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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第7話「橋」

猫が消えた戸口から、坂の下を見ていた。


見に行くだけだ。書いたものが、そこに出てるんだ。橋が。ぼくの。入らなければ、消えない。見るだけなら、一行は残る。一度でいいから見たい。


下るな、って言われた。二人からだ。お甲《こう》さんは、上の者でも下りない、と言った。猫は、下りたら次の日の戸は開けない、と言った。次の日、帰れなくなる。次の日だけじゃないかもしれない。前の人は、戻らなかった。


じゃあ、行かない。それでいい。見なくていい。橋なんて。


……無理だ。だって、あれは、ぼくがずっと書けなかった話の続きなんだよ。それが、いま、水の上にあるんだよ。見ないで寝られる人がいたら、教えてほしい。


でも、ぼくは、自分の書いたものに、最初には入れない。


隣を見た。綴《つづり》は、目に布を当てて、横になっている。起こすのか。この人を。ぼくのせいでただじゃ済まないって言われてる人を、夜中に、禁じられた霧の中へ、先に立たせるのか。


ひどい。それは、ひどいだろ。分かってる。


「綴さん」


小さく呼んだ。布が、動いた。


「起きてますか」


「起きています」


声が、火の残りの向こうから返ってきた。


「霧の下に、行きたいんです。橋を、見に。入りません。見るだけです。一度だけ」


綴は、布を取った。火の残りで、目だけが見えた。


「だめです」


綴は、はっきり言った。


「下るなと、お甲さんが言いました。猫も言いました。わたしも、言います。だめです」


「見るだけです。渡らない。触らない。見て、戻る」


「見るだけで済んだ人を、わたしは知りません」


前の人のことだ。分かる。分かるけど。ぼくは言い返した。


「じゃあ、ぼくひとりで行きます。書いた人は最初に入れないって言ってたけど、それでも、行きます」


「入れません。道が、開かないんです。あなたひとりでは、霧の前で止まります」


「だったら」


言葉が、そこで止まった。だったら、綴さんが先に立ってください。そう言おうとして、口が止まった。それを言うのは、ひどい。


言った。


「先に、立ってください。お願いします」


言ってしまった。知っていて、頼んだ。ぼくが最初に入れないから、この人を先に行かせるって、いま、自分の口で言ったんだ。


綴は、しばらく、ぼくの顔を見ていた。袖の中で、指が、握られた。


「……見るだけなら、消えない、と思っているんですね」


「はい」


「分かりました。でも、わたしが先です。わたしが止まれと言ったら、止まってください」


「はい」


綴は、布を袖に入れて、立った。絣《かすり》は、隅で寝息を立てている。お甲さんの気配は、奥にはなかった。


坂を、下りた。裸足で。


空が濃くなった坂は、石が冷たくて、影がない。町じゅうの音が消えていて、ぼくの息だけが、うるさい。屋根の上の顔は、暗くて見えない。見えないのに、見られている気がして、首の後ろが、ずっと冷たかった。


坂の途中で、足が止まった。膝が、笑っている。寒いからじゃない。


こわい。こわいなら、戻ればいい。いま戻れば、明日の戸は開く。帰れる。


綴の背中が、数歩先で止まって、待っていた。振り向かない。急かさない。待っているだけだ。待たれると、戻れない。


戻らなかった。足を、前へ。


坂の下で、綴が先に、霧に入った。追った。


入り江だった。ぼくが書いたのと、同じだ。さっき書いた道が、右へ、霧の中へ続いている。今夜は、そっちじゃない。動かない水のへりに、板を突き出した場所がある。舟をつける場所だ、と綴が小さく言った。


綴が先に立つと、霧が、線にへこんだ。


へこんだ底に、板が並んでいた。板の下に、脚が立っている。水の上を、まっすぐ、霧の中まで。


橋だった。もう、あった。書いたときから、ここにあったんだ。


ある。ほんとにある。ぼくの橋だ。歯の裏で、息が鳴った。


橋の手前の脚が、板を突き出した場所を、まっすぐ踏み抜いていた。割れた板が、脚のまわりに、浮いている。近づいて、足をかけた。残っていた板が、はずれて、落ちた。音が、入り江から、坂の上まで上がった。


え。


屋根の上で、坂の上から順に、なにかが動いた。暗い屋根の上に、影が、ひとつ、ふたつ、立ち上がる。


「壊した。ぼくが。書いたときに、もう、壊してたんだ。あれ、なんですか。舟のって、言いましたよね。直せますか。消せますか。書き直せば」


「消せません。書かれたものは、消せません」


坊主頭が、いちばん近い屋根の縁まで出てきた。近いから、見えた。口を、開けた。「渡し場が」。それだけ言って、自分の口を、手のひらでふさいだ。橋を見たまま、動かなかった。


ほかの屋根でも、影が、立ちはじめた。誰も、声を出さなかった。大勢の影が、立っていた。


「渡し場でした。舟が着く場所です。この町の人が、向こう岸から流れてくる物を受け取る、ただひとつの場所でした」


でした。もう、着けない。ぼくが書いたから。壊した。人の町の、たったひとつの舟の着くところを。


屋根の影の一つが、両手に、なにかを抱えていた。荷だ。舟に、載せるはずのものだ。抱えたまま、下ろさない。下ろす場所が、いまなくなった。ぼくが、書いた一行で。膝が、また笑いはじめた。


それでも、目は、橋のほうへ行く。


水の上に、まっすぐ、霧の中まで。誰も渡ってない。それでも、ある。ぼくのだ。


口が、横に広がりかけて、止まった。笑うな。いま笑うな。板を割った音、まだ坂の上に残ってるだろ。なんで笑いそうになるんだ。壊したんだぞ。壊したのに、きれいなんだよ。最悪だ。


綴が、先に、橋の一枚目に足を置いた。見るだけ、と言ったのに。ぼくの足も、勝手に出ていた。板は、鳴らなかった。入った。いま、入った。


「板の橋です。書いたとおりの」


綴が、小さく言った。それから、袖から手を出して、脚のそばに浮いた割れた板に触れた。袖から出た指に、上の灯りが当たっていた。白かった。土間の火で見たときより、白い。


「綴さん、指」


「戻りましょう」


指のことは、答えなかった。答えないと決めている顔だった。訊けなかった。


スマホを見た。橋の一行は、ない。知らせの一覧を出すと、母さんのが、まだ、いちばん上にあった。開けなかった。


打ち直せるか、やってみなかった。やる前に分かる指に、なっていた。これ、続くんだ。書くたびに、こうなるんだ。書いて、出て、消えて、ぼくの頭からもなくなって、そのたびに、この人の指が。


帰りの坂は、綴の背中しか見なかった。背中に、訊きたいことがいくつもあって、ぜんぶ、口の手前で止まった。


土間に戻った。絣の寝息が、止まっていた。目を閉じているのか、開けているのか、暗くて分からなかった。


横になった。眠れるわけがなかった。眠っていた。


目が覚めると、火が消えていた。空が、薄くなっている。糸巻きが、色の抜けた木の色をしていた。


隅に、絣がいなかった。


お甲さんが、火のあとのそばに立っていた。ぼくを見て、戸口の外を見た。


「絣は、どこですか」


「上だよ。綱が下りた。あの子は、言いに行った」


言いに行った。上に。ぼくのことを。ゆうべの音のことを。


戸口から、外を見た。


糸巻きの向こうの、灯りのひと並びを、端から端まで、目で追った。追いたくなったのだ。どれかが、ぼくの橋だ。


そのひと並びが、ぜんぶ、こっちを向いていた。戸口に、向いていた。


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