遅れて気づく男(ユリウス視点)
晩餐の席順表が、どうにも落ち着かなかった。
大広間を使うほどのものではない。親族と、ごく近しい家を二つほど招いた、小さな会食だった。だからこそ、粗が目につく。誰をどこへ座らせるか、どの順で話を振るか、どの贈答を先に出すか。大きな失敗にはならなくとも、少しずつ気まずさが滲む類の場だった。
ユリウスは机の前で席順表を見下ろし、眉を寄せた。
右端の席を入れ替えるべきだろうか。
いや、そうすると伯母と従姉が並ぶ。あの二人は仲が悪いわけではないが、近況の話になると妙に張り合うところがある。では一つずらすかと考えると、今度は客人の一人が母の正面へ来る。悪くはない。悪くはないが、妙に硬い。
「坊ちゃま」
家令が後ろから控えめに声をかけた。
「そろそろ奥様がご確認を」
「……ああ」
返事をしても、紙から目が離れない。
以前なら、こういうものはもう少し早く決まっていた気がする。自分が机に向かうころには、何となく収まりの良い形が見えていた。最初から完璧だったわけではないだろうが、少なくとも、ここまで机の前で足を止めることはなかった。
応接の間へ入ると、母はすでに茶器の用意を見ていた。
席順表を差し出すと、母は一瞥してから、すぐにある一箇所を指で押さえた。
「ここは替えましょう」
「どこが悪いのです」
「悪いというより、少しややこしいのよ。この並びだと、フェルナー伯母様が気を悪くなさるかもしれないわ」
言われてみればそうかもしれない。だが、その程度のことだとも思う。
「そこまで気にする必要がありますか」
母は席順表から顔を上げ、少しだけ疲れたように笑った。
「必要があるかどうかではなく、気にせずに済むならそのほうがいいのよ」
そのまま紙を見直しながら、母は何気なく続けた。
「以前は、こういうところはもっと早く整っていたのだけれど」
何気ない言い方だった。
咎める口調ではない。ただ事実を口にしただけの声だった。
けれど、その一言は妙に耳に残った。
母は続けて言う。
「エーヴェル嬢は、そのあたりを本当によく見ておられたわね」
ユリウスはとっさに言い返しかけて、やめた。
そんなのは細かいことだ。
誰がやっても大差ない。
たまたま今日は手が回らないだけだ。
そう思いかけたのに、口へは出なかった。
いま目の前にある席順表が、まだ整っていないからだろう。
結局、席は母の言う通りに一箇所替えた。
それで少しは落ち着いたように見えたが、今度は贈答の並びで家令に止められた。
「こちらは先に出さぬほうがよろしいかと」
「なぜだ」
「格が、少し逆転いたしますので」
見ればたしかに、片方の家へ渡す品のほうが、目立つ細工になっていた。値で言えば大きな差ではない。だが社交の場では、そういう“ほとんど差ではないもの”が一番面倒なのだと、家令は遠回しに言っている。
晩餐が始まってからも、小さなずれは続いた。
伯母への最初の挨拶が少しだけ素っ気なかったらしく、母が後で話題を足した。
従兄に振るつもりの話を別の客へ向けてしまい、場が一拍遅れた。
食後の酒を勧める順も、家令が後ろからさりげなく直した。
大きな失敗ではない。
誰かがあからさまに不快な顔をしたわけでもない。
それでも、何かがうまく噛み合っていない感覚だけが、最初から最後まで薄く残った。
客が帰り、ようやく自室へ戻ったときには、もう夜もだいぶ更けていた。
机の上には、書き直しの入った席順表と、返礼の文案、それから伯母への口上を走り書きした紙がそのまま残っている。
ユリウスは上着も脱がぬまま椅子へ腰を下ろし、しばらくそれを見ていた。
以前なら、こういう紙はここに残っていなかった気がする。
全部ではなくても、少なくとも自分がこうして眺める前に、収まるところへ収まっていた。席順も、返礼も、誰にどう言うかも。気づけば整っていて、だから自分は大きなことだけを考えていればよかった。
その“気づけば”を作っていたのが誰だったのかを、いまさら考える。
ふと、夜会の前の小さな控えの間を思い出した。
自分は鏡の前で袖口を直しながら、何気なく席順表を彼女へ渡したのだ。リディアは一度見て、何も言わずに一箇所だけ並びを替えた。理由を問えば、
「こちらのほうが、後で皆様が楽ですので」
とだけ答えた。
別の日には、親族へ送る返書の文面を見て、
「この言い方では少し冷たく映るかもしれません」
と言って、さらさらと書き換えていた。
そのたびに自分は、
「君は本当によく見えている」
とか、
「助かるよ」
とか、
そんなことを言っていた気がする。
褒めているつもりだった。
感謝もしていたはずだ。
けれど今になって思えば、あれは何を褒めていたのだろう。
彼女の判断か。
彼女の責任感か。
それとも、自分が考えなくて済むことへの便利さか。
そこまで考えたところで、胸の奥に妙な鈍さが残った。
リディアがいなくなって、困ることが増えた。
それは事実だ。
だが困っているのは、席順や返礼だけではないのかもしれない。
以前はもう少し、物事が静かに収まっていた。
誰かに恥をかかせることも、自分が余計なことに気を回すことも、今より少なかった。
それを当然のように受け取っていたのは、自分だ。
ユリウスは机上の紙へ手を伸ばし、書き直しの入った席順表を持ち上げた。
赤い線。
消された名前。
横に小さく書き足された順番。
以前なら、こんなふうに後から何度も直される前に、もう整っていたはずの紙だった。
不便なのだ、と思う。
だが、その言葉を胸の内へ置いてみると、どこか薄かった。
不便と呼ぶには、今感じている重さのほうが少しだけ深い。
けれど、それが何なのかは、まだうまくわからない。
彼は席順表を机へ戻した。
乱れたままの紙が、夜の灯りの下にそのまま残る。
以前ならもう片づいていたはずのものが、今夜はまだそこにあった。
ユリウスはしばらくそれを見つめていたが、やがて視線を逸らした。
胸の奥に残ったその重さに、まだ名前はつけられなかった。




