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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第3話「ガラスが濡れる日」

来てしまった、と気づいたのは、もう戸に手をかけたあとだった。


汀書房《みぎわしょぼう》のガラス戸は、押しても引いても、わずかも動かない。枠と戸のあいだに、隙間というものがなかった。


貼り紙を探して柱を上から下までなぞってみたが、指はどこにも引っかからない。呼び鈴もない。首の後ろに汗がたまって、襟の内側をゆっくり下りていった。


「汀《みぎわ》さんとこは、開かんよ」


隣の家の門の内側から声がした。麦わら帽子の下から、老人がこちらを見ている。手に青いじょうろを提げていた。ゾウの形をしていて、鼻の先が注ぎ口になっている。日に焼けて、青が白っぽく褪せていた。


傾けると水が落ちて、鉢の土がそれを吸う音がした。


「ここんとこ、汐見《しおみ》さんとこに灯りがついとった。孫か。顔が似とる」


返事をする前に、ぼくは縁側に座らされていた。板は日陰で冷たくて、ももの裏からその冷たさが上がってくる。麦茶が出た。氷がひとつだけ入っていて、コップを傾けるたびに一度だけ鳴る。


口をつけると、祖母の家の麦茶と同じ味がした。同じやかんで煮出して、同じくらい冷ましたような味だ。コップが、なかなか唇から離れなかった。


「婆さんは、嫁に来たころから、ここの本を借りとった」


秋良《あきら》さん、と名乗ったのは、ぼくが名乗るより先だった。祖母の古い知り合いらしい。話しながら、この人はいつも手を動かしている。軒を見上げ、鉢の向きを直し、じょうろを持ち替える。


「汐見さんとこの婆さんは、孫が話を書いとると、自慢しとった。中身は知らんが、な」


ぼくの中に残っている祖母の声は、ひとつしかない。まひろ、走らんの。それだけだ。読んでもいない話のことを、この人は、祖母から何度も聞かされたらしい。


自慢。その言葉を、麦茶と一緒に飲みこんだ。


「どんな話だ」


鉢の土が水を吸う音が、まだ続いていた。


「荷物を、運ぶ係の子の話です」


自分の声が、自分のものに聞こえなかった。


「その子が、仲間に追い出される朝に、剣士の荷の、紐《ひも》を、結び直して、渡す」


そこで止まった。続きを言おうとして、どこから言えばいいのか分からなかった。もっといろいろあるのに、口から出たのはそれだけだった。


秋良さんはじょうろを軽く振った。中で水が鳴った。


「ようわからん」


それだけだった。いいとも悪いとも言われなかった。ぼくはその言葉を持ったまま、縁側に座っていた。麦茶が、ぬるくなっていた。


「店の奥って、なにがあったんですか」


訊くつもりのない言葉だった。出てしまってから、一拍遅れて、自分の声だと分かった。


秋良さんは、鉢の位置をすこしずらした。


「奥に、なにがあるか、わしは知らん。入ったのは、表までだ」


帽子のつばを持ち上げる。


「親父さんはな、奥から出てくるとき、ちょっといい顔をしとった。それが、ある夏から、ぱたりと店を開けんようになった。挨拶もなしだ」


汀って、と口の中で言ったのが聞こえたらしい。


「水際だな。波の来るとこと、来んとこの、あいだだ」


開け放した部屋が、奥まで見えた。柱に、時計の形をした日焼け跡が丸く残っている。釘だけが残っていて、時計はなかった。


家に帰って、送った。


——行きました。閉まっていました。


返事は、麦茶を一杯飲みおわらないうちに来た。


——ごめんなさい。開く日は、わたしには選べないのです。日を書けなかったのは、それでです。今朝、分かりました。今日は、開きます。日が落ちる前に、来てください。表のガラスが、濡れて見える日です。


——続きを、待っています。


わたし、と書いてあった。頭の中でその言葉を何度か置き直してから、受け取った。ツヅルクン、と呼んでいた顔が、うまく浮かばなくなった。


それから、指が勝手に打った。


——あなたは、ぼくに、どうしてほしいんですか。


送ってしまってから、画面を伏せた。すぐにまた戻した。返事は来なかった。


昼過ぎに、もう一度、汀書房の前に立った。ガラスの奥は、ただ暗かった。あの夜の、夕方の色は、どこにもない。猫も、いなかった。


家に戻って、続きを開いて、閉じた。返事は、まだ来ない。時計の針が、なかなか進まなかった。


日が落ちかけたころ、商店街へ行った。


アーケードの西の端から、夕陽が水平に差しこんでいた。天井の骨が影になって、床に何本も横たわっている。閉まったシャッターがどれも同じ色に染まって、どの店だったのか分からなくなっていた。


汀書房のガラス戸が、上から下まで光っていた。雨上がりの窓のように、水が膜になって垂れている。指でふれた。濡れない。冷たさだけが指に来た。離しても、指に残った。


こわいのか、と自分に訊いた。


向きが逆だった。こわい、の反対のほうへ、足が向いている。見たい。この奥を。


続きは、まだ一行も進んでいない。それでも、見せたい相手が、この奥にいる。


カーテンのすきまの奥が、また、夕方の色だった。


戸に手をかけた。すっと動いた。軽すぎて、手が泳いだ。朝、引いたときの、あの遊びのなさが、どこにもない。


内側は本棚のあいだの細い通路で、その先が夕方の色に明るかった。細かく乾いた音が、たくさん聞こえる。何の音かは分からない。本の匂いが、途中から土の匂いに変わる。雨のあとの土と、紙。


通路の先に、下っていく坂道があった。坂の下まで、屋根がずっと続いている。


喉が鳴った。


敷居の内側に、足を下ろした。


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