3、同意しない王女
正式な確認の場は、二日後の午後に置かれた。
通されたのは、王族の婚姻や叙任に関わる記録を扱う小広間だった。応接のための華やかさはなく、かといって内廷の執務室ほど乾いてもいない。壁には王家の系譜と、過去の婚姻にまつわる古い文書の写しが収められている。
ここで残る言葉は、あとから言い換えにくい。
リディアは席に着く前に、その部屋を見回した。
妙に静かだった。人が少ないせいだけではない。集められた顔ぶれの誰もが、今日ここで問われるものの重さを知っているからだろう。
上席官、次席官、記録管理官。
内廷の書記が二人。
王女付きの侍女長が一人。
そして法務局からセオドア。
リディアは正式な立場ではない。だが、ここまでの経緯を知る者として席を外されなかった。むしろ今この段階で彼女を外せば、何をどう守ろうとしてきたのかが一番薄くなると、内廷側も理解しているのだろう。
最後に入ってきたヘレナは、いつもより少しだけ濃い色の衣をまとっていた。
王女としての正装というほど重くはない。けれど、ただ気持ちを述べに来たのではなく、自分の意思を残しに来たのだと示すには十分な装いだった。
全員が礼を取り、王女が正面の席へ腰を下ろす。
書記の一人が紙を整え、筆を置く気配が小さく響いた。
上席官が口を開く。
「本日は、殿下のご婚姻案件につき、ここまでの交渉経緯を踏まえ、殿下ご本人のご意思を正式にうかがう場といたします」
その声音に余計な情はなかった。
だからこそ、今日ここで必要なものだけが、きれいに前へ出る。
上席官は机上の文書へ視線を落とした。
「確認いたします。先方は、帰還協議の起点を殿下ご本人へ置くこと、個人書簡の独立を保つこと、ならびに帰還及び連絡体制を支える補助者の継続的配置について、受け入れ難いとの見解を示しました」
そこで一度、顔を上げる。
「これに相違はございませんか」
次席官が短く答えた。
「ございません」
記録管理官も頷いた。
上席官は、今度はヘレナへ向き直る。
「殿下。以上を踏まえたうえで、なおこの婚姻を進めるご意思がおありかどうか、うかがいます」
部屋は静まり返った。
紙の擦れる音もない。
書記の筆も、まだ動かない。
ヘレナはすぐには答えなかった。
机上に置かれた整理文書へ、ほんの短く目を落とす。帰還。書簡。補助者。その三つの語が、もう何度目かわからぬほど並んでいる。
けれど今日は違った。
もう、それが必要かどうかを説明するために見ているのではない。
自分が何に同意せず、何を守るのかを、最後に確かめるために見ている顔だった。
やがて、ヘレナは顔を上げた。
「私は」
その声は静かだった。
「婚姻そのものを退けたいわけではございません」
誰も口を挟まない。
「国のための務めを理解しております。王女として、縁を結ぶことの意味も存じております。できることなら、先方と穏やかな関係を築きたいとも思っておりました」
そこまで言ってから、王女は文書の上へ指先を置いた。
「ですが、ここに記された三つは、私にとって気分のよしあしではありません」
リディアは、ほとんど無意識に息を浅くした。
前にも聞いた言葉だ。
けれど今日は、その言葉が記録として残る場に置かれている。
意味の重さがまるで違う。
「帰還を求めることができること。私の言葉が途中で別のものにされず届くこと。必要な者が側にいること」
ヘレナは、三つの項目を順に目で追った。
「そのどれもがなければ、私は婚姻ののち、向こうの家の中で何も持たぬままになります」
その一文のあと、部屋の空気が少しだけ変わった。
たとえ穏やかな場であっても、そこまで明確に言われればもう“殿下はご不安がお強いようで”とはまとめられない。
上席官が低く問う。
「では殿下は、先方がその三点を受け入れぬ以上、この婚姻を進めることに同意されない、という理解でよろしいですか」
そこで初めて、ヘレナはほんのわずかに息を吸った。
その一拍のあいだに、リディアは書庫で初めて会った日のことを思い出していた。
怖いと申し上げるのは幼いことでしょうか、と問うた王女がいた。
その王女が、いまは同じ静かな声で、もっとはっきりしたことを言おうとしている。
「はい」
ヘレナは答えた。
それだけで終わらせず、続ける。
「私は、その形での婚姻に同意いたしません」
書記の筆が、そこでようやく紙の上を走った。
かすかな音だった。
だが、その音がやけに大きく聞こえた。
同意いたしません。
泣きもせず、叫びもせず、ただそう言っただけだった。
それなのに、その場にいる誰もが、その一言の重さをそのまま受け止めるしかなかった。
上席官は、すぐには次を言わなかった。
記録管理官も、次席官も、誰一人として急がせない。
いま残るべきものが何かを、全員が知っているからだろう。
やがて上席官が、慎重に口を開いた。
「理由についても、確認いたします」
ヘレナは頷いた。
「はい」
「殿下が同意されない理由は、先方との関係そのものではなく、先方が殿下の最低限の保護条件を受け入れぬため、という理解でよろしいですか」
「その通りです」
今度の返答は早かった。
「私は、先方を憎んでおりません。婚姻を嫌っているのでもありません。ですが、帰ることも、言葉を届けることも、必要な者を側に置くことも認められぬ婚姻であるなら、私はそこへ同意を与えません」
書記がまた筆を走らせる。
リディアは、その音を聞きながら胸の奥が少しずつ静まっていくのを感じていた。
これでようやく残る。
ヘレナの同意拒否が、気分や感情の問題ではなく、条件の問題として残る。
それがどれほど大きいことか、ここにいる者の半分以上はまだ言葉にできないかもしれない。
けれど、少なくとも紙の上ではもう後戻りしにくい。
そのとき、年長の侍女長がごく静かに口を開いた。
「殿下」
全員の視線がそちらへ向く。
「ひとつだけ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」
ヘレナが頷く。
「どうぞ」
侍女長は、言葉を選びながら続けた。
「殿下は、先方が今後あらためて一部の条件を受け入れる姿勢を見せた場合でも、現時点においては同意を与えない、というお考えでよろしいのでしょうか」
上席官がわずかに目を細めた。
それは当然の確認だった。
あとで誰かが、“殿下は完全に拒絶なさったわけではない”と解釈をずらす余地を、ここで残すわけにはいかない。
ヘレナは、少しだけ考えた。
けれど長くは迷わなかった。
「現時点では、与えません」
その答え方がよかったと、リディアは思った。
完全に未来を閉ざす言い方ではない。
だが、今ある婚姻案件に対しては、はっきりと同意を与えないと残る。
ヘレナはそのまま続ける。
「私は、守る条件を受け入れぬまま進むことには同意いたしません。条件が受け入れられぬ以上、この縁をそのまま進めることはできないと考えております」
上席官は静かに頷いた。
次席官と記録管理官も、それぞれ言葉なく礼を取る。
その礼に、もう異論の余地はほとんどなかった。
部屋の空気は相変わらず重い。
けれど、曖昧な重さではない。
やがて上席官が記録の上へ手を置いた。
「承りました」
その声は低く、乾いていた。
「王家側としては、殿下が現条件のままでは婚姻に同意されないこと、ならびにその理由が最低限の保護条件の不受理にあることを、正式に記録いたします」
書記が最後の一行を書き留める。
その瞬間、長く続いていた何かが、ようやくひとつの形を持ったように思えた。
婚姻を進めるための同意ではない。
止めるための同意拒否だ。
けれどそれは、わがままでも反抗でもない。
立場の弱い側に最後まで残されるべき権利として、いまこの場でようやく扱われたのだ。
ヘレナは、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに一礼する。
「ありがとうございます」
その礼に安堵はなかった。
ただ、自分の言葉が、ようやくそのまま残ることへの応答だけがあった。
会議は長引かなかった。
上席官は必要な確認だけを終えると、記録の整理と先方への返答準備へ移るよう短く指示した。次席官と記録管理官がそれに従い、書記たちが紙をまとめはじめる。
人が動き出したことで、ようやく部屋に少し現実の音が戻ってきた。
椅子が引かれる音。
紙の束を揃える音。
筆を置く小さな音。
そのどれもが、今日ここで何かが決まったことを、妙に静かに告げていた。
退出のために立ち上がる前、ヘレナは机の上の記録へ一度だけ目を落とした。
もうそこには、交渉の余地を探る気配はない。
代わりに、自分が与えなかった同意と、その理由が、乾いた文の形で残っている。
王女は、それを見てからゆっくり顔を上げた。
「……これで、ようやく」
誰にともなく、そんなふうに言う。
リディアがそちらを見ると、ヘレナは小さく目を細めた。
「ようやく、私が止めたのだと申せますね」
その言葉に、リディアは短く頷いた。
「はい」
それは王家が止めた婚姻ではない。
相手方が壊した縁談でもない。
ヘレナが、自分で同意を与えなかった婚姻なのだ。
その違いは、きっと小さくない。
廊下へ出ると、午後の光は少しやわらいでいた。
窓から差す明るさはまだ十分あるのに、王宮の内側だけが妙に静かだ。
セオドアが隣で言う。
「これで、記録は残りました」
「ええ」
リディアは答える。
「もう“殿下が少し迷われている”では済みません」
「済ませません」
その返答が、あまりにも迷いなくて、少しだけ可笑しくなる。
リディアは息をつき、それから前を向いた。
次は、止まる。
形式の上でも、現実の上でも。
そう思うと、不思議と胸の内は静かだった。
痛みがないわけではない。けれど、もう曖昧ではない。
止めるための同意は、きちんと残った。




