第2話「たったひとりの読者」
目が覚めたとき、手がもう枕元をさぐっていた。
カーテンの花の色が畳に落ちていて、部屋じゅうが薄い桃色だ。画面を明るくする。感想は、ゆうべのまま、そこにあった。消えていない。
起き上がって、あぐらをかいて、はじめから読み直した。文字の並びは寝る前と同じだ。あたりまえだ。あたりまえなのに、同じであることを確かめないと、次に進めなかった。
それから、名前のところを押した。
綴のページには、ほとんどなにもなかった。投稿した作品はない。自己紹介の欄は空で、たぶん触られたことがない。あるのは感想の履歴だけで、その宛先は、ぜんぶぼくのものだった。
書く側の人だと、思っていた。一本も書いていないのに。
並んだ時刻は、どれも、ぼくが投稿を押したすぐあとだった。画面が切り替わって、息をついて、それくらいの幅。ずっとそうだった。春の終わりで、ぱたりと途切れている。
いちばん下までさかのぼって、そこから上へ読んだ。去年からのぶんを順に読むのは、はじめてだった。
——はじめまして。荷物を先に雨からよける場面が好きです。自分より、先に。
いちばん古いのは、それだった。書いたときは、なんでもない場面のつもりだった。荷運びの男が、濡れたら困るものを先にかばう。そういう人だというだけの場面だ。
誰かがそこで立ちどまるとは、思っていなかった。
——この版から、道の描写が減りました。すこし、さびしいです。
道の描写を削った週だ。ランキングの上のほうを並べて読んで、上に、そんな場面がひとつもなかったから、削った。あらすじも、そのころ書き換えた。上のほうの言い方に、寄せて。
ぼくが自分に言えなかったことを、この人は、その週にもう書いていた。
——お帰りなさい、坂道。
坂道を戻した週だ。戻したことは、誰にも言っていない。言う相手が、いなかった。
コップの底が、卓に輪を残していた。それを指でなぞりながら、返事を書いた。書いては消して、また書いて、昼までかかった。長く書くと言い訳になって、短くすると嘘になった。残ったのは、これだけだ。
——読んでくれて、ありがとうございます。
——前の版のこと、どうして分かるんですか。
上の一行だけなら、送れた。下の一行が、指を止めた。
訊いたら、この人は来なくなるかもしれない。訊かなければ、たぶん明日も来る。来るけれど、ぼくはこれからずっと、来るたびに同じことを考える。
指を止めたまま、あたたまった畳の匂いを吸った。それから、送信を押した。押したものは、もう戻せない。画面の上で、ぼくの文字が、他人のもののように並んでいた。
続きを開いた。一文字も、足せなかった。閉じた。
麦茶の粉が切れていた。
アーケードは日陰なのに、首の後ろがすぐ湿る。コンビニの自動ドアが開いて、冷えた風がひと呼吸ぶん足に当たって、また閉まる。その前で、ポケットが震えた。巴だった。
「お。生きてたか、汐見」
「生きてる」
「なにしてんの、毎日」
「片付け」
「はあ? おまえが?」
巴が笑うのが、耳にじかに届いた。
「机の上、消しゴムのかす山にしてたやつが? あれ、遺跡かと思ってた」
笑ってしまった。声になって出てから、自分で驚いた。この家に来てから、こんな音を出したのは、はじめてだった。
「あれは、まとめてたの」
「まとめてない。積んでただけ。いつ帰んの」
「夏が終わったら」
「長え。祖母ちゃんち、そんな楽しいか」
「静か」
「出た、それ。夏の終わりな、改札で待っててやる。アイス、おごれ」
「なんで、ぼくが」
「暇なんだよ、おまえがいねえと」
向こうで発車のベルが鳴っていた。誰かが誰かを呼んで、自転車の鍵が金属の音を立てた。
ペダルが回りはじめる音がして、風が受話口をこすった。
「あ、そういやさ。汐見、連載のあらすじ、変えたろ」
自動ドアが、また開いた。
「読んでねえけど、あらすじくらいは目に入るし。なんか最近、おまえっぽくなくない?」
頭の中で言葉を組み立てた。事情がある、という言い方もできた。そのほうが読まれるからだ、という言い方も、試しにやってみただけだ、という言い方もできた。
組み立てたそばから、ぜんぶ薄っぺらく見えて、捨てた。
一拍、遅れた。
「……変えた」
「ふーん」
それだけだった。ペダルの音が速くなって、風に飲まれて、切れた。
自動ドアの前に立ったまま、切れた電話を耳に当てていた。ドアがもう一度ひとりでに開いて、閉まった。
持ったまま、麦茶の粉を買って、来た道を戻った。
畳にすわって、冷えた首の後ろを手のひらで押さえてから、スマホを見た。
返事は、感想の欄ではなく、メッセージに来ていた。
——会いませんか。汀書房で。
——訊かれたことは、そのときに。
——綴
汀書房。ゆうべ、ぼくが前に立っていた店だ。誰にも言っていない。
指が、麦茶の袋の口を握りつぶしていた。
いつ、とは書いていなかった。何時、とも書いていない。どこで待つとも、どう入るとも。行がそこで終わって、その下には、なにも書いてなかった。
それから、気づいた。
ゆうべ出した版の、感想の欄を開いた。ぼくの質問が、いちばん下にある。その下は、白い。
返事は、みんなの見える場所には、来なかった。
握った跡のついた袋を、開けないまま、膝の横に置いた。画面を明るいままにして、なにも書かれていないところを、見ていた。
それから、玄関に、サンダルを出した。明るくなったら、行く。




