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八十八回目の夏 〜ぜんぶ読んでいた人が、ひとりだけいた〜  作者: ざわん


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第2話「たったひとりの読者」

目が覚めたとき、手がもう枕元をさぐっていた。


カーテンの花の色が畳に落ちていて、部屋じゅうが薄い桃色だ。画面を明るくする。感想は、ゆうべのまま、そこにあった。消えていない。


起き上がって、あぐらをかいて、はじめから読み直した。文字の並びは寝る前と同じだ。あたりまえだ。あたりまえなのに、同じであることを確かめないと、次に進めなかった。


それから、名前のところを押した。


綴のページには、ほとんどなにもなかった。投稿した作品はない。自己紹介の欄は空で、たぶん触られたことがない。あるのは感想の履歴だけで、その宛先は、ぜんぶぼくのものだった。


書く側の人だと、思っていた。一本も書いていないのに。


並んだ時刻は、どれも、ぼくが投稿を押したすぐあとだった。画面が切り替わって、息をついて、それくらいの幅。ずっとそうだった。春の終わりで、ぱたりと途切れている。


いちばん下までさかのぼって、そこから上へ読んだ。去年からのぶんを順に読むのは、はじめてだった。


——はじめまして。荷物を先に雨からよける場面が好きです。自分より、先に。


いちばん古いのは、それだった。書いたときは、なんでもない場面のつもりだった。荷運びの男が、濡れたら困るものを先にかばう。そういう人だというだけの場面だ。


誰かがそこで立ちどまるとは、思っていなかった。


——この版から、道の描写が減りました。すこし、さびしいです。


道の描写を削った週だ。ランキングの上のほうを並べて読んで、上に、そんな場面がひとつもなかったから、削った。あらすじも、そのころ書き換えた。上のほうの言い方に、寄せて。


ぼくが自分に言えなかったことを、この人は、その週にもう書いていた。


——お帰りなさい、坂道。


坂道を戻した週だ。戻したことは、誰にも言っていない。言う相手が、いなかった。


コップの底が、卓に輪を残していた。それを指でなぞりながら、返事を書いた。書いては消して、また書いて、昼までかかった。長く書くと言い訳になって、短くすると嘘になった。残ったのは、これだけだ。


——読んでくれて、ありがとうございます。


——前の版のこと、どうして分かるんですか。


上の一行だけなら、送れた。下の一行が、指を止めた。


訊いたら、この人は来なくなるかもしれない。訊かなければ、たぶん明日も来る。来るけれど、ぼくはこれからずっと、来るたびに同じことを考える。


指を止めたまま、あたたまった畳の匂いを吸った。それから、送信を押した。押したものは、もう戻せない。画面の上で、ぼくの文字が、他人のもののように並んでいた。


続きを開いた。一文字も、足せなかった。閉じた。


麦茶の粉が切れていた。


アーケードは日陰なのに、首の後ろがすぐ湿る。コンビニの自動ドアが開いて、冷えた風がひと呼吸ぶん足に当たって、また閉まる。その前で、ポケットが震えた。巴《ともえ》だった。


「お。生きてたか、汐見《しおみ》」


「生きてる」


「なにしてんの、毎日」


「片付け」


「はあ? おまえが?」


巴が笑うのが、耳にじかに届いた。


「机の上、消しゴムのかす山にしてたやつが? あれ、遺跡かと思ってた」


笑ってしまった。声になって出てから、自分で驚いた。この家に来てから、こんな音を出したのは、はじめてだった。


「あれは、まとめてたの」


「まとめてない。積んでただけ。いつ帰んの」


「夏が終わったら」


「長え。祖母ちゃんち、そんな楽しいか」


「静か」


「出た、それ。夏の終わりな、改札で待っててやる。アイス、おごれ」


「なんで、ぼくが」


「暇なんだよ、おまえがいねえと」


向こうで発車のベルが鳴っていた。誰かが誰かを呼んで、自転車の鍵が金属の音を立てた。


ペダルが回りはじめる音がして、風が受話口をこすった。


「あ、そういやさ。汐見、連載のあらすじ、変えたろ」


自動ドアが、また開いた。


「読んでねえけど、あらすじくらいは目に入るし。なんか最近、おまえっぽくなくない?」


頭の中で言葉を組み立てた。事情がある、という言い方もできた。そのほうが読まれるからだ、という言い方も、試しにやってみただけだ、という言い方もできた。


組み立てたそばから、ぜんぶ薄っぺらく見えて、捨てた。


一拍、遅れた。


「……変えた」


「ふーん」


それだけだった。ペダルの音が速くなって、風に飲まれて、切れた。


自動ドアの前に立ったまま、切れた電話を耳に当てていた。ドアがもう一度ひとりでに開いて、閉まった。


持ったまま、麦茶の粉を買って、来た道を戻った。


畳にすわって、冷えた首の後ろを手のひらで押さえてから、スマホを見た。


返事は、感想の欄ではなく、メッセージに来ていた。


——会いませんか。汀書房《みぎわしょぼう》で。


——訊かれたことは、そのときに。


——綴


汀書房。ゆうべ、ぼくが前に立っていた店だ。誰にも言っていない。


指が、麦茶の袋の口を握りつぶしていた。


いつ、とは書いていなかった。何時、とも書いていない。どこで待つとも、どう入るとも。行がそこで終わって、その下には、なにも書いてなかった。


それから、気づいた。


ゆうべ出した版の、感想の欄を開いた。ぼくの質問が、いちばん下にある。その下は、白い。


返事は、みんなの見える場所には、来なかった。


握った跡のついた袋を、開けないまま、膝の横に置いた。画面を明るいままにして、なにも書かれていないところを、見ていた。


それから、玄関に、サンダルを出した。明るくなったら、行く。


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