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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第8章 選ばれる側へ

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2、残った役目

王宮からの使いが来たのは、その翌朝だった。


朝食のあと、執事が銀盆に一通の封書を載せて運んでくる。封蝋は簡素で、祝いでも見舞いでもない、実務のための文だとひと目でわかった。


リディアは食卓の端でそれを受け取り、静かに封を切った。


文面は短い。


内廷にて、今後の婚姻案件に関わる整理の件で、あらためて話をしたい。

都合がつくなら、午後に登城を願いたい。


それだけだった。


礼状でもなければ、単なる報告でもない。

けれど、何のために呼ばれるのかは、読み終えた瞬間にもまだはっきりとは見えなかった。


向かいに座っていた父が、杯を置く音を小さく立てた。


「何だ」


「王宮からです」


リディアは紙を折りたたみ、父へ向けて少しだけ見せた。


「今後の婚姻案件に関わる整理について、お話があると」


父は受け取ってまで読もうとはしなかった。

ただ、その一文だけで十分らしい顔をする。


「礼を述べて終わり、ではなさそうだな」


「ええ」


リディアはそう答えたが、胸の内ではまだ少し測りかねていた。


婚姻は止まった。

王女の意思も残った。

そこまでで、自分の役目もいったん終わったのではないかと思っていたのだ。


もちろん、上席官から今後も力を借りたいとは言われた。だがあの場での言葉は、半ば礼の延長のようにも受け取れた。実際にこうして翌朝のうちに呼び出しが来るとは、正直に言えば思っていなかった。


父はしばらく黙っていたが、やがて言う。


「行くのだろう」


「はい」


「なら、礼を述べるつもりで行くな」


リディアは顔を上げた。


父はいつものように多くを言わない。

だがその一言で、何を言いたいのかは十分に伝わった。


慰労や同情を受けに行くつもりで席へ着くな。

呼ばれたのなら、求められているものを見てこい。


「……承知しました」


そう答えると、父はそれで話を終えた。

それ以上何も言わず、冷めかけた茶を静かに口へ運ぶ。


リディアは手元の封書へもう一度目を落とした。


礼を述べるつもりで行くな。


その言葉が、思っていたより深く胸へ残った。


午後、通されたのは王宮の中でもよく陽の入る小さな会議室だった。


大きな案件を動かすための部屋ではない。だが応接のためだけの場所でもない。壁際には薄い背表紙の文書が並び、机の上にはすでに何枚かの紙が整えて置かれている。


中には上席官、次席官、記録管理官が揃っていた。

窓際にはセオドアもいる。


彼はリディアが入室しても特に驚いた様子は見せなかった。

あらかじめ呼ばれることを知っていたのだろう。そう思うと少しだけ釈然としないが、今ここで言うことでもない。


礼を済ませて席に着くと、上席官が前置きなく口を開いた。


「本日は、先日の件に関する謝意をお伝えするため――と言いたいところですが」


そこで一度だけ、口元をほんのわずかに緩める。


「それだけではありません」


やはり、と思う。

だが同時に、妙に背筋が伸びた。


上席官は机上の一枚をこちらへ向けた。


「今回の件で、王家の婚姻案件において何を最初に確認すべきか、内廷として改めて整理する必要があると判断しました」


リディアは紙を受け取る。


そこには、まだ骨組みだけの見出しが並んでいた。


婚姻後の帰還協議について。

個人書簡の扱いについて。

補助者及び帯同者の範囲について。

持参財産及びその管理について。

解除条項の設定について。


見ればわかる。

これは一件の後始末ではない。

今後に向けた整理だ。


「覚書を作るのですか」


リディアが問うと、次席官が頷いた。


「王女、公女、それに内廷が深く関わる婚姻案件について、最低限確認すべき条件をまとめた内向きの整理文です」


記録管理官が続ける。


「今までも文書がなかったわけではありません。ですが、慣例と口伝が多く、こうした形で整理するには至っておりませんでした」


「今回、それでは足りぬとわかったのです」


上席官の声は淡々としていた。


「そして、どこが足りなかったかを最もよく見ていたのが、あなたでした」


その言葉に、リディアは返答を少し失った。


褒め言葉として受けるには、場が乾きすぎている。

同情ではない。

だからこそ、まっすぐに受け取るしかない種類の言葉だった。


上席官は机の上で手を組む。


「率直に申し上げます。これを内廷だけで整えれば、どうしても内側の都合に寄りやすい。法務局だけで整えれば、条文としては立っても、実際にどこで女性側が飲み込まされるかの感覚が薄くなる」


そこで一度、視線をリディアへ置いた。


「あなたには、その感覚がある」


部屋の中が静かになる。


その“感覚”という言い方が、妙に正確だった。

学識や立場ではなく、どこが言い換えられ、どこが曖昧にされ、どこから片側だけが沈むのかを見抜く感覚。


それが求められているのだとわかる。


「ですので」


上席官は続けた。


「この覚書の初稿整理に、あなたの力を借りたい」


唐突ではない。

けれど、軽く受けられるほど小さくもなかった。


リディアは目の前の見出しへ視線を落とした。


帰還。

書簡。

補助者。

財産。

解除。


どれも、先日の婚姻案件で何度も見てきた言葉だ。

だが今は、ひとつの婚姻を止めるためではなく、次に誰かが同じように何も持たぬまま差し出されぬために並べられている。


「私でよろしいのですか」


気づけば、そう問うていた。


上席官は即座に答えなかった。

代わりに、記録管理官が静かに言う。


「正確に申せば、あなたがよろしいのです」


その返答は、思っていた以上に重かった。


自分でも少しだけ眉が動いたのがわかった。

謙遜を求められているわけではない。慰めでもない。必要だから呼ばれたのだと、あまりにそのまま置かれている。


次席官が、少しだけ言葉を和らげるように足す。


「もちろん、これは今日この場で即答いただく話ではありません。ご負担もあるでしょうし、他家の令嬢にそこまで頼むべきかという見方が内廷にまったくないわけでもない」


「ですが」


今度はセオドアが口を開いた。


「それでも、あなたを外して組み直せば、同じ箇所がまた曖昧になります」


その声音は、いつもと変わらない。

変わらないからこそ、妙に胸へ残る。


あなたが必要だ、と言葉を飾らずに言うと、こういう響きになるのかと、少し遅れて思う。


上席官は短く頷いた。


「返答は急ぎません。ですが、できればお引き受け願いたい」


そこまで言われれば、もう礼儀上の逡巡で答えを遅らせるのも違う気がした。


リディアは紙の上に置いた指先を、ほんの少しだけ引き寄せる。


つい数日前まで、自分はまだ、婚約を失ったあとの残り火のような気分で王宮へ出入りしていた。

必要とされたのは、偶然その場にいたからかもしれない。王女案件という特別な件だったからかもしれない。どこかでそう思っていた。


けれど今、求められているのは別のものだ。


婚約を失った令嬢としての自分ではない。

判断を持つ人間としての自分だ。


その違いが、ようやく胸へ落ちてくる。


「……お役に立てるのであれば」


そう言ったとき、自分の声が少しだけ静かだった。


「お引き受けいたします」


上席官が深く頷く。

次席官も、記録管理官も、それぞれ短く礼を取った。


大げさな歓迎はない。

だからこそ、その場の決まり方がかえって本物に思えた。


そのあと、話は具体へ移った。


初稿では、婚姻後の帰還請求をどう記すか。

書簡条項の例外をどこまで許すか。

補助者の語を人数で書くか、機能で書くか。

解除条項は最初から明記すべきか、それとも王家案件に限って別紙とするか。


話の中身は、ひどく実務的だった。


だがリディアは、その乾いたやり取りの中で奇妙な落ち着きを感じていた。

もう自分は、婚約破棄の余波でここにいるのではない。

いまこの場で必要な仕事があり、その仕事のために席がある。


それは当たり前のことのはずなのに、なぜか今までうまく信じきれていなかった。


ひと通りの整理を終えて席を立つころには、窓の外の光が少し傾いていた。


上席官たちは次の文案確認のため席を外し、会議室にはリディアとセオドアだけが残った。


机の上には、さきほどまで使っていた見出し紙が置かれている。

その端をそろえようとして、リディアはふと手を止めた。


「どうなさいました」


セオドアが問う。


「いえ」


リディアは紙から視線を上げた。


「まだ少し、不思議なのです」


「何がですか」


「こうして当然のように呼ばれることが」


彼はすぐには答えなかった。

革挟みの紐を結び、指先で一度だけ形を整えてから、ようやく言う。


「当然でしょう」


あまりにも迷いのない返答だった。


リディアは少しだけ眉を寄せる。


「あなたはいつもそうですね」


「何がです」


「人が戸惑っているところを、まるで戸惑う余地がないように言うところが」


セオドアはそこでようやく、ほんの少しだけ目を細めた。


「戸惑いが不要な場合もあります」


「今回はそうだと」


「はい」


彼は淡々と続ける。


「あなたは今回、たまたま居合わせたのではありません。どこが曖昧にされ、どこから守りが痩せるかを見抜いた。その判断が必要だったから呼ばれたのです」


その言い方は、慰めではなかった。

だからごまかしようがない。


リディアは視線を落とし、机上の見出し紙を静かに重ねた。


帰還。

書簡。

補助者。


見慣れた語が、今日は少し違って見える。

誰かの婚姻を止めた語ではなく、これから先、誰かが何も持たぬまま進まぬための語として並んでいる。


「……私はまだ」


小さく言葉をこぼすと、セオドアが黙って待った。


「失ったものの側に、立ち続けていたのかもしれません」


自分でも意外なくらい、すんなり出た言葉だった。


婚約破棄の夜から、ずっとそうだったのだろう。

清算を終え、王女案件へ入り、必要とされてもなお、どこかで自分を“失った令嬢”として扱っていた。

そこから一歩出ることに、自分のほうがまだ慣れていなかったのだ。


セオドアは短く答える。


「そうでしょうね」


「否定してくださらないのですね」


「事実ですので」


あまりにもそのままで、少しだけ腹が立つ。

だが同時に、それで助かるのも事実だった。


「ですが」


彼はそこで、ごく小さく声を落とした。


「もう十分ではありませんか」


リディアは顔を上げた。


彼はいつものように特別な顔をしていない。

ただ、こちらをまっすぐに見ている。


「失ったことを否定しろとは申しません。ですが、いつまでもそこにだけ立っている必要はないでしょう」


その一言が、ひどく静かに胸へ入ってきた。


慰めではない。

励ましとも少し違う。

ただ、見えている位置をそのまま指し示されただけだ。


それなのに、ユリウスから何度もかけられたどんなやわらかな言葉より、ずっと動きようがなかった。


リディアは、息をつくように小さく笑った。


「あなたは、本当に」


「何でしょう」


「やさしくないですね」


セオドアは少しだけ考える顔をしてから、言った。


「必要なら、そう見えることはあります」


その返しに、リディアは今度こそはっきりと笑ってしまった。

書庫でも、会議室でもなく、何も決着を迫られていない午後に、こうして笑うのは久しぶりな気がした。


笑いながら、ようやく自分でもわかる。


失ったものはたしかにある。

けれど、その喪失の中に立ち尽くしていなければならないわけではない。


必要とされる席があり、見られる目があり、そこへ向かって歩き出してよいのだと、ようやく少しだけ思えた。


窓の外では、午後の光が静かに色を変え始めていた。


リディアは整え終えた見出し紙から手を離し、まっすぐに前を向く。


残った役目は、喪失の続きではなかった。

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