3、この人だけは違う
その三日後、リディアは法務局の一室にいた。
王宮の会議室より狭く、書庫より乾いた部屋だった。窓は高い位置にひとつあるだけで、午後の光も机の端までしか届かない。棚には過去の婚姻案件の控えや裁定文の写しが並び、室内には紙とインクの匂いが薄く満ちている。
机の上には、内廷と法務局でまとめ始めた覚書の初稿が広げられていた。
婚姻後の帰還協議について。
個人書簡の扱いについて。
補助者及び帯同者の範囲について。
解除条項の設定について。
見出しだけでは乾いた文書に見える。
けれどその下に置く一文ごとに、誰かの退路や尊厳がぶら下がっているのだと、今のリディアにはよくわかる。
「この箇所ですが」
向かいからセオドアの声がした。
リディアは顔を上げる。
彼は初稿の二頁目を指で押さえていた。袖口まできちんと整えたいつもの格好で、机に向かう姿にも無駄がない。こうして同じ紙を挟んで向かい合っていると、婚姻案件の最中と何も変わらぬようでいて、実際には少し違っているのだと感じる。
もう彼は、王女案件のためだけに自分をここへ呼んでいるのではない。
「帰還請求の起点について、“王家側の確認を要する”だけでは弱い」
そう言って、彼は紙をこちらへ少し押し出した。
リディアはその文を読む。
婚姻後、本人から帰還協議の請求があった場合、王家側は確認のうえ速やかに当該協議を始めるものとする。
「たしかに」
彼女は言った。
「このままだと、確認が起点のようにも読めますね」
「はい」
「本人の請求が先で、確認はその後です」
「ええ」
セオドアは頷いた。
「そこを逆に読める形では残したくない」
リディアは紙の余白へ、短く書き込んだ。
本人からの請求を起点とし、王家側はその内容を確認したうえで、協議を開始するものとする。
書いてから、少しだけ間を置く。
「これならどうでしょう」
セオドアは一瞥して言った。
「よいです」
短い。
だが、その短さの中に迷いがない。
彼は紙を引き寄せ、今度は別の箇所へ目を移した。
「補助者の項は、前の言い方のほうが強かった」
「“必要な役目を担う者”のほうが、ですか」
「はい。医療及び文書補佐と機能で立てたほうが、人数の話へ戻されにくい」
リディアは頷きながら、さきほどの文と見比べる。
「数で書くと、どうしても削りやすいですものね」
「ええ。二人を一人に、三人を二人に、という話へすぐ落ちる」
「でも役目で置けば、減らしてよいのかが別問題になります」
「そのとおりです」
ごく自然な応酬だった。
互いに一から説明する必要がない。どこが危ういか、どこを曖昧にされやすいか、その感覚がほとんど同じ場所にある。
リディアはふと、それが妙に不思議だった。
ユリウスと婚約していたころも、彼に文面や席順を見せることはあった。だがあれは確認ではなく、たいてい結果を渡すためだった。彼は整ったものを見て「よくできている」と笑った。助かる、とも言った。けれど、その紙のどこをどう直し、なぜそうしたのかまで一緒に見ることは、ほとんどなかった。
目の前の男は違う。
整った結果より先に、どこが崩れやすいかを見る。
それを、ごく当たり前のことのように自分と共有する。
「何でしょう」
気づけば、セオドアがこちらを見ていた。
「いえ」
「違いますね」
「何がですか」
「いま、文ではないところを見ておられた」
その言い方に、リディアは少しだけ言葉を失った。
ごまかすほどのことでもない。
けれど、そのまま答えるのも妙に気恥ずかしい。
「……少し、考え事を」
「仕事に関するものですか」
「そうとも言えます」
セオドアはそれ以上追及しなかった。
追及しないまま、机の上の三頁目を開く。
解除条項について。
そこにはまだ空欄が多かった。
「この項がいちばん難しい」
彼は言う。
「最初から解除を置けば、婚姻の安定を損なうと言われやすい。置かなければ、何も持たぬまま入ることになる」
「どちらにしても嫌がられますね」
「はい」
リディアは紙へ視線を戻した。
解除。
その言葉には、どうしても胸の内でひっかかるものがある。
婚約破棄を経たばかりだから、というだけではない。終わりを先に文へ置くことが、いかに嫌われやすいかを、女の側はよく知っている。
それでも必要なときがある。
なければ片側だけが沈むと知っているからだ。
「全面解除ではなく」
リディアはゆっくり言った。
「重大な違反があった場合の協議開始条項として置くのはどうでしょう」
セオドアが頷く。
「同じことを考えていました」
その返答があまりに早くて、リディアは少しだけ可笑しくなった。
「本当に」
「何でしょう」
「あなたはいつも、答え合わせのようにおっしゃいますね」
「答え合わせでしょう」
平然とそう返される。
リディアは思わず小さく笑った。
「まだ私が間違えている可能性もあるでしょう」
「あります」
「否定してくださらないのですね」
「ですが、そこは合っていました」
そう言って彼は、初稿の空欄へごく短く言葉を書き入れた。
婚姻継続に重大な支障を来す事情が生じた場合、当該案件について王家側との協議を開始するものとする。
リディアはその文を読み、少しだけ首を傾ける。
「“重大な支障”が広すぎませんか」
「広いです」
「では」
「先に広く置いて、後で詰めます」
その手順が、いかにも彼らしかった。
まずは起点を消さない。細部は後で狭める。逆にすると、最初から何も立たなくなる。
リディアはその文の末尾へ指先を置いたまま言う。
「あなたは本当に、起点を残すことを優先なさいますね」
「そこが消えれば、後は飾りです」
言い切る声は平板だった。
だが、その平板さが妙に胸へ残る。
結果より先に、何が始まるかを見る。
整って見えるかより、どこが痩せるかを見る。
その視線の向きが、自分と同じなのだと、こういうときはっきりわかる。
部屋の外では、人の往来が遠く聞こえるだけだった。
法務局の午後は、王宮より静かだ。だからこそ、紙をめくる音や筆先のかすれまでがよく響く。
ひと通りの確認が終わり、リディアは一度だけ肩をほぐした。
思っていた以上に力が入っていたらしい。
その動きを見て、セオドアが言う。
「休みますか」
「いえ、そこまででは」
「そこまでです」
いつものように間を置かずに返される。
リディアは眉を寄せた。
「法務局は、人の疲れにまで口を出すのですか」
「必要なら」
「便利な言葉ですね」
「便利ではなく事実です」
彼はそう言って、机の上の紙をまとめはじめた。
その動作を見ながら、リディアは不意に思う。
ユリウスは、自分が気づく前に整っていることを好んだ。
目の前の男は、自分が気づかぬうちに削られていることを嫌う。
その差は、ずいぶん大きい。
「エーヴェル令嬢」
呼ばれて、顔を上げる。
「はい」
「先ほど、何を考えておられましたか」
先ほど。
文ではないところを見ていた、と言われたときのことだろう。
リディアは少しだけ迷った。
けれど、黙って逸らすほどでもない気がした。
「昔のことを少し」
「婚約中の」
なぜそこまでわかるのか、と問いたくなる。
だが問えば、彼はたぶん“いまの顔で十分でした”とでも言うのだろう。
「……ええ」
そう認めると、セオドアは紙をまとめる手を止めなかった。
「嫌な記憶を呼びましたか」
「そこまでではありません」
それは本当だった。
傷まないわけではない。けれど、いま胸にあるのは痛みそのものではない。
「違いを考えていました」
「何の」
リディアは彼を見た。
窓の高い位置から差し込む光が、机の上へ斜めに落ちている。彼の横顔は相変わらず変わらない。だからこそ、こういうことを言うのが妙に難しい。
「以前の私は、整えたものを渡して終わりでした」
少しずつ言葉を置く。
「席順も、文面も、贈答も。見ていただくことはあっても、どこが危ういかを一緒に見ることは、あまりありませんでした」
セオドアは黙って聞いている。
「けれどあなたは、そこを先に見ます」
そこで、ようやく彼の手が止まった。
「そうでしょうか」
「ええ」
リディアは答えた。
「整ったものより、どこから崩れるかを見ている。そこが、ずいぶん違うのだと思いました」
沈黙が落ちる。
長くはない。だが、軽くもなかった。
やがてセオドアは、ごく当たり前のことのように言った。
「あなたが、そこを見ているからでしょう」
リディアは一瞬、意味を取り損ねた。
彼はそのまま続ける。
「整えた結果だけを見ている相手には、その話はできません。ですが、あなたはどこが危ういかを先に見ている。ですから、そこを話します」
その言葉は、妙に静かに胸へ落ちた。
褒め言葉の形をしていない。
情熱的でもない。
ただ、ごく当然のこととして言われただけだ。
それなのに、これまで受け取ってきたどんなやわらかな評価より、ずっと深く入ってくる。
リディアは視線を落とした。
「……そういう言い方は、ずるいですね」
「何がでしょう」
「こちらが受け流しにくいので」
「受け流していただく必要がありませんので」
また、そういうふうに返す。
あまりにそのままで、少しだけ笑いたくなる。
笑いたくなるのに、胸の奥は妙に静かだった。
自分は今、初めて“整える手”としてではなく、“見る人”として扱われているのかもしれない。
そう思うと、婚約破棄の夜から続いていた何かが、ほんの少しだけ違う場所へ収まる気がした。
セオドアは革挟みを閉じ、立ち上がる。
「今日はここまでです」
「はい」
「続きは明後日、内廷と合わせます」
「わかりました」
彼は机の脇へ回りかけてから、ふと足を止めた。
「ひとつだけ」
「何でしょう」
「先ほどの違いは、間違っていないと思います」
リディアは顔を上げた。
彼はいつもと同じ顔をしている。
ただ、その一言だけが、少し遅れて置かれた。
「私は、整ったものを受け取るだけの相手ではありません」
そこまで言って、わずかに言い直すように続ける。
「少なくとも、あなたに対しては」
言葉はそれで終わった。
それ以上は足されない。
告白でもない。
けれど、足されないからこそ、かえって逃がしにくい。
リディアは何も言えなかった。
ただ、胸の内でひとつだけ、たしかなことがあった。
この人だけは違う。
それは甘い感情の名ではまだ呼べない。
けれど、ユリウスとの違いを数え上げるまでもなく、静かにはっきりわかってしまう種類のものだった。
窓の外では、午後の光が少しずつ色を変えはじめていた。
法務局の乾いた部屋の中で、リディアは整え終えた紙から静かに手を離す。
見られているのは、もう役に立つ部分だけではなかった。




