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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第7章 止めるための同意

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1、止めるための整理

翌朝、王宮の空気は妙に整いすぎていた。


騒ぎが起きたわけではない。むしろ逆だった。廊下を行き交う者たちの歩調も、侍従の声も、いつもより少しだけ控えめで、余計なものをこぼすまいとしているように見える。


大きくは動いていない。

まだ何も正式には決まっていない。


それでも、昨日までと同じ顔でいられない何かが、王宮の内側にはもう広がっていた。


通されたのは、婚姻案件を扱う内廷側の会議室だった。応接のための部屋ではなく、文書と判断のための部屋だ。壁際には過去の婚姻記録が並び、長机の中央には昨日の会談記録をまとめた紙が置かれている。


帰還請求の起点。

個人書簡の独立。

補助者の継続配置。


相手方が最後まで受け入れなかったのは、結局その三つだった。


リディアは席に着く前に、その紙へ一度だけ目を落とした。


昨日までと違うのは、もうこれをどう通すかの話ではないことだ。

今日ここで始まるのは、進めぬものをどう止めるか、その整理だった。


次席官と記録管理官はすでに揃っていた。どちらも疲れを顔に出す人間ではないが、机へ向かう手つきには、さすがに昨日までの余裕がなかった。


セオドアは窓際の席で、昨日の記録を黙って読み返している。余計な言葉を挟まぬぶん、そこにいるだけで場の緊張が少し引き締まった。


最後に、上席官が入ってきた。


婚姻実務の最終整理に近い位置にいる男だ。これまでは次席官たちに任せていたが、ここまで来てようやく自ら顔を出したらしい。目の下にわずかな影があった。昨夜、彼も十分には休めなかったのだろう。


礼が交わされ、全員が席に着く。


上席官は机の中央に置かれた記録を見渡し、無駄な前置きなく言った。


「状況は受けております。今日は、継続の可否ではなく、ここから先をどう整理するかを決めたい」


その一言で、部屋の空気が少し変わった。


継続の可否ではなく、整理。

誰もまだ「止める」とは言わない。だが、もうその言葉の周りを回っているだけだと、ここにいる全員がわかっていた。


次席官が記録を開く。


「昨日の会談で、先方は改めて、殿下ご本人を起点とする帰還協議、個人書簡の独立、補助者の継続配置を受け入れ難いと明言いたしました」


「明言、と見てよいのだな」


上席官が問う。


「ええ」


次席官は頷いた。


「文言の強さではなく、形そのものを問題としております。殿下が婚姻後も王家との直接の回路を持つことに、最後まで難色を示しました」


上席官はそこで一度だけ目を閉じた。


「つまり、先方が嫌がっているのは細部ではない」


「はい」


今度はセオドアが答える。


「殿下が婚姻後も、家の内側だけで完結しないことです」


記録管理官が、指先で記録の一行を押さえる。


「問題は、ここからの立て方です」


上席官が目を上げる。


「というと」


「このまま表へ出す文言を誤れば、“条件が多すぎたために縁談が停滞した”と見えかねません」


それは事実だった。


文の置き方ひとつで、意味は簡単にずれる。

王女が難しい条件を持ち込んだから壊れたのか。

最低限の保護条件すら受け入れぬ婚姻だったから止まるのか。


後に残るのは、たいてい紙の上に置かれた言葉のほうだ。


「それは避けるべきでしょう」


リディアは口を開いた。


全員の視線がこちらへ向く。


「どう避ける」


上席官は平板な声で問う。


「停滞の理由を、“条件の多寡”ではなく“受け入れ拒否の内容”で整理することです」


リディアは机上の記録へ目を落としたまま続けた。


「帰還の起点、書簡の独立、補助者の配置。先方が退けたのは、いずれも殿下の保護に関わる部分です。そこを曖昧にして“条件が折り合わなかった”とまとめれば、後では殿下の側の過剰に見えます」


上席官は少しのあいだ黙っていた。

やがて、低く言う。


「法務局としても同じ見方か」


「同じです」


セオドアが即答する。


「ここを“交渉不調”とだけ置けば、何が拒まれたのかが消えます。少なくとも内廷の記録には、先方が最低限の保護条件を受け入れなかったことを残すべきです」


次席官が小さく息をついた。


「そうなると、あとは殿下のご意思ですな」


その言葉を聞いたとき、リディアはようやく昨日から胸の内に張っていたものの正体が少しわかった気がした。


結局、そこへ来る。


どれほど文を整えても、どれほど先方の拒否を明るい場所へ出しても、最後に必要なのは当人の言葉だ。

進めるときだけではない。止めるときにも。


上席官が記録を閉じる。


「殿下は昨日、“その形での婚姻には同意できない”とおっしゃったそうだな」


「はい」


次席官が答える。


「ただ、あれは会談の場でのお言葉です。王家の整理として進めるなら、あらためて正式にご意思をうかがう必要があります」


記録管理官が、慎重に言葉を足した。


「婚姻の停止に近い判断となれば、なおさらです。前例として残る以上、伝聞や会談記録だけでは弱い」


上席官は頷いた。


弱い、というより、曖昧に戻される余地があるのだろう。

あとで誰かが「殿下は一時のご不安からそうおっしゃっただけ」と言えば、それを完全には否定しきれなくなる。


だから、正式に残す必要がある。


部屋はしばらく静まり返っていた。


誰も感情的な顔をしていない。だが、いま決められつつあることの重さは、紙をめくる音の小ささにまで滲んでいた。


やがて上席官が、はっきりと言った。


「では、この案件は“継続のための調整”から外す」


次席官が顔を上げる。


「よろしいのですか」


「ここまで来て、なお継続前提で整えるのは筋が悪い」


上席官の声は乾いていた。


「止めることを前提に、体面と記録と順序を整える。そのうえで、殿下ご本人の正式なご意思をうかがう」


記録管理官が筆を取り、短く書き留めていく。


その姿を見ながら、リディアは小さく息を吐いた。


ようやく始まったのだと思う。

婚姻を守るための交渉ではなく、守れぬ婚姻を止めるための整理が。


だが同時に、ここから先は別の重さがある。


止めるのは簡単ではない。

進めるより、ずっと多くの言い訳と説明と沈黙を必要とすることもある。

とくに王女の婚姻ならなおさらだ。


次席官が言う。


「先方へ返す文面は、まだ待たせましょう。先に殿下のご意思を確かめ、それをもって内廷の整理としたほうがよい」


「そうだな」


上席官は頷いた。


「先方の拒否は十分に見えた。次は、殿下がそれでも進めるおつもりか否かだ」


その言い方に、リディアはわずかに眉を寄せた。

それでも、ではないだろうと思う。


だが訂正はしなかった。

上席官もまた、王女の意思を軽んじているわけではない。むしろ、形式の上で何が必要かを知っているからこその言葉なのだろう。


セオドアが静かに口を開く。


「正式な確認の場では、理由も残したほうがよいかと」


上席官が視線を向ける。


「簡潔で結い。なぜ同意できないのか。帰還、書簡、補助者、その三点がなぜ切れぬのか。そこが残れば、後で解釈をずらしにくい」


記録管理官が、そこで初めて小さく頷いた。


「たしかに。単に“同意しない”だけでは、殿下のご心情に寄せて読まれる余地が残ります」


「ご心情ではありませんので」


リディアは思わず言った。


少し早かったかもしれない。だが止まらなかった。


「殿下が守ろうとしておられるのは、感情ではなく条件です」


部屋がしんとする。


上席官はしばらくこちらを見ていたが、やがて低く言った。


「承知している。だからこそ、きちんと残す」


その返答に、リディアは短く頭を下げた。


会議はそこで大枠を終えた。


継続のための調整は打ち切る。

止めるための整理へ移る。

先方への返答より先に、ヘレナ本人の正式な意思を残す。


紙の上に並べればそれだけだ。

だが、その順に置き直すまでに必要だった時間は、決して短くなかった。


退出のために椅子が引かれ、記録が閉じられる。

上席官は席を立つ前に一度だけ机上の紙へ目を落とし、何も言わずに去っていった。


残ったのは、次席官と記録管理官、セオドア、そしてリディアだけだった。


次席官が小さく息をつく。


「ここまで来るとは思いませんでしたな」


それは誰へ向けた言葉でもなかった。


記録管理官が応じる。


「私もです。ただ……ここまで来てようやく、何が争点だったのかが明るくなりました」


その言葉に、リディアは視線を落とした。

少し前まで、この人は“穏当さ”をよく口にしていた。今はもう、その穏当さだけでは済まぬところまで来ているのだろう。


セオドアが革挟みを閉じながら言う。


「では次の場を整えます」


「殿下をお呼びして、正式に」


次席官が確認する。


「はい」


セオドアは頷いた。


「そこで、ご本人の同意の有無を残します」


その一言で、次に来る場の輪郭が定まった。


止めるための同意。

まだ誰もそうは呼ばない。けれど、もうその場へ向かっているのだ。


リディアは立ち上がりかけて、机上の記録へもう一度目を落とした。


帰還。

書簡。

補助者。


何度も見てきた語だ。けれど今日は、その三つが初めて“止めるための理由”として並んで見えた。


王宮の窓の外では、昼の光が少しずつ傾きはじめている。

まだ日は高いのに、もう次の場の気配がこちらへ来ていた。


「では次は」


次席官が、閉じた記録の上へ手を置いて言う。


「殿下ご本人のご意思を、正式にうかがう必要があります」


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