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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第7章 止めるための同意

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2、まだ進めるべきだという声

正式な確認の場は、翌々日に設けられることになった。


それまでのあいだに内廷側は文書を整え、先方へ返す言い回しの候補をいくつか用意する。形式の上では静かな準備だ。けれど実際には、その二日のほうがよほど息苦しかった。


止めるための整理に入ると決まったからといって、すべてが一気に片づくわけではない。

むしろ逆だった。


ここまで来てなお、進めるべきだという声は残る。

大きくはない。露骨でもない。だが、消えてはいなかった。


その日、リディアは王宮の内庭に面した控えの間へ呼ばれた。


正式な会議ではない。

婚姻案件に関わる者が、次の確認の前に細部をすり合わせるための小さな場だと聞かされている。だが入ってみれば、そこにいた顔ぶれは昨日までとは少し違っていた。


次席官と記録管理官に加え、年長の女官長がひとり。

王女付きではなく、内廷全体の作法と扱いを見てきた女だという。年齢は五十を過ぎているだろうか。姿勢の崩れぬ人で、柔らかい声をしている。だがその柔らかさが、かえって人を退かせる種類のものだと、リディアはすぐにわかった。


ヘレナは、窓に近い席に座っていた。

今日の王女はいつもより少し淡い色の衣をまとっている。重い場であることは変わらないのに、妙に静かな顔をしていた。


礼が済むと、女官長が穏やかに口を開いた。


「大きな場の前に、少しだけ申し上げておきたいことがございます」


誰も遮らない。

女官長は、ヘレナに向けるとも、この場全体に向けるともつかぬ声音で続けた。


「婚姻というものは、どれほど慎重に整えても、最後は人と人、家と家のあいだへ入っていくものです。ですから、紙の上で守れることには、どうしても限りがございます」


記録管理官が、慎重に視線を伏せる。

次席官は表情を動かさない。


女官長は話を続けた。


「まして王女殿下ともなれば、ご自身のお心の安らぎより、先に立場が求められることも多うございましょう。多少の不安や不便を、最初からすべて遠ざけられる形など、もともと望みにくいものです」


その言い方に、リディアは指先をわずかに握った。


やわらかい。

あくまで穏やかだ。

だが言っていることははっきりしている。


最初から全部を守ろうとするな。

多少は飲み込め。

王女の婚姻とはそういうものだ。


女官長は、わざとらしさのない微笑を浮かべる。


「もちろん、殿下が求めておられることを軽んじるつもりはございません。帰還も、書簡も、そばに置かれる方々のことも、もっともでございます。けれど、そこを一つも退かずにおられますと、結局はどの縁も結びにくくなります」


そこまで聞いて、ヘレナはまだ何も言わなかった。


視線は机上の文書へ落ちている。

沈黙が、そのまま考える時間になっていることがわかる。


女官長はさらに言う。


「王女殿下の婚姻は、殿下おひとりの心持ちだけで定まるものではございません。国の顔でもあり、先方との信でもあり、後に続く方々の前例にもなります」


前例。

その言葉が置かれたとき、部屋の空気が少し変わった。


昨日、記録管理官も似たことを言っていた。

ここで止めれば、後の婚姻にも影響する、と。

そのときヘレナは、影響があることと同意してよいことは別だと答えた。


だが今日の女官長は、もっと古い言い方をする。

前例になるから、飲み込むべきことがある、と言外に含ませる言い方だ。


次席官が、慎重に口を開いた。


「いま問題になっているのは、殿下のご不安の強さではなく、最低限の保護条件が受け入れられるか否かです」


「承知しております」


女官長は穏やかに頷いた。


「ですが、どれほど“最低限”と申しても、相手がそれを重く見るならば、そこは一度立ち止まって考えねばなりませんでしょう。守りをすべて持ったまま進めることは、時にご縁そのものを遠ざけます」


リディアは、その言葉が嫌だった。

嫌だと思った時点で、もう十分答えは出ている。


ご縁そのものを遠ざける。

つまり、守る条件を持つ女が、結ばれにくくなるのは仕方がないと言っているのだ。


「ご縁が遠ざかるのは」


気づけば、声が出ていた。


女官長と、部屋にいる全員の視線がこちらへ向く。


リディアは一息置き、それでも続けた。


「条件を持つことそのもののせいではありません。守る条件を受け入れぬご縁であれば、遠ざかるのは当然かと」


言い切ると、部屋は静かになった。


強く出すつもりはなかった。だが、いまの言葉を黙って通す気にもなれなかった。


女官長はしばらくリディアを見ていたが、やがて穏やかに言った。


「令嬢は、ずいぶん真っ直ぐにお考えになるのですね」


「曖昧にしても残らないことですので」


「曖昧にすることが、必ずしも悪いとは限りませんよ」


やわらかな返しだった。

だが、そのやわらかさにこそ長年の宮中の空気が染みついているのだと、リディアは思った。


曖昧にしておけば、誰もその場では痛まない。

だから、多くの女はそうやって飲み込まされてきたのだろう。


ここでセオドアが低く口を開いた。


「今回の件は、曖昧にした結果、何が削られるかがすでに見えております」


女官長が視線を移す。


「法務局は、いつもずいぶん容赦がありませんね」


「容赦の有無ではありません」


セオドアの声は平板だった。


「見えているものを、見えていない形に戻す理由がありません」


記録管理官が、そこでようやく小さく息をついた。


「ただ、女官長のおっしゃることにも、一理はございます」


今度は部屋の視線が記録管理官へ向いた。


彼は少し言葉を選んでから続ける。


「ここまで来て止めるとなれば、王家の面目に傷がつかぬとは申しません。殿下の婚姻が難航したという事実だけを拾う者もおりましょう」


「ええ」


女官長が頷く。


「だからこそ、私は申し上げているのです。すべてを持ったまま進めぬこともある。多少の不本意を抱えたまま入るのが婚姻であることも、また事実でしょう、と」


そのときまで黙っていたヘレナが、ようやく顔を上げた。


誰もすぐには口を開かない。

王女が言葉を選んでいるときの沈黙に、いまこの場の誰もが気づけるようになっていた。


「多少の不本意、ですか」


その声は静かだった。


「はい、殿下」


「それは、飲み込めば済む類のものであれば、そうかもしれません」


女官長は答えない。

ヘレナはそのまま続ける。


「ですが、私がここまで申し上げてきたのは、気分のよしあしではありません。帰ることができるかどうか。私の言葉が届くかどうか。必要な者が側にいられるかどうか。そのどれもが、婚姻のあとで私が何も持たぬままにならぬためのことです」


その一言ごとに、部屋の空気が少しずつ変わっていく。


「それを、多少の不本意として飲み込めとおっしゃるのであれば」


ヘレナは机上の文書へ手を置いた。


「私には、それは勧められません」


女官長の表情は大きくは変わらなかった。

だが、わずかに目を細める。


「殿下。私は、殿下の勇気やお考えを否定したいのではございません。ただ――」


「わかっております」


ヘレナは、やさしく遮った。


「否定ではなく、よくあることとしておっしゃっているのですよね」


その言葉に、女官長は初めて少しだけ黙った。


ヘレナは視線を逸らさない。


「王女の婚姻とはそういうものだ、と。多少は飲み込み、多少は委ね、多少は失ってこそ円く収まる、と」


その並べ方はきわめて静かで、なのに妙に鋭かった。


リディアは息を詰めた。

少し前までなら、こんな言い返し方はできなかったはずだ。ヘレナはいま、古い空気の輪郭そのものを、自分の言葉でなぞって見せている。


「ですが」


王女は小さく息を吸う。


「それでも、私は同意いたしません」


部屋がしんとした。


正式な確認の場ではない。

それでも、その一言は十分に重かった。


女官長は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。

次席官も記録管理官も動かない。


ヘレナはそれ以上言い募らない。


「前例になることも、面目の話も、わかっております。それでも、守る条件を受け入れぬ婚姻に、私は同意いたしません」


淡々とした声音だった。

けれど、そこでようやく、この場に残っていた最後の“まだ進めるべきだ”という空気が、少しだけ形を失った気がした。


女官長はやがて、静かに頭を下げた。


「……承りました」


それは納得とは少し違うのだろう。

けれど少なくとも、これ以上“王女とはそういうもの”だけで押し切れる段階ではなくなったことは、彼女自身にもわかったはずだった。


短い沈黙のあと、次席官が記録を閉じた。


「では、次の場ではそのご意思を正式に残す形でよろしいですな」


ヘレナは頷く。


「はい」


記録管理官もまた、小さく息をついた。


「理由も、簡潔に添えたほうがよろしいでしょう」


「ええ」


ヘレナは答える。


「そういたします」


話はそれで終わった。


誰かが言い負かされたわけではない。劇的な変化があったわけでもない。

けれど、もう十分だった。


進めるべきだという声は、なお王宮のどこかには残るだろう。

前例を惜しむ者も、面目を気にする者も、王女の婚姻とはそういうものだと思う者もいる。


だがその声は、もはやヘレナ本人の意思を飛び越えては進めない。

それだけのところまで、ようやく来たのだ。


人が引き始め、椅子の音が小さく響く。

女官長は最後まで姿勢を崩さず、一礼して部屋を出ていった。


扉が閉まり、残った空気の中で、リディアはようやく肩の力を少し抜く。


ヘレナはまだ席を立たなかった。

机の上の文書へ手を置いたまま、静かに言う。


「……私は、少し前まで」


その声に、次席官たちも動きを止める。


「こういう場では、もっと曖昧に言うものなのだと思っておりました」


誰も急かさない。

王女は文書から目を上げる。


「やわらかく、角が立たぬように、立場を乱さぬように。そうしているうちに、何が困るのかも少しずつ丸くなっていくのだと」


記録管理官が低く言う。


「殿下……」


「ですが、丸くなったものは、たぶん後では私を守りませんね」


その一言に、リディアは静かに頷いた。


守らない。

まさにその通りだった。


次席官が慎重に口を開く。


「正式の場でも、そのままおっしゃれば十分でしょう」


ヘレナは頷いた。


「はい。もう、それで参ります」


それで場はほどけた。


廊下へ出ると、昼の光は少し傾きはじめていた。

窓から入る明るさはまだ十分あるのに、王宮の内側だけが妙に静かだ。


セオドアが隣で低く言う。


「これで、もう戻れません」


リディアは窓の外を見たまま答える。


「戻るつもりがありますか」


「ありません」


その返しがあまりに早くて、少しだけ可笑しかった。


リディアはわずかに口元を緩め、それから前を向く。


次は、正式な場だ。

ヘレナが、自分の同意を与えないと、きちんと記録の上へ残す場になる。


そして今、ようやくその場へ向かうだけの静けさが、王宮の中にでき始めていた。


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