第4話「坂の町」
本棚が終わったところで、ぼくは坂のいちばん上に立っていた。
屋根の段のいちばん下は薄い霧に溶けて、その向こうに、水の光る帯がある。光っているのに、動いていない。へりが、一か所だけ、板でとがっている。
「……なに、これ」
声が、出ていた。見上げた。空の高いところに、木の糸巻きが浮いている。家ひとつぶんはある。町じゅうが夕方の色なのに、日は、どこにもない。
日のかわりみたいに、あの糸巻きが光っている。糸巻きよりも高いところに、灯りが横にひと並び。
本屋の奥に、町。夕方なのに日がない。糸巻きが浮いてる。え、なに、ぼくの頭がおかしいの? まだガラスの前に立ってて、夢でも見てる? じゃあ、このにおい、なに。土と、水と、糸のにおい。
「聞こえますか」
横で声がした。感想の文の、あの言い方だった。
「はじめまして。読者です」
女の子だ。髪をゆるく編んで、頭の横で結んでいる。袖が手の先まで長い。
わたし、と書いてあった人だ。分かっていたのに、ツヅルクンのほうが、先に出た。
「名前は、なんて読むんですか」
「つづり、です。読み方を、どこにも書いていませんでしたね。わたしのほうが、聞くのを忘れていました」
「ツヅルクン」
言ってしまってから、耳が熱くなった。死ぬ。いま、口に出した。本人の前で。綴は、ぼくの手の中のスマホを見て、それから袖を口もとに当てて、言った。
「上げたら、言ってしまうから」
は。
読まれてる。消したやつまで。ぼくしか見てないはずの版まで。気持ち悪い、って思うところだろ、ここは。なのに先に来たのが、うれしい、で、それがいちばんいやだ。
「消す前の一行の、うしろの半分のほうが、わたしは好きでした。あのときは、正解、と書きましたけど」
「どうして、消したほうを知ってるんですか」
「読みました。消す前のも、ここで」
訊く声が、小さくなった。
「ここで、って。ここ、どこですか。あれ、糸巻きですよね。なんで浮いてるんですか。あの上の灯りは、なんですか」
綴は、ひとつずつ答えた。
「ここは、たそかれ、と呼ばれています。夕方しかない町です。あなたのいた側を、こっちでは、向こう岸と言います」
灯りのひと並びを、見上げた。
「あれは、上、と呼ばれている人たちの灯りです。空の上にいて、書かれた話を巻いて、灯りにしています」
書かれた話を、巻く。意味が分からないのに、灯りのひと並びから、目が離せなかった。
綴は、袖の先を自分の口に当てた。
「声を、小さくしてください。足音も。向こう岸の人は、ここにいてはいけないことになっているので」
いてはいけない、って。呼んだのはそっちだろ。会いませんか、って書いたのは、この人だ。
この人は、ぼくの消したものまで読んでる。読んでないのは、まだ書いてない続きだけだ。見せるなら、それしかないのに、このごろ、一行も出てないんだよ。
屋根の上に、人が座って、膝の上でなにかを動かしている。しゃり、しゃり、と乾いた音が、屋根から屋根へ続く。糸をよっているのだと、綴が小さく言った。
「よう。来ちまったか、坊主」
足もとで声がした。
まだらの猫が、うしろ足で立っていた。前足を腰に当てている。汀書房の前で寝ていた、あのまだらだ。
「しゃべった。猫が。え、なんで。あの夜、店の前にいましたよね。ただの猫でしたよね」
「寝てねえ。見てた。おまえは、夜、戸に手を出さなかった。あれで決めた。戸は、おれが閉める。開けるのも、おれだ。忘れんな、坊主」
尻尾を振って、猫は石段を下りていった。
いや猫だろ。猫が決めるのか。理由になってないのに、見てた、のところだけが頭に残って、首の後ろが熱くなった。あの夜も、見られてたんだ。
歩き出した。サンダルの底が、石を叩いた。
音が、屋根に当たった。
屋根の上の顔が、いっせいに上がった。
息が、止まった。
袖に引かれて、軒の下に入った。綴の手が、ぼくの口の前にある。触っていない。触る寸前で止まっている。指の節が、ぼくより細かった。
「綴。いまの音は、なんだ。あれは向こう岸の音だぞ。誰か連れてきとるのか」
坊主頭の大男だ。軒のほうへ、身を乗り出してくる。
「向こう岸の子か」
「違います」
しゃり、しゃり、が、その屋根だけ、止まっている。
綴が、しゃがんだ。ぼくのサンダルの鼻緒に、指をかけた。
「脱いでください。音がするので」
裸足? 知らない町を、裸足で? 帰るときどうするの。
「いやです。帰れなくなる」
「音がすると、あの人たちに見つかります」
「じゃあ、帰るとき、どうするんですか。裸足で、商店街を歩くんですか」
「わたしが、持っています。帰るときに、返します。見つかると、わたしも困ります」
わたしも困ります。そう言われたら、脱ぐしかないじゃないか。足の指が、鼻緒から離れたがらない。脱いでいた。
綴は、サンダルを袖の中にしまった。
坂を下りた。裸足で。石を踏んでも、音は出なかった。
坂を下りきると、道が平らになる。綴が、空を見た。
「空が、濃くなってきました。今日は、もう戻れません」
「……は? 戸、あるでしょう。あそこに。上に」
「戸は、明るいうちしか開きません。それも、猫が開ける日だけです。閉めるのは、猫です。もう、閉めているはずです」
猫が閉めた。帰れない? 今日、帰れない? ちょっと待って。母さんに、なんて言えば。
スマホを見た。画面の時刻が、進まない。何度見ても、分の数字が変わらない。電池の数字も、減らない。その下に、母さんからのメッセージがあった。本屋に入る前に来ていたのを、いま見た。
開けなかった。開けなくても、最初の一行は見えている。「どこにいるの」。開けたら、返さないわけにいかなくなる。なんて返すんだよ。本屋の奥の、夕方しかない町にいます、って?
「帰れないって、どういうこと。ぼく、母さんに言ってないんだよ。今日は、って、明日は帰れるの? 明日も猫が閉めたら?」
「時計が、動かないでしょう」
綴は、ぼくのスマホを見て言った。
「向こう岸の時間は、ここにいるあいだ、進みません。明日、戻れば、出てきた夕方に戻れます」
「ほんとに?」
「はい。前の人も、はじめのうちは、そうでしたから」
前の人。誰だ、それ。訊こうとして、手が勝手に、続きを開いていた。最後の行が、出ている。綴が、ぼくの手の中の画面を見ていた。
「ここでは、書かないでください」
「なんで。読みたかったんじゃ、ないんですか」
「前に、書いた人がいます。その人は、戻ってきませんでした」
戻らなかった。誰が。書いた人が。じゃあ、なんで呼んだんだよ。続きを、待っています、って書いたくせに。
「じゃあ、なんで、ぼくを呼んだんですか」
綴は、しばらく答えなかった。袖の中で、手が動いた。
「……読みたかったからです。でも、ここで書いてほしくは、ないんです。矛盾していると、自分でも思います」
読みたい。でも書くな。ぼくの続きは、書かなきゃ出ない。書いたら、戻れないかもしれない。それを、この人は、分かって呼んだ。
なんだよ、それ。
言い返せなかった。言い返すかわりに、画面を見た。最後の行の下の、なにも書いていない場所を。
打てば、出るのか。ここなら。
指は、置いたままだった。打たなかった。打てなかった、じゃない。打たなかった。知らせの一覧を出すと、母さんのが、いちばん上にある。
時刻の数字は、まだ、あのままだった。母さんの一行の上で、止まっている。




