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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第7章 止めるための同意

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5、残ったもの

先方へ返す文が閉じられたのは、その日の夕刻だった。


封緘の蝋が冷え、書記が控えを整え、使いの者がそれを持って下がる。大きな音は何ひとつしない。だが、その静かな一つ一つで、婚姻はもう進む話ではなくなったのだとわかった。


王宮の回廊には、春の遅い光がまだ残っていた。


窓の外の庭は明るいのに、内側の空気は妙に落ち着いている。騒ぎが終わったあとの静けさではない。ようやく余計な言い換えが剥がれ、残すべきものだけが残ったあとの静けさだった。


リディアは、ヘレナに呼ばれて離れの小さな書庫へ向かった。


最初に王女と向き合った場所だ。

あの日は、婚姻の条件をまだ誰の言葉に乗せればよいかも定まっていなかった。今は違う。同じ部屋なのに、置かれている沈黙の重さがまるで違っている。


ヘレナは窓際の机のそばに立っていた。

いつものように華美ではない装いだったが、今日の王女はもう、最初に会ったころの曖昧さをどこにも残していなかった。


「いらしてくださって、ありがとうございます」


「お呼びでしたので」


リディアがそう返すと、ヘレナは小さく頷いた。


机の上には、今日の控えの写しが一部だけ置かれている。

正式な文面そのものではない。だが、婚姻が止まるまでの経緯と、王女が同意を与えなかった理由が、簡潔にまとめられていた。


ヘレナはその紙へ目を落とし、静かに言った。


「思っていたより、静かに終わるものなのですね」


「終わった、とはまだ申しにくいですが」


「ええ」


ヘレナは、わずかに目を細めた。


「それでも、進まなくなったことは確かです」


窓の外で木の枝が揺れた。

その影が、机の上の紙を一瞬だけ横切る。


王女はしばらくそれを見ていたが、やがて続けた。


「不思議です。もっと、何かを失ったように感じるかと思っておりました」


リディアは答えを急がなかった。


ヘレナは、自分で考えながら言葉を選ぶ人になった。だからこの沈黙は、埋めるためのものではなく、待つためのものだとわかる。


「もちろん、軽いことだとは思っておりません」


ヘレナは言う。


「王女の婚姻が止まるのですから、何も変わらずに済むはずはありません。けれど……思っていたほど、何も残らぬ感じではないのです」


そこまで聞いて、リディアはようやく口を開いた。


「残ったものがあるからでしょう」


ヘレナは顔を上げた。


「何がでしょう」


「殿下ご自身のご意思が、ちゃんとその形で残りました」


王女は少しだけ黙り、それから静かに息を吐いた。


「……ええ。そうかもしれません」


その言い方に、ようやく少しだけ人らしい疲れが混じる。

誇らしさではない。自分で止めたのだと知った人の、静かな疲れだ。


「前なら」


ヘレナは机の縁へ指先を置いたまま言った。


「私は、止まった婚姻に残るのは傷だけだと思っておりました」


「そういうものも多いでしょうね」


「はい。ですが今回は、傷だけではありませんでした」


王女は控えの紙を見下ろす。


「帰ることができること。私の言葉が届くこと。必要な者が側にいること。それが、ただの気むずかしさではなかったと残った」


その一文に、リディアは短く頷いた。


いちばん大きかったのは、きっとそこだった。

婚姻が止まったことより、何を理由に止まったかが、ようやく曖昧でない形になったことのほうが。


「殿下」


「はい」


「今後、同じようには進まなくなると思います」


ヘレナは少し考えてから、うなずいた。


「ええ。おそらくは」


「殿下の次に婚姻を結ぶ方にとっても」


「前例になりますね」


その言葉には、自惚れはなかった。

ただ、もうそこから目を逸らさない人の落ち着きがある。


「重いですか」


リディアが問うと、ヘレナはほんのわずかに笑った。


「重いです。ですが、知らぬまま置かれるよりはよろしいでしょう」


それから王女は、ふと表情を和らげた。


「あなたに最初にお会いした日、私は、自分が怖いと思うことを口にしてよいのかもわからなかったのですよ」


「存じております」


「今は、怖いことそのものは消えておりません。けれど、それを曖昧にしたまま差し出されるほうが、もっと怖いのだとわかりました」


その言葉に、リディアは何も足さなかった。


足さなくてよいところまで、ヘレナはもう来ている。


しばらくして、書庫の扉が控えめに叩かれた。

侍女が顔を出し、上席官が短く面会を願っていると告げる。


ヘレナはリディアへ目を向けた。


「ご一緒にいてくださいますか」


「よろしいのですか」


「ええ。今さら、ここであなたを外しても意味がありません」


その言い方に、王女らしい静かな強さがあった。


上席官は入室すると、まずヘレナへ深く礼を取った。

それからリディアにも一礼する。以前なら、王女にのみ向けられていた種類の礼だった。


「殿下」


「何でしょう」


「本件につきましては、内廷としても必要な整理を終えました。表向きの文も、控えも、すべて殿下のご意思を中心に整っております」


ヘレナは頷いた。


「ありがとうございます」


上席官は、そこで一拍置いた。


何かまだ言うことがある顔だった。

王女もそれを待つように黙る。


やがて彼は、今度はリディアへ向き直った。


「エーヴェル令嬢」


「はい」


「今回、殿下のご意思を言葉として崩さず残すうえで、令嬢のお力を大きく借りました」


唐突ではなかった。

だが、正式に言葉にされるのは初めてだった。


リディアは一瞬だけ、どう受けるべきか迷った。

礼を述べるのが自然なのだろう。だが、軽く済ませるには、その言葉の意味が少し重い。


上席官は続ける。


「今後、同様に立場の弱い側の条件整理を要する案件があれば、あらためてお力を借りたいと考えております」


書庫の空気が、そこで少しだけ変わった。


王女の婚姻は止まった。

だが、そこで終わりではない。

リディアがしてきたことが、一度きりの例外ではなく、必要な判断として見られ始めている。


それは、婚約破棄された令嬢への慰めではない。

働きに対する要請だった。


「……私でよろしければ」


ようやくそう答えると、上席官は頷いた。


「結構です」


それだけのやり取りなのに、リディアの胸の内では何かが静かに位置を変えた気がした。


いままでは、婚約を失ったあとの残り火のように、この王宮に関わっていた。

だがそれだけではなくなりつつある。


上席官はそれ以上長く留まらず、必要な礼だけを残して去っていった。


扉が閉まると、書庫にはまた三人だけが残る。


ヘレナは、先ほどのやり取りを思い返すように少しだけ目を伏せていたが、やがて穏やかに言った。


「よかったですね」


「何がでしょう」


「あなたが、婚約を失って残ったからここにいるのではないと、ちゃんと言葉になりました」


リディアは返答を少し失った。


その見方は、たしかにそうだった。

けれど、自分でそれを言うのと、ヘレナにそう言われるのとでは、重みが違う。


「……殿下がそうおっしゃるなら」


「そう思っております」


王女は静かに言った。


「私に必要だったのは、婚約を失った令嬢の同情ではなく、条件が崩れる場所を見抜ける方でした」


その評価は真っ直ぐで、だからこそ逃げ場がない。


リディアは小さく息をついた。

照れるというより、ようやく腑に落ちたというほうが近い。


セオドアが、それまで黙っていたのに、そこで低く口を開いた。


「最初からそのとおりでした」


リディアは思わずそちらを見た。


彼はいつもと変わらぬ顔をしている。

だが、その言葉をあまり迷わず置いたこと自体が、妙に胸へ残った。


ヘレナはそれを聞いて、ほんのわずかに笑った。


「やはり、お二人は似ておられますね」


「どこがでしょう」


リディアが問うと、王女は答えずに首を振った。


「申しますと、お二人とも嫌なお顔をなさりそうですので」


それで、場の空気が少しだけ和らぐ。


けれどその和らぎも長くは続かなかった。

王女の侍女が、次の予定のため時間が近いと知らせに来たからだ。


ヘレナは席を立ち、最後にもう一度だけ机上の控えへ視線を落とした。


婚姻は止まった。

だが、何も残らなかったわけではない。


王女は、自分で同意を与えなかったという前例を残した。

王家は、それを“条件過多”ではなく“最低限の保護条件の不受理”として整理した。

そしてリディアには、新しい役目の輪郭が見え始めている。


「では」


ヘレナは二人を見た。


「ここから先は、止まったもののあとの話になりますね」


「ええ」


リディアが答える。


「ようやく、そこへ参ります」


ヘレナは頷き、侍女とともに書庫を出ていった。


残ったのは、リディアとセオドアだけだった。


静かな書庫の中で、外の風が紙をわずかに揺らす。

リディアは机上の控えを整え、端をそろえる。つい癖でそうしてから、自分で少しだけ可笑しくなった。


「何でしょう」


すぐ隣でセオドアが言う。


「いえ」


「笑われましたね」


「少しだけです」


彼は革挟みを手に取ったまま、こちらを見た。


「上席の言葉が意外でしたか」


「……少し」


「私には意外ではありませんでした」


その返答に、リディアは顔を上げる。


「そうなのですか」


「はい」


彼はごく当たり前のように続けた。


「必要な判断をした者へ、必要な依頼が来ただけです」


なんでもないように言う。

だが、その“必要な判断をした者”の中に自分を入れているのだと気づくと、胸の奥が妙に静かに熱を持つ。


リディアは視線を外した。


「あなたは、本当にそういう言い方しかできないのですね」


「ほかに要りますか」


「今は結構です」


それで会話は切れた。

けれど、沈黙は重くなかった。


書庫の窓から入る夕方の光が、少しずつ色を深めている。

明るさはまだ残っているのに、もう次の局面がこちらへ近づいてくるようだった。


婚姻は止まった。

けれど終わっただけではない。


止めたことで残ったものがある。

言葉も、前例も、そして、自分がこれから何者として立つのかという輪郭も。


リディアは整え終えた控えから手を離し、静かに立ち上がった。


もう、自分は婚約を失っただけの女ではいられない。



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