第1話「八十八回目」
続きの書き出しを打った。読み返して、消した。別の書き出しを打ちかけて、また消した。
スマホを胸の上に立てると、光が布団の裏側に当たって、そこだけ低い天井ができる。祖母の扇風機が首を振って、付け根の木が鳴いて、外では田んぼの蛙が途切れない。
祖母は春にいなくなった。この家を母が片付ける夏のあいだだけ、ぼくはここにいる。指が勝手に、荷運び係の話のほうへ戻っていく。去年の夏、この家で書きはじめて、マシロの名前で出しているやつだ。
本名は汐見真尋。ひとりでいい。ひとりだけ、読んでくれる人がいたら、それでよかった。
そう思って書きはじめた話の、続きが書けない。書けない夜は、もう出してある話を直して、同じ題で上書きして、出し直す。今夜で、八十八回目になる。
直す場所は決めてあった。仲間に追い出される朝、荷運び係は文句を言うかわりに、剣士の荷の紐がゆるんでいるのに気づく。黙って結び直して、渡す。それだけの場面。
前に一度、そこへ一行足した。
〝顔は、上げなかった。上げたら、言ってしまうから。〟
そこまで書いて、出す前に消した。うしろの半分が、長すぎた。前の半分だけなら、あの朝の空気のまま入る。
半分にして、入れた。
今夜で最後にする。今夜、来なかったら、消す。声には出さない。
投稿を押す前に、下書きに残してあった前の版を、上から順に消していった。指は迷わなかった。迷わないように、頭のほうを先に黙らせておいた。消してしまえば、前の形はぼくの頭の中にしか残らない。
それでも見える。どの版のどこをどう直したか、足した言葉も、引いた言葉も、引いたあとに空いた場所の形も。ずっと見えている。見えていることを、誰かに言ったことは、ない。
投稿を押した。新着の欄にぼくの題が載って、知らない題に押されて下がっていく。台所で湯が沸くくらいのあいだに、見えなくなった。
今夜の版に、感想は、まだない。開いて、確かめた。閉じて、もう一度開いて、確かめた。
前の版までの感想は、去年からずっと、ひとりの名前しかない。それも、春から、止まっている。綴、とある。読み方は知らない。
綴る、の綴だから、たぶん書く側の人だ。
書く側の男子だろうと決めて、頭の中ではツヅルクンと呼んでいる。
それから、設定の奥まで進んだ。作品ごと消す画面まで行き着いた。ほんとうに消しますか、という意味の文字が出て、その上で親指が止まった。爪の影が、文字にかかっている。
扇風機がこっちを向いて、髪が顔にかかって、また向こうを向いた。
押せなかった。親指を離して、風呂へ行った。決めるのは、戻ってからでいい。
風呂から戻ると、暗い部屋で画面が光っていた。感想の通知だった。
名前は、綴。止まっていた人が、来た。
——この場面、前の版より結び目がきれいです。半分にして、正解でした。
起き上がっていた。声が出かかって、枕をつかんで、顔に押しつけた。
設定の奥の、あの画面まで戻った。戻して、閉じた。消すのは、なしだ。
それから、遅れて、体のほうが冷えた。
半分にして、と書いてある。半分にする前の一行は、ぼくのスマホの下書きにしかなかった。
それを、さっき、自分の指で消した。
部屋を見まわした。四畳半に、ぼくしかいない。カーテンを開けた。田んぼと、蛙の声。人の形はどこにもない。閉めた。感想は、まだそこにあった。作品のページを上まで戻して、下まで送る。
並んでいる名前は、去年のぶんから、上から下まで、ぜんぶ同じだ。
眠れるわけがなくて、サンダルをつっかけて外へ出た。冷蔵庫に、母の字の紙が貼ってある。ごはん、チンして。母は昼のあいだ、役所と親戚のあいだを回っていて、夜は先に寝ている。
アーケードは半分がシャッターで、開いているのはコンビニと、酒屋の自販機だけだった。サンダルの底の音が天井に当たって、上から戻ってくる。シャッターの前を通ると、戻り方がすこし変わる。
夜なのに、空気がぬるい。
コンビニの前を、通りすぎていた。買うものを決めていなかったし、戻る気にもならなかった。足が、並びの奥のほうへ、勝手に行く。子どものころ、祖母に手を引かれて、この奥まで歩いた。それだけは覚えている。
並びのいちばん奥に、日よけの色が抜けた店があった。
汀書房。ずいぶん前に閉めたきりの古本屋だ。日よけは色が抜けて、布に張りがない。ガラス戸の内側には、古いカーテン。
戸の前に、まだらの猫が寝ていた。丸くなって、腹だけがゆっくり上がったり下がったりしている。ぼくが近づいても、目を開けなかった。
自分の足音の残りだけが、遅れて、上から降りてきた。
祖母に連れられて、ここに入ったことがある。残っているのは、まひろ、走らんの、という低い声だけで、中がどうだったかは、なにも出てこない。
カーテンのすきまの奥が、明るかった。街灯の光が届く角度じゃない。そこだけが、夕方の明るさだった。日が落ちる前の、道が長く見えるころの色だ。
息を、吸ったまま止めていた。膝の裏が、勝手に固くなる。
猫が、目を開けた。ぼくを、下から見た。それから、また閉じた。
ガラスに、手を伸ばさなかった。閉まっている店の前で、ぼくは、ただ立っていた。手のひらが、汗で湿っていた。
ポケットのスマホには、誰にも見せていない続きが入っている。
その人に、これを見せたい。




