第6話「置くのは今夜だけ」
足音の主は、腕を肩まで、藍で濡らした女の人だった。片手の皿に、火があった。
坂を下りてきて、ぼくらの前で足を止めて、腰から木の匙を抜いて、その先で、ぼくの足を指した。
「向こう岸の子か。裸足で分かる」
その人の足には、布の履き物があった。隣で、綴が頭を下げた。女の人は、ぼくの顔を、上から下まで見た。
「置くのは、今夜だけだ。上に知れたら、あんたも綴も、ただでは済まない」
「上に知れたら、どうなるんですか」
匙が、ぼくの口を指した。
「口は出すな。飯も出さん。ついてきな」
それから、目だけが、ぼくの腹に下りた。
「腹は、減ってるのか」
答える前に、鳴った。
あんたも、綴も。綴も? ぼくのせいで、この子まで? そう思うより先に、見つかったらどうなるんだ、って自分のことを考えてる自分がいて、そっちのほうが声が大きかった。
坂を少し上った。坂に沿って立っている大きな建物の、戸口をまたいだ。先は、土だった。天井が低くて、まんなかに火がある。飯と、魚を炙るにおい。
奥に、ぼくと同じくらいの背の子がいた。桶を洗っている。ぼくの裸足を見て、それから、綴を見た。
「向こう岸のやつだろ、それ。なんで置くんだよ。置くなって、上が言ってるじゃん」
「絣」
女の人が、火の向こうから呼んだ。お甲さん、という名前だと、綴が小さく教えてくれた。絣は、桶を洗う手を止めずに言った。
「上に言うぞ。おれが言わなくても、誰か言うぞ」
お甲さんは、火から目を離さなかった。
「言えば、置いた家の子のあんたも、同じ目にあう。それでいいのか」
絣は、答えなかった。お甲さんは、板の上に皿を置いた。握り飯がひとつ。
「綴の分だ。よそ者に飯は出さん」
綴が、割った。火のそばの指が、ふつうの手の色をしていた。半分を、ぼくの前に置いた。
飯は出さん、って、いま言ったじゃないか。これは綴の分だ。もらえない。もらえるわけがない。この人、ぼくのせいでただじゃ済まないって言われてる人なんだよ。その人の飯を、半分。
手のほうが、先に伸びていた。塩が強くて、まだ、ぬるかった。うまい。うまいんだ。
絣が、桶の水を捨てながら言った。
「で? いつまでいるんだよ。今夜だけって言って居座るやつ、おれ知ってるからな。明日の朝いたら、桶を洗わせるぞ。おれのぶんも」
「今夜だけです。……たぶん」
絣は鼻で笑った。
「たぶんって言った。おれ、聞いたぞ」
なんだこいつ。ぼくと同じ背で、なんで一言でそこを拾うんだ。
言い返せなかった。たぶん、って言ったのはぼくだ。帰れるかどうか、猫が決める。今夜だけです、と言い切れる立場じゃなかった。
火のそばに座らされた。土が、まだ湿っていた。綴が、隣に座った。
「綴さん。上って、なんなんですか。ちゃんと教えてください。ぼく、なにをしたら、ただじゃ済まないんですか」
綴は、袖の中で手を組んで、少し考えてから、話した。
「坂で言った、灯りの人たちです。町の人がよった糸も、あそこで巻かれます」
「ぼくの一行も、あの中に、あるんですか」
綴は、うなずいた。
「はい。今日、ひとつ増えたはずです」
戸口から見上げた。屋根のあいだに、灯りの並びが、切れ切れに見えた。
「上の人たちは、向こう岸の子が書くのを、嫌います。読む人がいると、書く人は止まりません。書かれたものは、この町に現れて、町を変えます。前に書いた人は、それで、戻れなくなりました」
「戻れなくなった、って、どうやって」
綴は、答えなかった。袖の中の手が、動いた。
「そこは、答えないんですね」
「答えないほうが、いいと思っています。今は」
今は。今は、か。
戸口の外が、いちだんと暗くなった。お甲さんが、顎で外を示した。
「空が濃くなったら、霧へ下りるな。水のほうだ。さっき下りたのは、聞いていた。二度目はない。上の者でも下りん。下りたくなるのが、向こう岸の子だ」
「下ると、どうなるんですか」
お甲さんは、火を見たまま言った。
「口は出すな、と言ったろう」
火が、爆ぜた。お甲さんは奥へ行った。絣が顎で隅を示した。
綴が、目に当てる布を、袖から出した。出したまま、こっちを見た。
「向こう岸は、いま、夏ですか」
「夏。夏休み。蝉がうるさくて、夜もぬるい」
「蝉」
綴は、その一語だけ繰り返して、布を目に当てた。蝉を知らないのか、知っていて言ったのか、分からなかった。
外は、音がなかった。屋根の上の乾いた音も、蝉も。糸巻きは、形だけになっている。
眠れなかった。スマホの続きを開いた。最後の行の下に、指を置いた。
打てなかった。一文字も。
なんで。きょう出ただろ。道になっただろ。あれは、もうない。一度出たんだから、次も出るはずだろ。ここに来れば動くって思ってたのに、動いて、消えて、また止まるのかよ。
打てば、また出る。出たら、また消える。消えるのに、打つのか。打たなければ、この人に見せるものがない。見せたい。見せたくて来たんだ。それしかないのに、指が、動かない。
母さんの時間は、止まってる。止まってるなら、いま打っても、誰も困らない。……それ、いま自分で言うか。
前の話を直しては消してきた夜と、同じ指だ。
顔を上げた。
綴が、目に当てていた布を、取っていた。火の残りで、目だけが、こっちを向いている。なにも言わない。見ている。
指が、動いた。
〝入り江に、板の橋が、かかっていた。〟
打てた。見せる相手が、見ていた。それだけで、指が、動いた。
綴が、画面を見た。感想の欄の、あの言い方で、小さく言った。
「橋、ですか。渡る人は、まだ書いていませんね。渡る人を、読みたいです」
耳が、熱くなった。読まれた。いま、目の前で。目の前で読まれるって、こんななのか。去年からずっと、画面の向こうにいた人が、隣で、いま打ったやつを読んだ。
戸口に、猫が座っていた。
「書いたな、坊主。顔に出てる。坂の下に出てるぞ、それ。下りたら、次の日の戸は開けねえ。忘れんな」
「下りません。書いただけです」
答えた声が、小さかった。
「書いただけ、ね」
猫は尻尾を一度振って、暗いほうへ消えた。
坂の下だ。入り江。ぼくが書いた橋が、そこに、出てる。出てるに決まってる。
見たい。唾を、飲んだ。
スマホの画面の、橋の一行が、まだそこにある。入れば、消える。入らなければ、消えない。それは、聞いた。見るだけなら、一行は、ぼくの手に残る。
戸口の外を、見た。坂の下は、夜の霧で、なにも見えなかった。夕方に見えた水の帯も、さっきの道の灯りも、霧にのまれている。
見えないのに、片方の足が、もう戸口の外の土に乗っていた。




