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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第6章 交渉の代償

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6、守れない婚姻

相手方との会談の翌朝、王宮の空気は妙に静かだった。


騒ぎになったわけではない。誰かが取り乱したわけでも、声を荒らげたわけでもない。それでも、昨日までと同じ顔で廊下を行き交う者たちのあいだに、薄い緊張の膜のようなものが張っている。


小会議室へ入ると、次席官と記録管理官はすでに席についていた。

机の上には昨日の記録を簡潔にまとめた紙が置かれている。帰還請求の起点、個人書簡の独立、補助者の継続配置。相手方が受け入れ難いとした箇所は、結局その三つだけだった。


リディアが席へ着いて間もなく、上席官が入ってきた。


婚姻実務の最終判断に近い位置にいる男だと聞いている。これまでは次席官たちに任せていたらしいが、ここまで来てようやく自ら顔を出したのだろう。疲れを隠さない顔つきだったが、視線だけはよく研がれていた。


最後に入ってきたヘレナは、いつもどおり静かな顔で正面の席へ腰を下ろした。強がっているふうはない。だが昨日までの応酬を経てもなお、自分の言葉を引く気がないことは、その横顔だけでわかった。


上席官は机上の記録へ目を落とし、無駄な前置きなく言った。


「概略は受けております。ですが、殿下ご本人のお考えも含め、ここで改めて確認したい」


次席官が昨日のやり取りを要点だけ拾い上げていく。


相手方は、殿下本人からの帰還請求をなお強いと見ている。

個人書簡の独立は、家の信と馴染まぬとした。

補助者の継続配置も、婚姻後の家の内側へ王家の手を残す形として受け入れ難いとの見解だった。


読み上げが終わると、上席官は一度だけ目を閉じた。


「つまり、先方が嫌がっているのは条項の細かさそのものではない。殿下が婚姻後も、王家とつながる形を残すこと自体だと見てよいのだな」


「はい」


セオドアが答えた。


「少なくとも、昨日のやり取りから読めるのはそこです」


上席官は頷き、今度はヘレナへ視線を向けた。


「殿下。昨日のお言葉に、変わりはございませんか」


ヘレナはまっすぐにその問いを受けた。


「ございません」


「その形での婚姻には同意できない、と」


「はい」


王女の返答は短かった。

けれど、迷いはなかった。


「私は婚姻そのものを退けたいのではありません。ですが、帰ることも、私の言葉を届けることも、必要な者を側に置くことも認められぬ形であるなら、私は同意できません」


上席官はしばらく何も言わなかった。

やがて、記録管理官が慎重に口を開く。


「前例という意味では、やはり軽くない話になります。ここで先方が受け入れぬからといって縁を進めぬとなれば、後々の婚姻にも影響いたします」


「いたすでしょうね」


そう答えたのは、ヘレナだった。


「ですが、影響があることと、私が同意してよいことは別です」


その一言を、軽く受け流せぬとわかったのだろう。記録管理官は黙る。


上席官が今度は次席官へ向く。


「王家側として、なお成立の余地があると見るか」


「文言整理の余地は、ほぼ尽きました」


次席官は答えた。


「これ以上薄めれば、こちらが守ると言ってきた中身のほうが別になります」


上席官は次にセオドアを見る。


「法務局としては」


「同じです」


セオドアは迷わず答えた。


「先方が拒んでいるのが殿下の外への回路である以上、殿下の保護を保ったまま成立へ寄せるのは困難です」


困難。

絶対不可能とは言わない言葉だ。けれど、ここまで来た実務の人間がそう言うとき、答えはほとんど見えている。


上席官は長く息を吐き、椅子の背へ少し身を預けた。


「……よくわかった」


その声音には、ようやく飾りのない疲れが混じっていた。

慣例で押し切れる話なら、ここまで残らなかったのだろう。だがもう、押し切れば何が削られるかが、誰の目にも見えてしまっている。


上席官はヘレナへ向き直った。


「念のため、もうひとつだけうかがいます」


「はい」


「仮に、帰還請求の起点だけを残し、書簡と補助者の扱いをさらに穏やかな形へ改めれば、それでもご再考の余地はございますか」


最後にそこを確かめるのは当然だった。王女本人の言葉で、どこが線なのかをここで残しておかなければならない。


ヘレナはすぐには答えなかった。


机の上の三つの語へ視線を落とす。

帰還。

書簡。

補助者。


やがて、ヘレナは顔を上げた。


「いいえ」


その一言は、驚くほど静かで、驚くほど揺れなかった。


「帰る道だけがあっても、そこへ至るまでに私の言葉が届かず、側に必要な者もいなければ、その道は細ります。私は、その形では再考いたしません」


上席官は王女を見つめ、それから静かに頷いた。


それで十分だった。


この場にいる誰もが、いま聞くべきものを聞いたのだとわかった。

ヘレナは感情で拒んでいるのではない。何を落とせば守りが壊れるかを理解した上で、同意しないと言っている。


上席官は記録を閉じた。


「では、王家側としては、これを“条件過多による停滞”ではなく、“最低限の保護条件を先方が受け入れぬことによる不成立の可能性が高い案件”として扱う」


その言葉は冷静で、ほとんど事務的だった。だがその事務性こそが大きい。


王女が難しいことを言っているのではない。

先方が最低限の条件を受け入れていないのだと、王家の内側で整理される。

そこまで来れば、空気は変わる。


次席官も、記録管理官も異を唱えなかった。

むしろ次席官は、ほんのわずかに肩の力を落としたように見えた。


ヘレナは、静かに一礼した。


「ありがとうございます」


その礼に安堵も勝ち誇りもない。

ただ、自分が言ったことがようやくその形で受け取られたことへの、静かな応答だった。


会議は長引かなかった。


正式な決定はなお別の手続きを要する。先方へ返す文も整えねばならない。だが、大きなところはもう定まった。少なくとも王家の内側で、これ以上「殿下のお気持ち」として丸められることはない。


退出して回廊へ出る。


窓の外の光は、もう夕方の色へ移りかけていた。薄い金色が石床へ長く伸び、その先で人影を細くする。


ヘレナは侍女と合流する前に、一度だけ立ち止まった。


「今日は、ようやく」


王女はそう言って、少しだけ目を細める。


「私が何を拒んでいるのかではなく、先方が何を拒んでいるのかが、そのまま残った気がいたします」


「はい」


リディアは答えた。


「そこが一番大きいでしょう」


ヘレナは頷いた。


「ええ。……それなら、もう十分です」


それ以上は言わず、王女は去っていった。


残されたリディアは、しばらくその背を見ていた。

十分、とヘレナは言った。婚姻が止まって十分なのではない。ここまで探って、なお駄目なら、見なかったことにはしないと決めるには十分だ、という意味だ。


隣でセオドアが低く言う。


「ここからは速いでしょう」


「ええ」


「王家の中で整理がついた」


「はい」


回廊の窓から差し込む光は、もう夕方の色を帯びている。

薄い金色が石床の上へ斜めに伸び、その先で人影を細くしていた。


リディアはその光を見ながら思う。


この婚姻は、まだ正式に止まったわけではない。だが、もう守れる婚姻としては見られていない。そこまで来た。


ヘレナは条件を外へ出した。

自分でそれを守る側へ移った。

そして今の相手とは、その条件を持ったまま結べないことが、ようやく明るい場所へ出た。


もう答えは見えている。


「セオドア様」


「何でしょう」


「あなたは、いつからここまで見えておられましたか」


彼は少しだけ考えてから答えた。


「最初からではありません」


「では、いつから」


「殿下が、ご自分の言葉で書簡を残すとおっしゃったあたりからです」


リディアは小さく息をつく。


たしかに、あそこからだった。

王女が、ただ保護される側ではなく、自分で外への回路を守る側へ回ったとき、もう後戻りは難しかったのだ。


セオドアは革挟みを抱え直した。


「次は、止めるための整理です」


その一言に、リディアも静かに頷いた。


冷たい言い方だ。だが今は、その冷たさのほうが誠実だった。守る条件を受け入れぬままでは結べない。それが明るい場所へ出た以上、残るのは感情の整理ではなく、現実の整理なのだから。


回廊の先へ、夕方の光がまだ細く伸びている。

その中を歩きながら、リディアは胸の内ではっきりと思った。


この婚姻は、守る条件を受け入れぬままでは結べない。

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