余話 今夜はもう
夜も更けているのに、机の上だけはまだ昼の続きのようだった。
封を切った書簡が三通。確認待ちの記録が二冊。脇には、さっき侍女が淹れ直してくれた茶。湯気はもう薄い。
リディアは返答途中の紙へ目を落とした。
持参金返還の起点は、双方本人または正式代理人からに限ること。
書簡の保管場所は、口頭でなく文面にて定めること。
そこまで書いて、ペン先が止まる。
指先が少しだけ重かった。
疲れているのだろうと思う。だが、ここでやめれば、明日の朝にもつれたまま残る。それが落ち着かなかった。
扉が二度、控えめに叩かれる。
「お嬢様。ヴァレント様がお見えです」
顔を上げる。
「こんな時間に?」
「急ぎのお話があると」
少しだけ迷ってから、リディアは頷いた。
「お通しして」
執事が下がる。
リディアは散らばっていた紙を重ね、机の端へ寄せた。整っていないところを見せたくないわけではない。ただ、今は自分でも、どこまでが今日の案件で、どこからが今日の疲れなのか、あまり混ざってほしくなかった。
間もなく、規則正しい足音が近づいてくる。
入ってきたセオドアは、昼間と変わらず無駄のない姿だった。黒の礼装に皺はなく、手には薄い紙束がある。
「遅い時間に失礼いたします」
「いえ。お座りになってください」
向かいの椅子を示すと、彼は一礼して腰を下ろした。
「王家側で何か」
「少し動きました。補足の件です」
やはり、とリディアは思う。
その紙束へ視線が落ちた。
「では、拝見します」
手を伸ばす。
だが、セオドアは渡さなかった。
ほんのわずか、指先が遠のいただけだった。乱暴でもなく、ためらいもない。
リディアは目を上げた。
「……急ぎではないのですか」
「急ぎです」
「でしたら」
「それでも、今お渡しするものではありません」
低い声だった。
責めているわけではない。だが、そこで押し通せる余地はないのだとわかる声だった。
リディアは指を引く。
「私は確認できます」
「そうおっしゃると思っていました」
「事実です」
「ええ」
セオドアは肯定した。
否定せず、そのまま続ける。
「確認できることと、今そうしていただくことは別です」
机の上の茶杯へ視線が落ちる。
口をつけた記憶が、曖昧だった。
少しの沈黙のあと、リディアは言った。
「皆さま、私にはそのように仰いません」
「そうでしょうね」
「困るからです。止めれば、滞ります」
「周囲はそう思うでしょう」
言い方が冷たかったわけではない。
むしろ静かすぎて、耳に残った。
「あなたがそう見せておられるからです」
その一言に、返す言葉が詰まる。
大丈夫だと思わせる顔をしてきたつもりはない。けれど、結果としてそうなっていたことくらい、わかっている。
わかっていたのに、他人の口から言われると、妙に逃げ場がなかった。
「そうでなければ、周囲が困ります」
やっとそう言うと、セオドアは少しだけ眉を寄せた。
「私は困りません」
短い一言だった。
それだけで、胸の奥がかすかに引きつる。
慰めではない。
優しい言葉でもない。
なのに、その場に積まれていたものの重さが、ほんの少しだけずれた気がした。
リディアは視線を伏せた。
「……役に立たない相手にも、ですか」
「今夜のあなたに、役目は求めていません」
思わず息が止まる。
その言い方は少し厳しいはずなのに、嫌ではなかった。
使えるかどうかで見られていないと、こんなふうにわかることがあるのだと、遅れて気づく。
セオドアは手元の紙束を机へ置かず、自分の脇へ戻した。
「明日の昼に改めます」
「朝までには整えます」
「整えなくて結構です」
今度は、少しだけむっとした。
「それでは意味がありません」
「あります」
「どこに」
「今夜、あなたを寝かせることにです」
顔を上げると、セオドアはまっすぐこちらを見ていた。
言い切ってから、自分で飾るつもりもない顔だった。
誤魔化しもない。だから余計に、熱が逃げない。
リディアは何か言い返そうとして、やめた。
たぶん今、正しい理屈を並べても、この人は退かない。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのはセオドアだった。
「茶が冷えます」
「……飲みます」
「見届けましょうか」
「そこまでは結構です」
その返しに、彼の目元がごくわずかに緩む。
立ち上がったセオドアは、机の脇を通りかけて、ふと足を止めた。
「リディア様」
名を呼ばれて、肩が小さく強張る。
「はい」
「明日までに、あなたが整えておくべきものは書類ではありません」
それだけ言って、彼は一礼した。
執事が扉を開ける。
規則正しい足音が、今度は遠ざかっていく。
部屋が静かになる。
リディアはしばらくそのまま座っていたが、やがて茶杯へ手を伸ばした。
もう冷めていると思ったのに、まだ少しだけ温かかった。




