第5話「一行」
坂を下りきった、軒の下で、夜を待った。
夜、と呼んでいいのか分からない。空が濃くなって、糸巻きが暗くなって、屋根の上のしゃり、しゃり、が、ひとつずつ止んでいくだけだ。日が沈むわけじゃない。もとから日がない。
綴は、隣に座っていた。袖の中に手を入れて、膝を抱えている。
「あの人たち、なにをしてるんですか。屋根で」
訊くと、綴は屋根のほうを見て答えた。
「糸をよっています。よった糸を、上に納めます」
「綴さんは、なにをしてるんですか。ここで」
綴は、答えなかった。膝を抱えた腕が、少し、固くなった。
町のことは答える。自分のことは答えない。それがこの人のやり方なんだと、二つ目の質問で分かった。
「向こう岸の人は、ここに、いてはいけないんでしょう。ぼくは、なんで入れたんですか」
「戸が開いたからです。開けたのは、猫です。猫が決めたことは、わたしには分かりません」
猫が決めた。猫が。
「感想、春から、止まってましたよね。なんでですか」
綴は、答えなかった。
「……続きは、いま、どこまで書いてあるんですか」
綴のほうから訊いてきたのは、それがはじめてだった。
「峠の手前まで。荷運び係が、ひとりで峠を越えるところ。そこで、止まってる。このごろ、ずっと」
「峠の向こうは、決めてあるんですか」
訊かれて、答えた。
「決めてある。決めてあるのに、出ない」
綴は、それ以上訊かなかった。訊かないでいてくれるのが、ありがたかった。
しゃり、しゃり、が、最後の一つまで止んだ。
眠れなかった。スマホを出した。時刻は、あのままだ。続きを開いた。最後の行の下に、なにもない。
打つな、と言われた。前に書いた人は、戻らなかった、とも。
でも、見せたい。この人に。この人は、ぼくの消したものまで読んで、消す前のほうが好きだったと言った。そんな人に、書いてない続きを見せる以外に、ぼくにできることがあるか。
戻れなくなるかもしれない。母さん。母さんは、いま、止まった時間の中にいる。ぼくが戻れば、出てきた夕方に戻れる。綴さんは、そう言った。前の人も、はじめはそうだったと。
前の人は、戻らなかったのに?
一行だけなら。一行打って、なにも起きなければ、それでいい。起きたら、やめる。
いや、そういうのがいちばんだめなやつだろ。一行だけ、って言って、止まれたことが一度でもあったか。
隣を見た。綴は、目を閉じていた。閉じているのか、閉じたふりなのか、分からない。
打った。
〝峠の手前で、荷運び係は、自分の足音だけが道に鳴っているのに気づく。〟
出た。出た出た出た。ここに来て、はじめての一行だ。何日も出なかった続きが、出た。
坂の下で、霧が動いた。
霧のへりが、道の形に、へこんだ。へこんだ底に、小さな灯りが、ひとつ、ふたつ、並んでいく。道が、霧の奥へ、細く続いている。
「え」
隣で、綴が目を開けていた。ぼくの画面を見て、それから、坂の下を見た。まばたきを、していなかった。
「……書きましたね」
「書けました。ほら、ここ。それより、あれ。あの道。ぼくが書いたから、出たんですか」
「あなたが書いた道です」
綴の声は、静かだった。
「書いたら、出るんですか。いつも?」
「この町で書かれた話は、この町に現れます。だから、ここでは書かないでと言ったんです」
怒っていなかった。怒られたほうが、ましだった。
綴は、道の入口に立った。
「書いた人は、自分の書いたものに、最初には入れません。出るたびに、誰かが先に入ります。わたしが、先に入ります」
「なんで綴さんが。危ないんじゃ、ないんですか」
「危ないから、わたしが先です」
綴が、道に入った。袖の先が、霧に溶けた。追った。
音が、した。
ぼくの足音だ。裸足なのに、鳴っている。この道では、鳴る。ぼくが、そう書いたからだ。立ち止まった。鳴りやんだ。一歩、出した。鳴った。
道の両側は、霧だ。でも、足の下の石は、ぼくが書いた峠の道の石だ。この道のことは、一行には書いてない。書いてないのに、分かる。前の話で、ここを、荷運び係に歩かせた。
鳴ってる。ぼくの一行の中で、ぼくの足音が鳴ってる。こわい。こわいのに、鳴るたびに、足が速くなる。足の裏が、次の石を、先に探している。
書いたものの中に入れるなら、もっと書きたい。それが、いちばんまずい考えだと分かっていて、消せなかった。
袖が、ぼくの腕を引いた。
「ここまでにしてください」
引き戻された。道の入口に、立っていた。
スマホを見た。最後の行を、見た。
打った一行が、ない。
消していない。指は、そんなところに触っていない。
いいよ。打ち直せばいい。さっき打ったんだから。峠の手前で、荷運び係は。そこまでで、指が止まった。
思い出せない。
消したものは、ぜんぶ覚えている。去年からの、どの版のどこを直したかも。誰にも言ったことがないけど、ぜんぶ、頭にある。それが、この一行だけ、ない。
「ない。ぼくの一行が、ない。さっき打ったやつ。綴さん、見ましたよね」
「見ました」
綴は、坂の下を見たまま答えた。
「なんで消えてるんですか。なんで、なにを打ったか、ぼくが分からないんですか。返してください」
言ってしまった。返してください、って。この人が消したわけじゃない。分かっている。分かっているのに、声が大きくなった。
「現れたものの中に、書いた人が入ったとき、その分は、手もとからなくなります。ごめんなさい。書かないでと、言いましたよね」
言われた。言われていた。書くなと。前の人は戻らなかったと。ぜんぶ聞いたうえで、打ったのは、ぼくだ。
「……すみません」
謝るのは、こっちだった。
メモに、自分の名前を打ってみた。打てる。消せる。指は、動く。動くのに、あの一行だけが、出てこない。
頭のどこを探しても、ない。あんなにうれしかった一行が、うれしかった、という感じだけ残して、中身がない。
綴は、なにも言わなかった。坂の下の、道のほうを見ていた。小さな灯りが、まだ、霧の奥へ続いている。
さっきまで、あれが、ぼくの一行だった。足の裏はまだ鳴った感じを覚えてるのに、頭のほうに、ない。書かれた話は、上で巻かれる。坂の上で、綴はそう言った。ぼくの一行は、もう、ぼくのじゃない。
なのに、道は、きれいだった。それが、いちばんいやだった。
顔を上げた。
坂の上から下まで、屋根の上は、静かなままだ。聞かれていないんじゃない。聞いて、黙っている。そう思った。
ひとつだけ、音があった。しゃり、しゃり、ではない。足音だ。それが、坂を、こっちへ下りてくる。




