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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第8章 選ばれる側へ

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余話 今夜はもう

夜も更けているのに、机の上だけはまだ昼の続きのようだった。


封を切った書簡が三通。確認待ちの記録が二冊。脇には、さっき侍女が淹れ直してくれた茶。湯気はもう薄い。


リディアは返答途中の紙へ目を落とした。


持参金返還の起点は、双方本人または正式代理人からに限ること。

書簡の保管場所は、口頭でなく文面にて定めること。


そこまで書いて、ペン先が止まる。


指先が少しだけ重かった。

疲れているのだろうと思う。だが、ここでやめれば、明日の朝にもつれたまま残る。それが落ち着かなかった。


扉が二度、控えめに叩かれる。


「お嬢様。ヴァレント様がお見えです」


顔を上げる。


「こんな時間に?」


「急ぎのお話があると」


少しだけ迷ってから、リディアは頷いた。


「お通しして」


執事が下がる。


リディアは散らばっていた紙を重ね、机の端へ寄せた。整っていないところを見せたくないわけではない。ただ、今は自分でも、どこまでが今日の案件で、どこからが今日の疲れなのか、あまり混ざってほしくなかった。


間もなく、規則正しい足音が近づいてくる。


入ってきたセオドアは、昼間と変わらず無駄のない姿だった。黒の礼装に皺はなく、手には薄い紙束がある。


「遅い時間に失礼いたします」


「いえ。お座りになってください」


向かいの椅子を示すと、彼は一礼して腰を下ろした。


「王家側で何か」


「少し動きました。補足の件です」


やはり、とリディアは思う。

その紙束へ視線が落ちた。


「では、拝見します」


手を伸ばす。


だが、セオドアは渡さなかった。


ほんのわずか、指先が遠のいただけだった。乱暴でもなく、ためらいもない。


リディアは目を上げた。


「……急ぎではないのですか」


「急ぎです」


「でしたら」


「それでも、今お渡しするものではありません」


低い声だった。


責めているわけではない。だが、そこで押し通せる余地はないのだとわかる声だった。


リディアは指を引く。


「私は確認できます」


「そうおっしゃると思っていました」


「事実です」


「ええ」


セオドアは肯定した。

否定せず、そのまま続ける。


「確認できることと、今そうしていただくことは別です」


机の上の茶杯へ視線が落ちる。

口をつけた記憶が、曖昧だった。


少しの沈黙のあと、リディアは言った。


「皆さま、私にはそのように仰いません」


「そうでしょうね」


「困るからです。止めれば、滞ります」


「周囲はそう思うでしょう」


言い方が冷たかったわけではない。

むしろ静かすぎて、耳に残った。


「あなたがそう見せておられるからです」


その一言に、返す言葉が詰まる。


大丈夫だと思わせる顔をしてきたつもりはない。けれど、結果としてそうなっていたことくらい、わかっている。

わかっていたのに、他人の口から言われると、妙に逃げ場がなかった。


「そうでなければ、周囲が困ります」


やっとそう言うと、セオドアは少しだけ眉を寄せた。


「私は困りません」


短い一言だった。


それだけで、胸の奥がかすかに引きつる。


慰めではない。

優しい言葉でもない。

なのに、その場に積まれていたものの重さが、ほんの少しだけずれた気がした。


リディアは視線を伏せた。


「……役に立たない相手にも、ですか」


「今夜のあなたに、役目は求めていません」


思わず息が止まる。


その言い方は少し厳しいはずなのに、嫌ではなかった。

使えるかどうかで見られていないと、こんなふうにわかることがあるのだと、遅れて気づく。


セオドアは手元の紙束を机へ置かず、自分の脇へ戻した。


「明日の昼に改めます」


「朝までには整えます」


「整えなくて結構です」


今度は、少しだけむっとした。


「それでは意味がありません」


「あります」


「どこに」


「今夜、あなたを寝かせることにです」


顔を上げると、セオドアはまっすぐこちらを見ていた。


言い切ってから、自分で飾るつもりもない顔だった。

誤魔化しもない。だから余計に、熱が逃げない。


リディアは何か言い返そうとして、やめた。

たぶん今、正しい理屈を並べても、この人は退かない。


沈黙が落ちる。


先に口を開いたのはセオドアだった。


「茶が冷えます」


「……飲みます」


「見届けましょうか」


「そこまでは結構です」


その返しに、彼の目元がごくわずかに緩む。


立ち上がったセオドアは、机の脇を通りかけて、ふと足を止めた。


「リディア様」


名を呼ばれて、肩が小さく強張る。


「はい」


「明日までに、あなたが整えておくべきものは書類ではありません」


それだけ言って、彼は一礼した。


執事が扉を開ける。

規則正しい足音が、今度は遠ざかっていく。


部屋が静かになる。


リディアはしばらくそのまま座っていたが、やがて茶杯へ手を伸ばした。


もう冷めていると思ったのに、まだ少しだけ温かかった。

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