4、選ばれる側へ
最初の覚書案がひとまず形になったのは、薄曇りの午後だった。
王宮と法務局を行き来しながら詰めていた文が、ようやく一通り並ぶ。帰還協議の起点、個人書簡の扱い、補助者の役目、解除に入る前の協議開始条項。どれも一文だけ見れば乾いた言葉だ。だが、その乾いた文の下に、これまで飲み込まれてきたものが幾つあるかを思えば、ただの紙とも言えなかった。
内廷側の確認を終えた帰り、リディアは離れへ続く渡り廊下を歩いていた。
窓の外では、庭の若葉が風に小さく揺れている。春の色はもう十分に明るいのに、胸の内は妙に静かだった。婚姻が止まり、王女の意思が残り、自分には新しい役目が来た。そこまで来てもなお、何かを急いで掴みたい気持ちにはならなかった。
むしろ今は、ようやく自分の足元が定まってきたことのほうが大きかった。
廊下の先で、ヘレナが侍女とともに歩いてくるのが見えた。
王女はリディアに気づくと足を止め、侍女を少し下がらせた。
こうして廊下の途中で言葉を交わすのは、考えてみれば初めてかもしれない。
「ちょうどよかった」
ヘレナはそう言って、手元の薄い封を差し出した。
「何でしょう」
「先ほど、北方の縁談について、内廷の古い控えを取り寄せてみたのです」
リディアは封を受け取り、中を改める。
写しは一枚だけだった。古い王族婚の簡単な記録で、同行者の扱いと書簡の経路が、あまりに短く片づけられている。
「……ずいぶん簡素ですね」
「ええ」
ヘレナは静かに頷いた。
「そして、今なら何が書かれていないかがよくわかります」
リディアはその紙を見下ろしたまま、小さく息をついた。
以前なら、こうした記録を読んでも、ただ不足の多い古い文書だとしか思わなかったかもしれない。けれど今は違う。誰の言葉が消えているのか、誰の退路が初めから置かれていないのか、その空白ばかりが目につく。
「殿下」
「はい」
「これから先、変わっていくと思います」
ヘレナは目を細めた。
「ええ。少しずつでも、そうであってほしいですね」
王女はそこで、ほんのわずかに笑う。
「あなたがいるのですから」
まっすぐな言葉だった。
慰めでも賞賛でもない。必要な人間へ向ける、静かな信頼の言葉だった。
リディアは一瞬だけ返答を失い、やがて小さく頭を下げた。
「できることはいたします」
「それで十分です」
ヘレナはそう言って、侍女とともに廊下の向こうへ去っていった。
残されたリディアは、しばらくその背を見送った。
差し出されるだけではない王女の背中だった。あの日、書庫で初めて会ったときの静けさとは、もうまるで違う。
封の中の写しをたたみ、指先で整えていると、反対側の廊下から足音が近づいてきた。
振り返るまでもなくわかった。
歩幅でわかるようになったのは、いつからだろう。
「まだお戻りでないと思いました」
セオドアが言う。
彼もまた、手に薄い革挟みを抱えていた。法務局から持ってきたのだろう。表情はいつもと変わらないが、目の疲れだけは少し隠しきれていない。
「殿下とお会いしていました」
「そうですか」
それ以上詳しくは問わず、彼はリディアの手元の紙へ一度だけ視線を落とした。
「何か見つかりましたか」
「古い婚姻記録です。見つかったというより、足りなさがよく見えるだけでした」
「それも見つかったということでしょう」
あまりにも平然と言うので、リディアは少しだけ可笑しくなる。
「あなたは、足りないものばかりを見つけるのがお好きですね」
「足りていないところを先に見なければ、後で困ります」
「その通りですが」
「では問題ありません」
そう言って、彼は革挟みを開いた。
中には、今日まとめた覚書の控えのほかに、もう一通、別の紙が挟まっていた。表題は短い。
婚資持参後の管理権限に関する補足案。
リディアは瞬きをした。
「もう次ですか」
「はい」
「ずいぶん早いですね」
「止まっていた分だけ、今は早いほうがいい」
その言い方が、いかにも彼らしかった。
婚姻が止まったことに感傷をはさまない。
だからといって冷たいのではなく、その先に何を残せるかへ、もう目が向いている。
セオドアは革挟みから紙を一枚抜き取り、リディアへ差し出した。
「この項は、あなたと見たいのです」
ごく自然な声音だった。
特別な響きを持たせようとする気配もない。ただ、本当にそうするのが当然だという顔で言われる。
リディアはその紙を受け取った。
指先に、紙の重みが思っていたよりはっきりと伝わる。
持参財産の管理権限。婚姻後の裁量。解除前の保全措置。どれもまた、片側だけが無防備になりやすい箇所だった。
「私でよろしいのですか」
尋ねてから、自分でも少しだけおかしくなった。
つい最近も、似たようなことを口にした気がする。それでも、まだときどき確かめたくなる。
セオドアは少しだけ眉を動かした。
「まだその問いが要りますか」
「……少しだけ」
「要りません」
きっぱりと言い切られて、リディアは小さく息をつく。
「あなたは本当に」
「何でしょう」
「人が迷う余地を残してくださらないのですね」
「必要なときには残します」
「今は」
「必要ありません」
そこまで言ってから、彼はほんの短く言葉を足した。
「あなたを選んでいるのは、代わりがいないからではありません」
リディアは、すぐには返せなかった。
廊下を渡る風が、窓辺の薄い帳をわずかに揺らす。
遠くで侍女たちの足音がしたが、それもすぐに遠ざかった。
セオドアは、こちらが言葉を失っても急がせなかった。
ただ、ごくまっすぐに見ている。
「あなたが、そこを見ているからです」
声は低く、落ち着いていた。
「どこが削られると片側だけが沈むのか。どこを曖昧にすれば、後で誰が言葉を失うのか。そこを見ている」
彼は一つひとつ、事実を置くように言う。
「だから、あなたと見ます」
それだけだった。
飾り気のない言葉だ。
愛を囁くような甘さもない。熱を帯びた告白とも違う。なのに、これまで受け取ってきたどんなやわらかな評価より、はるかに逃げ場がなかった。
ユリウスは、自分が整えた結果を受け取っていた。
目の前の男は、整える前の判断そのものを見ている。
その違いは、もう比べるまでもなかった。
リディアは視線を落とし、手元の紙の端をそろえる。
ほんの少しだけ指先が熱い。
「……それは」
ようやく声が出た。
「ずいぶん、誤解のしにくい言い方ですね」
「誤解されると困りますので」
「あまり困っているようには見えませんが」
「内心では困っております」
その返答に、リディアは思わず顔を上げた。
彼がそういう種類のことを、自分から言うのは珍しい。
セオドアは表情を大きく変えないまま、続ける。
「あなたがまだ、ご自分を“婚約を失った側”へ置き直そうとなさることがありますので」
胸の奥に、何かが静かに落ちた。
図星だった。
ここへ来て少しずつほどけてきたとはいえ、まだ完全ではない。必要とされても、頼られても、ときどき自分を失ったものの側へ戻そうとする癖が残っている。
彼はそれを見ていたのだ。
ずっと見ていたうえで、いまここで、あえて言葉にした。
「私は」
リディアはゆっくり息を吸った。
「もう、そこにだけ立っているわけにはいかないのでしょうね」
「はい」
セオドアは迷いなく答える。
「立っていてもかまいませんが、それだけでは足りません」
その答え方に、リディアは少しだけ笑った。
やさしいのか冷たいのか、最後まで判然としない。けれど、こういうときに必要なほうを選んでくるのは、この人らしいと思う。
「では」
彼女は手元の紙を持ち直した。
「これも拝見いたします」
セオドアが頷く。
「お願いします」
それで会話は途切れた。
だが、その沈黙はもう前のようなものではなかった。
二人で廊下を歩き出す。
どちらが先ともなく、足並みが自然にそろう。
窓の外では、夕方の光が庭の輪郭をやわらかくしていた。
王宮の石壁に反射したその明るさが、廊下の床を長く照らしている。
リディアは紙を抱えたまま、隣を歩く気配を静かに感じていた。
便利だったから置かれるのではない。
役に立つから使われるのでもない。
見るものを見て、判断する人間として、ここへ呼ばれている。
そして、そのことを最初から当然のように知っている人が、隣にいる。
胸の内で何かが、ようやく正しい場所へ収まる気がした。
この人だけは違う。
そう思ったとき、もうそれはただの比較ではなかった。
傷のあとから覗く感情ではなく、これから先へ向く静かな確信に近かった。
二人のあいだに、それ以上の言葉はなかった。
それでも、リディアはもう、自分が見られているのは役に立つ部分だけではないと知っていた。
そして、その視線を受け取ることが、もう怖いばかりではなかった。




