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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第5話「一行」

坂を下りきった、軒の下で、夜を待った。


夜、と呼んでいいのか分からない。空が濃くなって、糸巻きが暗くなって、屋根の上のしゃり、しゃり、が、ひとつずつ止んでいくだけだ。日が沈むわけじゃない。もとから日がない。


綴《つづり》は、隣に座っていた。袖の中に手を入れて、膝を抱えている。


「あの人たち、なにをしてるんですか。屋根で」


訊くと、綴は屋根のほうを見て答えた。


「糸をよっています。よった糸を、上に納めます」


「綴さんは、なにをしてるんですか。ここで」


綴は、答えなかった。膝を抱えた腕が、少し、固くなった。


町のことは答える。自分のことは答えない。それがこの人のやり方なんだと、二つ目の質問で分かった。


「向こう岸の人は、ここに、いてはいけないんでしょう。ぼくは、なんで入れたんですか」


「戸が開いたからです。開けたのは、猫です。猫が決めたことは、わたしには分かりません」


猫が決めた。猫が。


「感想、春から、止まってましたよね。なんでですか」


綴は、答えなかった。


「……続きは、いま、どこまで書いてあるんですか」


綴のほうから訊いてきたのは、それがはじめてだった。


「峠の手前まで。荷運び係が、ひとりで峠を越えるところ。そこで、止まってる。このごろ、ずっと」


「峠の向こうは、決めてあるんですか」


訊かれて、答えた。


「決めてある。決めてあるのに、出ない」


綴は、それ以上訊かなかった。訊かないでいてくれるのが、ありがたかった。


しゃり、しゃり、が、最後の一つまで止んだ。


眠れなかった。スマホを出した。時刻は、あのままだ。続きを開いた。最後の行の下に、なにもない。


打つな、と言われた。前に書いた人は、戻らなかった、とも。


でも、見せたい。この人に。この人は、ぼくの消したものまで読んで、消す前のほうが好きだったと言った。そんな人に、書いてない続きを見せる以外に、ぼくにできることがあるか。


戻れなくなるかもしれない。母さん。母さんは、いま、止まった時間の中にいる。ぼくが戻れば、出てきた夕方に戻れる。綴さんは、そう言った。前の人も、はじめはそうだったと。


前の人は、戻らなかったのに?


一行だけなら。一行打って、なにも起きなければ、それでいい。起きたら、やめる。


いや、そういうのがいちばんだめなやつだろ。一行だけ、って言って、止まれたことが一度でもあったか。


隣を見た。綴は、目を閉じていた。閉じているのか、閉じたふりなのか、分からない。


打った。


〝峠の手前で、荷運び係は、自分の足音だけが道に鳴っているのに気づく。〟


出た。出た出た出た。ここに来て、はじめての一行だ。何日も出なかった続きが、出た。


坂の下で、霧が動いた。


霧のへりが、道の形に、へこんだ。へこんだ底に、小さな灯りが、ひとつ、ふたつ、並んでいく。道が、霧の奥へ、細く続いている。


「え」


隣で、綴が目を開けていた。ぼくの画面を見て、それから、坂の下を見た。まばたきを、していなかった。


「……書きましたね」


「書けました。ほら、ここ。それより、あれ。あの道。ぼくが書いたから、出たんですか」


「あなたが書いた道です」


綴の声は、静かだった。


「書いたら、出るんですか。いつも?」


「この町で書かれた話は、この町に現れます。だから、ここでは書かないでと言ったんです」


怒っていなかった。怒られたほうが、ましだった。


綴は、道の入口に立った。


「書いた人は、自分の書いたものに、最初には入れません。出るたびに、誰かが先に入ります。わたしが、先に入ります」


「なんで綴さんが。危ないんじゃ、ないんですか」


「危ないから、わたしが先です」


綴が、道に入った。袖の先が、霧に溶けた。追った。


音が、した。


ぼくの足音だ。裸足なのに、鳴っている。この道では、鳴る。ぼくが、そう書いたからだ。立ち止まった。鳴りやんだ。一歩、出した。鳴った。


道の両側は、霧だ。でも、足の下の石は、ぼくが書いた峠の道の石だ。この道のことは、一行には書いてない。書いてないのに、分かる。前の話で、ここを、荷運び係に歩かせた。


鳴ってる。ぼくの一行の中で、ぼくの足音が鳴ってる。こわい。こわいのに、鳴るたびに、足が速くなる。足の裏が、次の石を、先に探している。


書いたものの中に入れるなら、もっと書きたい。それが、いちばんまずい考えだと分かっていて、消せなかった。


袖が、ぼくの腕を引いた。


「ここまでにしてください」


引き戻された。道の入口に、立っていた。


スマホを見た。最後の行を、見た。


打った一行が、ない。


消していない。指は、そんなところに触っていない。


いいよ。打ち直せばいい。さっき打ったんだから。峠の手前で、荷運び係は。そこまでで、指が止まった。


思い出せない。


消したものは、ぜんぶ覚えている。去年からの、どの版のどこを直したかも。誰にも言ったことがないけど、ぜんぶ、頭にある。それが、この一行だけ、ない。


「ない。ぼくの一行が、ない。さっき打ったやつ。綴さん、見ましたよね」


「見ました」


綴は、坂の下を見たまま答えた。


「なんで消えてるんですか。なんで、なにを打ったか、ぼくが分からないんですか。返してください」


言ってしまった。返してください、って。この人が消したわけじゃない。分かっている。分かっているのに、声が大きくなった。


「現れたものの中に、書いた人が入ったとき、その分は、手もとからなくなります。ごめんなさい。書かないでと、言いましたよね」


言われた。言われていた。書くなと。前の人は戻らなかったと。ぜんぶ聞いたうえで、打ったのは、ぼくだ。


「……すみません」


謝るのは、こっちだった。


メモに、自分の名前を打ってみた。打てる。消せる。指は、動く。動くのに、あの一行だけが、出てこない。


頭のどこを探しても、ない。あんなにうれしかった一行が、うれしかった、という感じだけ残して、中身がない。


綴は、なにも言わなかった。坂の下の、道のほうを見ていた。小さな灯りが、まだ、霧の奥へ続いている。


さっきまで、あれが、ぼくの一行だった。足の裏はまだ鳴った感じを覚えてるのに、頭のほうに、ない。書かれた話は、上で巻かれる。坂の上で、綴はそう言った。ぼくの一行は、もう、ぼくのじゃない。


なのに、道は、きれいだった。それが、いちばんいやだった。


顔を上げた。


坂の上から下まで、屋根の上は、静かなままだ。聞かれていないんじゃない。聞いて、黙っている。そう思った。


ひとつだけ、音があった。しゃり、しゃり、ではない。足音だ。それが、坂を、こっちへ下りてくる。


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