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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
閑話2

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遅れて気づく男(ユリウス視点)

晩餐の席順表が、どうにも落ち着かなかった。


大広間を使うほどのものではない。親族と、ごく近しい家を二つほど招いた、小さな会食だった。だからこそ、粗が目につく。誰をどこへ座らせるか、どの順で話を振るか、どの贈答を先に出すか。大きな失敗にはならなくとも、少しずつ気まずさが滲む類の場だった。


ユリウスは机の前で席順表を見下ろし、眉を寄せた。


右端の席を入れ替えるべきだろうか。

いや、そうすると伯母と従姉が並ぶ。あの二人は仲が悪いわけではないが、近況の話になると妙に張り合うところがある。では一つずらすかと考えると、今度は客人の一人が母の正面へ来る。悪くはない。悪くはないが、妙に硬い。


「坊ちゃま」


家令が後ろから控えめに声をかけた。


「そろそろ奥様がご確認を」


「……ああ」


返事をしても、紙から目が離れない。


以前なら、こういうものはもう少し早く決まっていた気がする。自分が机に向かうころには、何となく収まりの良い形が見えていた。最初から完璧だったわけではないだろうが、少なくとも、ここまで机の前で足を止めることはなかった。


応接の間へ入ると、母はすでに茶器の用意を見ていた。


席順表を差し出すと、母は一瞥してから、すぐにある一箇所を指で押さえた。


「ここは替えましょう」


「どこが悪いのです」


「悪いというより、少しややこしいのよ。この並びだと、フェルナー伯母様が気を悪くなさるかもしれないわ」


言われてみればそうかもしれない。だが、その程度のことだとも思う。


「そこまで気にする必要がありますか」


母は席順表から顔を上げ、少しだけ疲れたように笑った。


「必要があるかどうかではなく、気にせずに済むならそのほうがいいのよ」


そのまま紙を見直しながら、母は何気なく続けた。


「以前は、こういうところはもっと早く整っていたのだけれど」


何気ない言い方だった。

咎める口調ではない。ただ事実を口にしただけの声だった。


けれど、その一言は妙に耳に残った。


母は続けて言う。


「エーヴェル嬢は、そのあたりを本当によく見ておられたわね」


ユリウスはとっさに言い返しかけて、やめた。


そんなのは細かいことだ。

誰がやっても大差ない。

たまたま今日は手が回らないだけだ。


そう思いかけたのに、口へは出なかった。

いま目の前にある席順表が、まだ整っていないからだろう。


結局、席は母の言う通りに一箇所替えた。

それで少しは落ち着いたように見えたが、今度は贈答の並びで家令に止められた。


「こちらは先に出さぬほうがよろしいかと」


「なぜだ」


「格が、少し逆転いたしますので」


見ればたしかに、片方の家へ渡す品のほうが、目立つ細工になっていた。値で言えば大きな差ではない。だが社交の場では、そういう“ほとんど差ではないもの”が一番面倒なのだと、家令は遠回しに言っている。


晩餐が始まってからも、小さなずれは続いた。


伯母への最初の挨拶が少しだけ素っ気なかったらしく、母が後で話題を足した。

従兄に振るつもりの話を別の客へ向けてしまい、場が一拍遅れた。

食後の酒を勧める順も、家令が後ろからさりげなく直した。


大きな失敗ではない。

誰かがあからさまに不快な顔をしたわけでもない。


それでも、何かがうまく噛み合っていない感覚だけが、最初から最後まで薄く残った。


客が帰り、ようやく自室へ戻ったときには、もう夜もだいぶ更けていた。


机の上には、書き直しの入った席順表と、返礼の文案、それから伯母への口上を走り書きした紙がそのまま残っている。


ユリウスは上着も脱がぬまま椅子へ腰を下ろし、しばらくそれを見ていた。


以前なら、こういう紙はここに残っていなかった気がする。


全部ではなくても、少なくとも自分がこうして眺める前に、収まるところへ収まっていた。席順も、返礼も、誰にどう言うかも。気づけば整っていて、だから自分は大きなことだけを考えていればよかった。


その“気づけば”を作っていたのが誰だったのかを、いまさら考える。


ふと、夜会の前の小さな控えの間を思い出した。


自分は鏡の前で袖口を直しながら、何気なく席順表を彼女へ渡したのだ。リディアは一度見て、何も言わずに一箇所だけ並びを替えた。理由を問えば、

「こちらのほうが、後で皆様が楽ですので」

とだけ答えた。


別の日には、親族へ送る返書の文面を見て、

「この言い方では少し冷たく映るかもしれません」

と言って、さらさらと書き換えていた。


そのたびに自分は、

「君は本当によく見えている」

とか、

「助かるよ」

とか、

そんなことを言っていた気がする。


褒めているつもりだった。

感謝もしていたはずだ。


けれど今になって思えば、あれは何を褒めていたのだろう。


彼女の判断か。

彼女の責任感か。

それとも、自分が考えなくて済むことへの便利さか。


そこまで考えたところで、胸の奥に妙な鈍さが残った。


リディアがいなくなって、困ることが増えた。

それは事実だ。


だが困っているのは、席順や返礼だけではないのかもしれない。


以前はもう少し、物事が静かに収まっていた。

誰かに恥をかかせることも、自分が余計なことに気を回すことも、今より少なかった。

それを当然のように受け取っていたのは、自分だ。


ユリウスは机上の紙へ手を伸ばし、書き直しの入った席順表を持ち上げた。


赤い線。

消された名前。

横に小さく書き足された順番。


以前なら、こんなふうに後から何度も直される前に、もう整っていたはずの紙だった。


不便なのだ、と思う。


だが、その言葉を胸の内へ置いてみると、どこか薄かった。

不便と呼ぶには、今感じている重さのほうが少しだけ深い。


けれど、それが何なのかは、まだうまくわからない。


彼は席順表を机へ戻した。


乱れたままの紙が、夜の灯りの下にそのまま残る。

以前ならもう片づいていたはずのものが、今夜はまだそこにあった。


ユリウスはしばらくそれを見つめていたが、やがて視線を逸らした。


胸の奥に残ったその重さに、まだ名前はつけられなかった。


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