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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第8章 選ばれる側へ

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1、止まったあとの静けさ

婚姻の話が止まってから、王宮はかえって静かになった。


大きな騒ぎは起きていない。

誰かが露骨に口にすることもない。

それでも、ヘレナへ向けられる視線の質だけが、前とは少し変わっていた。


腫れものに触るような遠慮でもない。

哀れみでもない。


まだ言葉にはなっていないが、あの王女は自分で同意を与えなかったのだ、という認識が、王宮の内側に薄く広がり始めている。人はそういう変化を、案外正確に嗅ぎ取るものだと、リディアは思った。


その日の午後、ヘレナは珍しく先触れもなく離れの書庫へ来た。


最初に二人が向き合った場所だ。

高い窓から落ちる光はやわらかく、棚に並ぶ古い背表紙の色も、春の午後だけは少し穏やかに見える。


リディアが立ち上がろうとすると、ヘレナは小さく首を振った。


「そのままで結構です」


王女はいつものように整った声でそう言い、窓際の机へ歩み寄った。

衣の色は淡い灰青で、あまり飾り気はない。けれど、婚姻案件の最中に見せていた張りつめた硬さは、いくらかほどけているように見えた。


「急にお訪ねしてしまいました」


「いいえ」


リディアは答える。


「何かございましたか」


「ございません」


ヘレナはそう言って、机の上に置かれていた紙束へ目を落とした。


「何も起きていないことを、少し確かめたくなっただけです」


その言い方に、リディアは一瞬だけ返答を迷った。


王宮では、何も起きないことが必ずしも良いことではない。

ときには、誰かが痛みも違和感も飲み込んだ結果、何事もなく見えているだけのこともある。


だが今のヘレナの言う「何も起きていない」は、そういう意味ではないのだろう。


王女は静かに続けた。


「止まるときは、もっと騒がしいものかと思っておりました」


「婚姻のことですか」


「ええ」


ヘレナは机の縁へ指先を置いた。


「もっと誰かが怒り、もっと誰かが困った顔をし、もっと多くの言葉が飛び交うのかと。ですが実際には、拍子抜けするほど静かでした」


「そういうものかもしれません」


リディアは言った。


「進むときのほうが、よほど言葉を要しますから」


ヘレナはその言葉を受けて、わずかに目を細めた。


「たしかに」


短くそう返し、それからしばらく黙った。


書庫の静けさは、前の沈黙とは違っていた。

不安の輪郭を探る沈黙ではない。何かが終わったあとで、自分の手元に何が残っているかを確かめるような沈黙だった。


やがて王女は、窓の外を見ながら言った。


「私は、もっと空になるのだと思っておりました」


リディアは答えずに待った。


「婚姻が止まれば、王女としてひとつ役目を果たせなかったことだけが残るのではないかと。けれど、いまは……そうでもないのです」


ヘレナはそこで初めて、少しだけ戸惑ったように笑った。


「不思議ですね」


「不思議ではないかもしれません」


リディアがそう言うと、王女は視線を戻した。


「どうしてでしょう」


「殿下のご意思が、ちゃんと残ったからです」


その一言に、ヘレナはすぐには答えなかった。


机の上の木目を見つめるように少し視線を落とし、それから小さく息を吐く。


「……ええ」


その声音には、ようやく人らしい疲れが混じっていた。

誇らしさではない。自分で止めたのだと知っている人の、静かな疲れだ。


「以前なら」


ヘレナは言う。


「婚姻が止まるというのは、ただ傷が残ることだと思っておりました」


「そういうものも多いでしょうね」


「はい。ですから、傷だけではないと感じているのが、まだ少しうまく飲み込めないのです」


リディアは王女の横顔を見た。


最初に書庫で会った日、ヘレナは“怖い”と言ってよいのかをためらっていた。

いまは違う。怖さが消えたわけではない。それでも、止めたあとに自分の内側へ残ったものまで見ようとしている。


「殿下が守ろうとなさったものが、形だけで終わらなかったからでしょう」


リディアは静かに言った。


「帰ること。言葉が届くこと。必要な方が側にいること。それを、ただの気むずかしさではないと残せました」


ヘレナはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。


「ええ。それが大きいのでしょうね」


王女は窓際から少し離れ、棚のひとつへ目をやった。

古い婚姻記録の背表紙が、整然と並んでいる。


「きっと、ここに残っている多くの婚姻は、止まらずに進んだのでしょう」


「ええ」


「その中には、止まらなかったから良かったとは言えぬものも、あったのかもしれませんね」


その言葉に、リディアはすぐには返せなかった。


けれど、否定する気にもなれない。

紙の上には無事に結ばれた婚姻として残っていても、その内側に何があったかまでは、たいてい残らない。


「あるでしょうね」


ようやくそう言うと、ヘレナは小さく頷いた。


「だから私は、今回止まったことを、ただの不足としてだけは考えたくないのです」


その一文で、ようやく王女の胸の内がまっすぐ見えた気がした。


婚姻を止めたことが誇りだと言いたいのではない。

止めたことで、ようやく守れたものがあった。それを自分で軽く扱いたくないのだ。


リディアは静かに言う。


「不足ではありません」


「そうでしょうか」


「はい。少なくとも、殿下が何も持たぬまま差し出されなかったことは、はっきり残りました」


ヘレナはその答えを聞いて、ほんの少しだけ目元をやわらげた。


「あなたは、いつもそういうところだけは迷いませんね」


「迷うときもございます」


「私にはそう見えません」


「見せぬだけかもしれません」


その返しに、ヘレナはわずかに笑った。

大きな笑みではない。けれど、婚姻案件の最中にはほとんど見なかった、少しだけ素の顔に近いものだった。


そのとき、書庫の扉が控えめに叩かれた。


入ってきたのは、王女付きの若い侍女だった。

一礼してから、いささか緊張した面持ちで言う。


「殿下。先ほど、午後のお茶のお誘いが二件ほど届きました」


ヘレナはわずかに眉を上げた。


「私に?」


「はい。どちらも、今までそれほど親しくはなかった方々ですが……」


侍女はそこで言葉を濁した。


理由は、言わずともわかった。

婚姻が止まった王女へ、様子見の手を伸ばしてきたのだろう。哀れみ、興味、探り、あるいは純粋な接近。どれが混じっているかはわからないが、静かな王宮にもそういう動きはある。


ヘレナは少しだけ考え、それから穏やかに言った。


「今はどちらもお断りを。落ち着きましたら、こちらからご挨拶いたします」


「かしこまりました」


侍女は一礼して下がった。


扉が閉まると、ヘレナは短く息を吐く。


「思っていたより、早いですね」


「何がでしょう」


「止まったあとの扱いです」


その言い方に、リディアは少しだけ目を細めた。


「変わりましたか」


「ええ。まだ大きくではありません。ですが、昨日までと同じようには扱われておりません」


王女は机へ手を置いたまま続ける。


「婚姻が止まった王女、としてではなく、同意を与えなかった王女として見ている方も、少しはおられるのでしょう」


それは喜ぶべきことかどうか、すぐには決められない種類の変化だった。

だが少なくとも、何も変わらずに流されていくよりはましだと、リディアは思う。


「殿下がそう残されたからでしょう」


「……ええ」


ヘレナは小さく頷いた。


「それなら、悪くありませんね」


その言葉に、書庫の空気が少しだけ明るくなった気がした。


王女はしばらく窓の外を見ていたが、やがて振り返る。


「エーヴェル令嬢」


「はい」


「あなたはこれから、忙しくなるのでしょうね」


唐突なようでいて、そうでもなかった。

上席官の言葉は、ヘレナにも伝わっているのだろう。


「まだ、わかりません」


リディアがそう答えると、ヘレナは首を振った。


「いいえ。きっと、そうなります」


その断言が妙に静かで、だからこそ重かった。


「私は今回、自分の婚姻について、自分で考え、自分で同意を与えぬと申しました。けれど、そこへ至るまでに、あなたがいなければ言葉にならなかったものが多すぎます」


リディアは答えに迷った。

同意してしまうのも違う。謙遜しすぎるのも違う。


ヘレナは、そんな戸惑いごと見抜いているように続ける。


「同情ではなく申し上げます。これから先、あなたのような方を必要とする場は、きっと増えます」


その言葉は、上席官の依頼とはまた別の重さを持っていた。

それは王家の実務上の判断ではなく、当事者だったヘレナ自身の実感だったからだ。


リディアは小さく息をつく。


「……そのときは、できる限りのことをいたします」


「はい」


ヘレナは頷いた。


「それで十分です」


短い会話だった。

だがそのあと、書庫に落ちた沈黙は不思議と温かかった。


婚姻は止まった。

けれど何も残らなかったわけではない。

王女には、自分の同意を持つという前例が残った。

そしてリディアには、失った婚約の残りではない、新しい役目の輪郭が見え始めている。


そのことが、書庫の午後の光の中でようやく静かに馴染み始めていた。


「では」


ヘレナはそう言って立ち上がる。


「私はそろそろ戻ります」


リディアも席を立つ。


「お見送りいたします」


「いいえ。今日はここで」


王女は少しだけ笑った。


「私はもう、差し出されるだけではございませんので」


その一言に、リディアは思わず目を見開き、それから小さく笑った。


「ええ」


ヘレナは一礼し、侍女とともに書庫を出ていった。


扉が閉まったあと、部屋にはまた紙の匂いと静けさだけが残る。

だが最初にここで王女と会った日の静けさとは、もうまったく違っていた。


リディアは机の上の紙を静かに揃えながら、胸の内で思う。


止まったあとには、失ったものだけが残るのではない。

守れたものも、たしかに残るのだと。

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