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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第8章 選ばれる側へ

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4、選ばれる側へ

最初の覚書案がひとまず形になったのは、薄曇りの午後だった。


王宮と法務局を行き来しながら詰めていた文が、ようやく一通り並ぶ。帰還協議の起点、個人書簡の扱い、補助者の役目、解除に入る前の協議開始条項。どれも一文だけ見れば乾いた言葉だ。だが、その乾いた文の下に、これまで飲み込まれてきたものが幾つあるかを思えば、ただの紙とも言えなかった。


内廷側の確認を終えた帰り、リディアは離れへ続く渡り廊下を歩いていた。


窓の外では、庭の若葉が風に小さく揺れている。春の色はもう十分に明るいのに、胸の内は妙に静かだった。婚姻が止まり、王女の意思が残り、自分には新しい役目が来た。そこまで来てもなお、何かを急いで掴みたい気持ちにはならなかった。


むしろ今は、ようやく自分の足元が定まってきたことのほうが大きかった。


廊下の先で、ヘレナが侍女とともに歩いてくるのが見えた。


王女はリディアに気づくと足を止め、侍女を少し下がらせた。

こうして廊下の途中で言葉を交わすのは、考えてみれば初めてかもしれない。


「ちょうどよかった」


ヘレナはそう言って、手元の薄い封を差し出した。


「何でしょう」


「先ほど、北方の縁談について、内廷の古い控えを取り寄せてみたのです」


リディアは封を受け取り、中を改める。

写しは一枚だけだった。古い王族婚の簡単な記録で、同行者の扱いと書簡の経路が、あまりに短く片づけられている。


「……ずいぶん簡素ですね」


「ええ」


ヘレナは静かに頷いた。


「そして、今なら何が書かれていないかがよくわかります」


リディアはその紙を見下ろしたまま、小さく息をついた。


以前なら、こうした記録を読んでも、ただ不足の多い古い文書だとしか思わなかったかもしれない。けれど今は違う。誰の言葉が消えているのか、誰の退路が初めから置かれていないのか、その空白ばかりが目につく。


「殿下」


「はい」


「これから先、変わっていくと思います」


ヘレナは目を細めた。


「ええ。少しずつでも、そうであってほしいですね」


王女はそこで、ほんのわずかに笑う。


「あなたがいるのですから」


まっすぐな言葉だった。

慰めでも賞賛でもない。必要な人間へ向ける、静かな信頼の言葉だった。


リディアは一瞬だけ返答を失い、やがて小さく頭を下げた。


「できることはいたします」


「それで十分です」


ヘレナはそう言って、侍女とともに廊下の向こうへ去っていった。


残されたリディアは、しばらくその背を見送った。

差し出されるだけではない王女の背中だった。あの日、書庫で初めて会ったときの静けさとは、もうまるで違う。


封の中の写しをたたみ、指先で整えていると、反対側の廊下から足音が近づいてきた。


振り返るまでもなくわかった。

歩幅でわかるようになったのは、いつからだろう。


「まだお戻りでないと思いました」


セオドアが言う。


彼もまた、手に薄い革挟みを抱えていた。法務局から持ってきたのだろう。表情はいつもと変わらないが、目の疲れだけは少し隠しきれていない。


「殿下とお会いしていました」


「そうですか」


それ以上詳しくは問わず、彼はリディアの手元の紙へ一度だけ視線を落とした。


「何か見つかりましたか」


「古い婚姻記録です。見つかったというより、足りなさがよく見えるだけでした」


「それも見つかったということでしょう」


あまりにも平然と言うので、リディアは少しだけ可笑しくなる。


「あなたは、足りないものばかりを見つけるのがお好きですね」


「足りていないところを先に見なければ、後で困ります」


「その通りですが」


「では問題ありません」


そう言って、彼は革挟みを開いた。


中には、今日まとめた覚書の控えのほかに、もう一通、別の紙が挟まっていた。表題は短い。


婚資持参後の管理権限に関する補足案。


リディアは瞬きをした。


「もう次ですか」


「はい」


「ずいぶん早いですね」


「止まっていた分だけ、今は早いほうがいい」


その言い方が、いかにも彼らしかった。


婚姻が止まったことに感傷をはさまない。

だからといって冷たいのではなく、その先に何を残せるかへ、もう目が向いている。


セオドアは革挟みから紙を一枚抜き取り、リディアへ差し出した。


「この項は、あなたと見たいのです」


ごく自然な声音だった。

特別な響きを持たせようとする気配もない。ただ、本当にそうするのが当然だという顔で言われる。


リディアはその紙を受け取った。


指先に、紙の重みが思っていたよりはっきりと伝わる。

持参財産の管理権限。婚姻後の裁量。解除前の保全措置。どれもまた、片側だけが無防備になりやすい箇所だった。


「私でよろしいのですか」


尋ねてから、自分でも少しだけおかしくなった。

つい最近も、似たようなことを口にした気がする。それでも、まだときどき確かめたくなる。


セオドアは少しだけ眉を動かした。


「まだその問いが要りますか」


「……少しだけ」


「要りません」


きっぱりと言い切られて、リディアは小さく息をつく。


「あなたは本当に」


「何でしょう」


「人が迷う余地を残してくださらないのですね」


「必要なときには残します」


「今は」


「必要ありません」


そこまで言ってから、彼はほんの短く言葉を足した。


「あなたを選んでいるのは、代わりがいないからではありません」


リディアは、すぐには返せなかった。


廊下を渡る風が、窓辺の薄い帳をわずかに揺らす。

遠くで侍女たちの足音がしたが、それもすぐに遠ざかった。


セオドアは、こちらが言葉を失っても急がせなかった。

ただ、ごくまっすぐに見ている。


「あなたが、そこを見ているからです」


声は低く、落ち着いていた。


「どこが削られると片側だけが沈むのか。どこを曖昧にすれば、後で誰が言葉を失うのか。そこを見ている」


彼は一つひとつ、事実を置くように言う。


「だから、あなたと見ます」


それだけだった。


飾り気のない言葉だ。

愛を囁くような甘さもない。熱を帯びた告白とも違う。なのに、これまで受け取ってきたどんなやわらかな評価より、はるかに逃げ場がなかった。


ユリウスは、自分が整えた結果を受け取っていた。

目の前の男は、整える前の判断そのものを見ている。


その違いは、もう比べるまでもなかった。


リディアは視線を落とし、手元の紙の端をそろえる。

ほんの少しだけ指先が熱い。


「……それは」


ようやく声が出た。


「ずいぶん、誤解のしにくい言い方ですね」


「誤解されると困りますので」


「あまり困っているようには見えませんが」


「内心では困っております」


その返答に、リディアは思わず顔を上げた。

彼がそういう種類のことを、自分から言うのは珍しい。


セオドアは表情を大きく変えないまま、続ける。


「あなたがまだ、ご自分を“婚約を失った側”へ置き直そうとなさることがありますので」


胸の奥に、何かが静かに落ちた。


図星だった。

ここへ来て少しずつほどけてきたとはいえ、まだ完全ではない。必要とされても、頼られても、ときどき自分を失ったものの側へ戻そうとする癖が残っている。


彼はそれを見ていたのだ。

ずっと見ていたうえで、いまここで、あえて言葉にした。


「私は」


リディアはゆっくり息を吸った。


「もう、そこにだけ立っているわけにはいかないのでしょうね」


「はい」


セオドアは迷いなく答える。


「立っていてもかまいませんが、それだけでは足りません」


その答え方に、リディアは少しだけ笑った。

やさしいのか冷たいのか、最後まで判然としない。けれど、こういうときに必要なほうを選んでくるのは、この人らしいと思う。


「では」


彼女は手元の紙を持ち直した。


「これも拝見いたします」


セオドアが頷く。


「お願いします」


それで会話は途切れた。

だが、その沈黙はもう前のようなものではなかった。


二人で廊下を歩き出す。

どちらが先ともなく、足並みが自然にそろう。


窓の外では、夕方の光が庭の輪郭をやわらかくしていた。

王宮の石壁に反射したその明るさが、廊下の床を長く照らしている。


リディアは紙を抱えたまま、隣を歩く気配を静かに感じていた。


便利だったから置かれるのではない。

役に立つから使われるのでもない。


見るものを見て、判断する人間として、ここへ呼ばれている。

そして、そのことを最初から当然のように知っている人が、隣にいる。


胸の内で何かが、ようやく正しい場所へ収まる気がした。


この人だけは違う。


そう思ったとき、もうそれはただの比較ではなかった。

傷のあとから覗く感情ではなく、これから先へ向く静かな確信に近かった。


二人のあいだに、それ以上の言葉はなかった。

それでも、リディアはもう、自分が見られているのは役に立つ部分だけではないと知っていた。


そして、その視線を受け取ることが、もう怖いばかりではなかった。

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