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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第4話「坂の町」

本棚が終わったところで、ぼくは坂のいちばん上に立っていた。


屋根の段のいちばん下は薄い霧に溶けて、その向こうに、水の光る帯がある。光っているのに、動いていない。へりが、一か所だけ、板でとがっている。


「……なに、これ」


声が、出ていた。見上げた。空の高いところに、木の糸巻きが浮いている。家ひとつぶんはある。町じゅうが夕方の色なのに、日は、どこにもない。


日のかわりみたいに、あの糸巻きが光っている。糸巻きよりも高いところに、灯りが横にひと並び。


本屋の奥に、町。夕方なのに日がない。糸巻きが浮いてる。え、なに、ぼくの頭がおかしいの? まだガラスの前に立ってて、夢でも見てる? じゃあ、このにおい、なに。土と、水と、糸のにおい。


「聞こえますか」


横で声がした。感想の文の、あの言い方だった。


「はじめまして。読者です」


女の子だ。髪をゆるく編んで、頭の横で結んでいる。袖が手の先まで長い。


わたし、と書いてあった人だ。分かっていたのに、ツヅルクンのほうが、先に出た。


「名前は、なんて読むんですか」


「つづり、です。読み方を、どこにも書いていませんでしたね。わたしのほうが、聞くのを忘れていました」


「ツヅルクン」


言ってしまってから、耳が熱くなった。死ぬ。いま、口に出した。本人の前で。綴《つづり》は、ぼくの手の中のスマホを見て、それから袖を口もとに当てて、言った。


「上げたら、言ってしまうから」


は。


読まれてる。消したやつまで。ぼくしか見てないはずの版まで。気持ち悪い、って思うところだろ、ここは。なのに先に来たのが、うれしい、で、それがいちばんいやだ。


「消す前の一行の、うしろの半分のほうが、わたしは好きでした。あのときは、正解、と書きましたけど」


「どうして、消したほうを知ってるんですか」


「読みました。消す前のも、ここで」


訊く声が、小さくなった。


「ここで、って。ここ、どこですか。あれ、糸巻きですよね。なんで浮いてるんですか。あの上の灯りは、なんですか」


綴は、ひとつずつ答えた。


「ここは、たそかれ、と呼ばれています。夕方しかない町です。あなたのいた側を、こっちでは、向こう岸と言います」


灯りのひと並びを、見上げた。


「あれは、上、と呼ばれている人たちの灯りです。空の上にいて、書かれた話を巻いて、灯りにしています」


書かれた話を、巻く。意味が分からないのに、灯りのひと並びから、目が離せなかった。


綴は、袖の先を自分の口に当てた。


「声を、小さくしてください。足音も。向こう岸の人は、ここにいてはいけないことになっているので」


いてはいけない、って。呼んだのはそっちだろ。会いませんか、って書いたのは、この人だ。


この人は、ぼくの消したものまで読んでる。読んでないのは、まだ書いてない続きだけだ。見せるなら、それしかないのに、このごろ、一行も出てないんだよ。


屋根の上に、人が座って、膝の上でなにかを動かしている。しゃり、しゃり、と乾いた音が、屋根から屋根へ続く。糸をよっているのだと、綴が小さく言った。


「よう。来ちまったか、坊主」


足もとで声がした。


まだらの猫が、うしろ足で立っていた。前足を腰に当てている。汀書房《みぎわしょぼう》の前で寝ていた、あのまだらだ。


「しゃべった。猫が。え、なんで。あの夜、店の前にいましたよね。ただの猫でしたよね」


「寝てねえ。見てた。おまえは、夜、戸に手を出さなかった。あれで決めた。戸は、おれが閉める。開けるのも、おれだ。忘れんな、坊主」


尻尾を振って、猫は石段を下りていった。


いや猫だろ。猫が決めるのか。理由になってないのに、見てた、のところだけが頭に残って、首の後ろが熱くなった。あの夜も、見られてたんだ。


歩き出した。サンダルの底が、石を叩いた。


音が、屋根に当たった。


屋根の上の顔が、いっせいに上がった。


息が、止まった。


袖に引かれて、軒の下に入った。綴の手が、ぼくの口の前にある。触っていない。触る寸前で止まっている。指の節が、ぼくより細かった。


「綴。いまの音は、なんだ。あれは向こう岸の音だぞ。誰か連れてきとるのか」


坊主頭の大男だ。軒のほうへ、身を乗り出してくる。


「向こう岸の子か」


「違います」


しゃり、しゃり、が、その屋根だけ、止まっている。


綴が、しゃがんだ。ぼくのサンダルの鼻緒《はなお》に、指をかけた。


「脱いでください。音がするので」


裸足? 知らない町を、裸足で? 帰るときどうするの。


「いやです。帰れなくなる」


「音がすると、あの人たちに見つかります」


「じゃあ、帰るとき、どうするんですか。裸足で、商店街を歩くんですか」


「わたしが、持っています。帰るときに、返します。見つかると、わたしも困ります」


わたしも困ります。そう言われたら、脱ぐしかないじゃないか。足の指が、鼻緒から離れたがらない。脱いでいた。


綴は、サンダルを袖の中にしまった。


坂を下りた。裸足で。石を踏んでも、音は出なかった。


坂を下りきると、道が平らになる。綴が、空を見た。


「空が、濃くなってきました。今日は、もう戻れません」


「……は? 戸、あるでしょう。あそこに。上に」


「戸は、明るいうちしか開きません。それも、猫が開ける日だけです。閉めるのは、猫です。もう、閉めているはずです」


猫が閉めた。帰れない? 今日、帰れない? ちょっと待って。母さんに、なんて言えば。


スマホを見た。画面の時刻が、進まない。何度見ても、分の数字が変わらない。電池の数字も、減らない。その下に、母さんからのメッセージがあった。本屋に入る前に来ていたのを、いま見た。


開けなかった。開けなくても、最初の一行は見えている。「どこにいるの」。開けたら、返さないわけにいかなくなる。なんて返すんだよ。本屋の奥の、夕方しかない町にいます、って?


「帰れないって、どういうこと。ぼく、母さんに言ってないんだよ。今日は、って、明日は帰れるの? 明日も猫が閉めたら?」


「時計が、動かないでしょう」


綴は、ぼくのスマホを見て言った。


「向こう岸の時間は、ここにいるあいだ、進みません。明日、戻れば、出てきた夕方に戻れます」


「ほんとに?」


「はい。前の人も、はじめのうちは、そうでしたから」


前の人。誰だ、それ。訊こうとして、手が勝手に、続きを開いていた。最後の行が、出ている。綴が、ぼくの手の中の画面を見ていた。


「ここでは、書かないでください」


「なんで。読みたかったんじゃ、ないんですか」


「前に、書いた人がいます。その人は、戻ってきませんでした」


戻らなかった。誰が。書いた人が。じゃあ、なんで呼んだんだよ。続きを、待っています、って書いたくせに。


「じゃあ、なんで、ぼくを呼んだんですか」


綴は、しばらく答えなかった。袖の中で、手が動いた。


「……読みたかったからです。でも、ここで書いてほしくは、ないんです。矛盾していると、自分でも思います」


読みたい。でも書くな。ぼくの続きは、書かなきゃ出ない。書いたら、戻れないかもしれない。それを、この人は、分かって呼んだ。


なんだよ、それ。


言い返せなかった。言い返すかわりに、画面を見た。最後の行の下の、なにも書いていない場所を。


打てば、出るのか。ここなら。


指は、置いたままだった。打たなかった。打てなかった、じゃない。打たなかった。知らせの一覧を出すと、母さんのが、いちばん上にある。


時刻の数字は、まだ、あのままだった。母さんの一行の上で、止まっている。


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