第7話「橋」
猫が消えた戸口から、坂の下を見ていた。
見に行くだけだ。書いたものが、そこに出てるんだ。橋が。ぼくの。入らなければ、消えない。見るだけなら、一行は残る。一度でいいから見たい。
下るな、って言われた。二人からだ。お甲さんは、上の者でも下りない、と言った。猫は、下りたら次の日の戸は開けない、と言った。次の日、帰れなくなる。次の日だけじゃないかもしれない。前の人は、戻らなかった。
じゃあ、行かない。それでいい。見なくていい。橋なんて。
……無理だ。だって、あれは、ぼくがずっと書けなかった話の続きなんだよ。それが、いま、水の上にあるんだよ。見ないで寝られる人がいたら、教えてほしい。
でも、ぼくは、自分の書いたものに、最初には入れない。
隣を見た。綴は、目に布を当てて、横になっている。起こすのか。この人を。ぼくのせいでただじゃ済まないって言われてる人を、夜中に、禁じられた霧の中へ、先に立たせるのか。
ひどい。それは、ひどいだろ。分かってる。
「綴さん」
小さく呼んだ。布が、動いた。
「起きてますか」
「起きています」
声が、火の残りの向こうから返ってきた。
「霧の下に、行きたいんです。橋を、見に。入りません。見るだけです。一度だけ」
綴は、布を取った。火の残りで、目だけが見えた。
「だめです」
綴は、はっきり言った。
「下るなと、お甲さんが言いました。猫も言いました。わたしも、言います。だめです」
「見るだけです。渡らない。触らない。見て、戻る」
「見るだけで済んだ人を、わたしは知りません」
前の人のことだ。分かる。分かるけど。ぼくは言い返した。
「じゃあ、ぼくひとりで行きます。書いた人は最初に入れないって言ってたけど、それでも、行きます」
「入れません。道が、開かないんです。あなたひとりでは、霧の前で止まります」
「だったら」
言葉が、そこで止まった。だったら、綴さんが先に立ってください。そう言おうとして、口が止まった。それを言うのは、ひどい。
言った。
「先に、立ってください。お願いします」
言ってしまった。知っていて、頼んだ。ぼくが最初に入れないから、この人を先に行かせるって、いま、自分の口で言ったんだ。
綴は、しばらく、ぼくの顔を見ていた。袖の中で、指が、握られた。
「……見るだけなら、消えない、と思っているんですね」
「はい」
「分かりました。でも、わたしが先です。わたしが止まれと言ったら、止まってください」
「はい」
綴は、布を袖に入れて、立った。絣は、隅で寝息を立てている。お甲さんの気配は、奥にはなかった。
坂を、下りた。裸足で。
空が濃くなった坂は、石が冷たくて、影がない。町じゅうの音が消えていて、ぼくの息だけが、うるさい。屋根の上の顔は、暗くて見えない。見えないのに、見られている気がして、首の後ろが、ずっと冷たかった。
坂の途中で、足が止まった。膝が、笑っている。寒いからじゃない。
こわい。こわいなら、戻ればいい。いま戻れば、明日の戸は開く。帰れる。
綴の背中が、数歩先で止まって、待っていた。振り向かない。急かさない。待っているだけだ。待たれると、戻れない。
戻らなかった。足を、前へ。
坂の下で、綴が先に、霧に入った。追った。
入り江だった。ぼくが書いたのと、同じだ。さっき書いた道が、右へ、霧の中へ続いている。今夜は、そっちじゃない。動かない水のへりに、板を突き出した場所がある。舟をつける場所だ、と綴が小さく言った。
綴が先に立つと、霧が、線にへこんだ。
へこんだ底に、板が並んでいた。板の下に、脚が立っている。水の上を、まっすぐ、霧の中まで。
橋だった。もう、あった。書いたときから、ここにあったんだ。
ある。ほんとにある。ぼくの橋だ。歯の裏で、息が鳴った。
橋の手前の脚が、板を突き出した場所を、まっすぐ踏み抜いていた。割れた板が、脚のまわりに、浮いている。近づいて、足をかけた。残っていた板が、はずれて、落ちた。音が、入り江から、坂の上まで上がった。
え。
屋根の上で、坂の上から順に、なにかが動いた。暗い屋根の上に、影が、ひとつ、ふたつ、立ち上がる。
「壊した。ぼくが。書いたときに、もう、壊してたんだ。あれ、なんですか。舟のって、言いましたよね。直せますか。消せますか。書き直せば」
「消せません。書かれたものは、消せません」
坊主頭が、いちばん近い屋根の縁まで出てきた。近いから、見えた。口を、開けた。「渡し場が」。それだけ言って、自分の口を、手のひらでふさいだ。橋を見たまま、動かなかった。
ほかの屋根でも、影が、立ちはじめた。誰も、声を出さなかった。大勢の影が、立っていた。
「渡し場でした。舟が着く場所です。この町の人が、向こう岸から流れてくる物を受け取る、ただひとつの場所でした」
でした。もう、着けない。ぼくが書いたから。壊した。人の町の、たったひとつの舟の着くところを。
屋根の影の一つが、両手に、なにかを抱えていた。荷だ。舟に、載せるはずのものだ。抱えたまま、下ろさない。下ろす場所が、いまなくなった。ぼくが、書いた一行で。膝が、また笑いはじめた。
それでも、目は、橋のほうへ行く。
水の上に、まっすぐ、霧の中まで。誰も渡ってない。それでも、ある。ぼくのだ。
口が、横に広がりかけて、止まった。笑うな。いま笑うな。板を割った音、まだ坂の上に残ってるだろ。なんで笑いそうになるんだ。壊したんだぞ。壊したのに、きれいなんだよ。最悪だ。
綴が、先に、橋の一枚目に足を置いた。見るだけ、と言ったのに。ぼくの足も、勝手に出ていた。板は、鳴らなかった。入った。いま、入った。
「板の橋です。書いたとおりの」
綴が、小さく言った。それから、袖から手を出して、脚のそばに浮いた割れた板に触れた。袖から出た指に、上の灯りが当たっていた。白かった。土間の火で見たときより、白い。
「綴さん、指」
「戻りましょう」
指のことは、答えなかった。答えないと決めている顔だった。訊けなかった。
スマホを見た。橋の一行は、ない。知らせの一覧を出すと、母さんのが、まだ、いちばん上にあった。開けなかった。
打ち直せるか、やってみなかった。やる前に分かる指に、なっていた。これ、続くんだ。書くたびに、こうなるんだ。書いて、出て、消えて、ぼくの頭からもなくなって、そのたびに、この人の指が。
帰りの坂は、綴の背中しか見なかった。背中に、訊きたいことがいくつもあって、ぜんぶ、口の手前で止まった。
土間に戻った。絣の寝息が、止まっていた。目を閉じているのか、開けているのか、暗くて分からなかった。
横になった。眠れるわけがなかった。眠っていた。
目が覚めると、火が消えていた。空が、薄くなっている。糸巻きが、色の抜けた木の色をしていた。
隅に、絣がいなかった。
お甲さんが、火のあとのそばに立っていた。ぼくを見て、戸口の外を見た。
「絣は、どこですか」
「上だよ。綱が下りた。あの子は、言いに行った」
言いに行った。上に。ぼくのことを。ゆうべの音のことを。
戸口から、外を見た。
糸巻きの向こうの、灯りのひと並びを、端から端まで、目で追った。追いたくなったのだ。どれかが、ぼくの橋だ。
そのひと並びが、ぜんぶ、こっちを向いていた。戸口に、向いていた。




