴が、綱の余りを取った。自分の腰に、回して、結んだ。


「わたしも、行きます」


坊主頭は、それを見ただけだった。止めなかった。


綱が、引かれた。足が、石から離れた。


町が、下へ沈んでいく。屋根の上の人たちは、下を向いたままだ。


ひとりだけ、上を見ている顔があった。絣《かすり》だった。もう戻って、屋根のへりに座っている。口が開いたまま、小さくなって、屋根の中に混じった。


坂の下が、見えた。霧の帯。その中に、まっすぐな、一本の線が、うすく透けている。


ぼくの橋だ。


水の上に、一本。霧の中まで。ぼくが書いたものが、この町の一部になって、下にある。


こわいはずの高さで、喉が、鳴った。笑いの、手前の音だ。


やばい。笑ってる。人の町の板を割った橋なのに、上から見たら、まっすぐで、ぼくのだ。こんなときに笑ってる自分が、こわい。でも、止まらなかった。


綴が、それを見ていた。目を、伏せなかった。


糸巻きの横を通って、その上に出た。巻かれている糸が、うすく光っていた。町を夕方の色に染めていた光は、これだったんだ。いまは、まだ弱い。


床があった。空の上に、板の床が、横に長く渡っている。綱の端を、うしろで、誰かが押さえていた。床のへりに、光る糸の束が、並んで掛かっている。ひと並びの灯りは、火ではなくて、これだった。


老人が、座っていた。まんなかに一人、その両脇にも。下から上がってくる糸を巻いて、束にして、へりに掛けている。


綴の袖が、ぼくの腕に触れた。袖の先が、隣り合った二つの束を指している。ほかの束と、同じに見える。


「今日、増えた二つです。あなたの。道の分と、橋の分です」


小さい声だった。


ぼくの一行だ。打って、消えて、思い出せなくなった一行が、ここに、巻かれて、光ってる。読まれたってこと? 違う、巻かれてるだけだ。ぼくにだって、もう読めないんだ。分かってるのに、目が、そこから離れない。


まんなかの老人が、手を止めないで言った。


「下の者が、言いに来た。向こう岸の子に書かせて、読んだ子がいる、と」


声は、低くて、疲れていた。怒ってはいなかった。


「ここでは、書かれたものは、誰も読まずに巻く。読む子がいれば、書く子は、書きつづける」


「読んだ子は、目を閉じさせる。書く子は、書く手を切る。前の子たちも、そうした。それきりだ」


目を閉じさせる。目。土間で布を当てていた、あの目のことか。綴さんの。


「切る、って。ぼくの手を、ですか」


「書く手だ」


右手が、勝手に丸まった。親指の腹が、人差し指を探していた。


手。手を切る。無理無理無理。書けなくなる。書けなくなるっていうのは、つまり、続きが。


「いやです」


声が、出ていた。


「いやです。切らないでください。もう書きません。書かないから、帰してください」


綱の輪に、手をかけた。下りる。下りて、戸まで走って、帰る。そう思って、綱を引いた。綱は、びくとも動かない。うしろにいた誰かの手が、ぼくの肩を、上から押さえた。動けなかった。


「書かん、と言った子は、書いた」


老人は、手を止めない。


綴が、前に出た。


「わたしが、書かせました。この人に、書いてほしくて、呼んだのは、わたしです」


袖が、震えていなかった。震えていないのが、こわかった。


「やめてください。綴さんは関係ない。書いたのはぼくです。呼ばれたから来ただけで、綴さんは、書くなって言ったんです。何回も」


老人は、綴も、ぼくも、見なかった。糸を巻いていた。


通らない。なにを言っても、通らない。いやだと言っても、綴さんが庇っても、この人たちは、手を止めない。


読む子がいるから、書きつづける。上は、そう言った。だったら。


「待って。待ってください」


割り込んでいた。声が、大きかった。老人たちの手が、はじめて、止まった。


「交換、できますか。これから書くのは、綴さんに、読ませません。書いたものは、そのまま、上に納まればいい。目を、閉じさせないでください。手も、切らないでください。だから、」


そこで、切れた。


言おうとしていることは、分かっていた。分かっていて、口が、そこで止まった。ゆうべの土間で、橋、ですか、と言った声が、耳に残っていた。


「……最初に読むのは、綴さんじゃなくて、いいです。誰も読まなくて、いいです」


言ってから、足の裏が、冷たくなった。


綴が、ぼくを見た。口は、閉じたままだった。


老人たちも、黙っている。


なにか言えよ。いいとか、だめとか。言ってくれよ。


まんなかの老人の手が、動きだした。糸を巻く。隣の老人も、巻く。


光る束は、ひとつも、変わらない。受けたとも、断ったとも、言わない。


綱が、下りはじめた。


床が、遠くなる。綴は、隣で、下を見ていた。


石に、足が着いた。坊主頭が、輪をほどいて、屋根へ戻った。


坂は、綴が先だった。


なんで言ったんだ。言うしかなかった。切られるところだったんだぞ。でも、言ったのはぼくだ。この人が最初に読むのを、この人の前で、いらないって言った。


綴さんは、なんで黙ってるんだ。怒ってくれよ。


「綴さん」


背中が、止まった。ふり向かない。言うことがあったのに、出てきたのは、別のだった。


「……サンダル、まだ、ありますか」


背中が、また歩き出した。なんでそれなんだよ。


坂を上りきると、本棚のあいだの通路があった。向こうの端が、夕方の色に明るい。


綴が、立ち止まった。袖から、サンダルを出した。両方。ぼくの前に、そろえて置いた。


袖から出た指が、橋のときより、薄かった。


土間の火で見たときは、ふつうの色だった。橋で、白くなった。いまは、薄い。向こうの本棚の色が、指の先に、すこし、透けている。


え。


「綴さん、その指」


「帰ってください。明るいうちに」


言えなかった。それ以上、なにも。サンダルを、履いた。


綴は、坂を下りていった。


猫が、敷居に座っていた。


「下りたな。開けねえと言った。だが、上が切らなかった。なら、今日は開けてやる、坊主。明日は、知らねえ」


それだけ言って、背中で戸を押した。


戸が動いた。うしろで、閉まる音がした。商店街に、出ていた。夕陽が、入ったときと同じ高さで差していた。


ポケットのスマホが震えた。出すと、母さんからの、新しいメッセージだった。


歩いた。サンダルの底が、床を叩いた。


足音が、天井から返ってきた。


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