5、その形では受け入れない
次の会談は、前より短く終わるはずだった。
そう考えていたのは、たぶんリディアだけではない。王家側も相手方も、ここまで来れば争点は出尽くしているとわかっていた。帰還請求の起点。個人書簡の独立。補助者。もう新しい論点が増える余地はない。残っているのは、どちらがどこで退くか、それだけだった。
応接室へ入ると、机の上には最終案に近い文案が整えられていた。
紙の枚数はさらに減っている。
余計な前置きも、飾るための言い回しもない。残したい線だけをようやく裸にしたような文だった。
ヘレナは席に着くと、その文案を一度だけ見た。
もう確認のためではない。自分が何を守るためにここへ座っているのかを、目でなぞるための一瞥だった。
レオポルト卿は、今日も変わらぬ礼節で入室した。
形式的なやり取りのあと、次席官が王家側の案を示す。
「前回までのご懸念を踏まえ、必要な箇所のみを残した文案です」
レオポルト卿は受け取り、静かに目を通していく。
その視線が止まる場所は、やはり同じだった。
帰還請求。
個人書簡。
補助者。
読み終えたあと、彼は紙を机へ戻し、少しだけ間を置いて言った。
「王家側が、成立の形を真摯に探ってくださったことは、十分に伝わっております」
次席官が頷く。
「ありがとうございます」
「ですが、恐縮ながら、やはり我が家としては受け入れ難い点が残ります」
部屋は静かだった。
驚く者はいない。
ただ、その言葉がどこへ向かうかを誰もが知っているからこそ、沈黙の質が重い。
レオポルト卿は帰還請求の項へ指を置いた。
「殿下ご本人の請求を起点とすること。この一点は、やはり家の内側に常の揺らぎを生みます」
「私が帰還を命じるわけではありません」
ヘレナが言う。
「ええ。協議の起点にすぎぬことは承知しております」
「ですが、起点がどこにあるかが軽くない」
彼は次に書簡の項を示した。
「殿下個人の書簡を、殿下の安否および意思を明らかにする経路として保持する。この考えも理解いたします。ですが、それを家の内側から独立したものとして残せば、我が家は常に外から量られる側となる」
「量るのではありません」
ヘレナが言った。
「知らせるのです」
レオポルト卿は一度だけ王女を見た。
「殿下がそうお考えであることはわかります。ですが家の側から見れば、内側で収まるべきことが、殿下個人の判断で外へ届く形になります」
「“収まるべき”とおっしゃるのですね」
ヘレナの声音は静かだった。
「はい」
「その中には、私の不利益も含まれますか」
レオポルト卿は、そこで初めて答えを遅らせた。
「殿下を不利益に遇わせるつもりは、もちろんございません」
「つもり、ではなく」
ヘレナは文案の上へ手を置いた。
「形の話をしております」
その一言に、これまで黙っていたセオドアがゆっくりと顔を上げた。
だが、まだ何も言わない。ここで前へ出るべきでないと、やはり思っているのだろう。
代わりに、レオポルト卿は補助者の項へ話を移した。
「医療と文書補佐の機能すら、継続的に殿下の側へ属するのであれば、我が家にとっては強い」
それで十分だった。
帰還。
書簡。
補助者。
結局、相手が拒んでいるのはひとつだ。ヘレナが婚姻後も外へ向けて持ち続ける細い線、そのものだった。
しばらく静寂が落ちた。
ヘレナは黙って文案を見ていた。
帰還請求。書簡。補助者。自分が選び、自分で守ると決めた順だ。それを前にして、相手は礼を尽くしながら、どれも認め難いと言っている。
やがて王女は、ゆっくりと顔を上げた。
「私は」
その声は静かだった。
「婚姻そのものを退けたいわけではありません」
レオポルト卿は黙って聞いている。
「国のための役目を理解しております。先方と良い関係を築きたいとも思っております。できることなら誠実でありたいと考えております」
そこまで言ってから、王女は机上の文案へ手を置いた。
「ですが、私がここに置いたのは、気休めではありません」
誰も口を挟まない。
「帰ることができること。私の言葉が途中で別のものにされず届くこと。必要な者が側にいること。それがなければ、私は婚姻ののち、向こうの家の中で何も持たぬままになります」
レオポルト卿の顔には、なお礼儀がある。けれど、それだけだった。
「その形を、そちらが受け入れ難いとおっしゃるなら」
ヘレナはほんの一瞬だけ息を吸った。
その形での婚姻に、私は同意できません。
部屋の空気が、そこで止まった。
大きな声ではない。言い捨てたわけでもない。けれど、今まででいちばん明確だった。
婚姻を拒むのではない。
この形での婚姻を拒む。
そこに、この物語のすべてがあった。
レオポルト卿は、すぐには言葉を返さなかった。
やがて、ごく静かに頭を下げる。
「殿下のお考えは、よくわかりました」
それは譲歩ではない。ただ、これ以上この場で飾る言葉がないと認めた返答だった。
会談はそれで終わった。
礼は最後まで保たれ、声も荒れず、誰ひとり非礼を働かなかった。なのに、ここまでくっきりと交わらないとわかる場も珍しいと、リディアは思った。
退出のあと、回廊へ出る。
窓の外の光は少し傾いていた。
白かった空が、ようやく薄く色づきはじめている。
ヘレナはすぐには歩かなかった。
扉の外で一度立ち止まり、静かに息を吐く。
「……言ってしまいましたね」
その声に、後悔はなかった。
疲れと、それでも揺れない静けさだけがある。
「はい」
リディアが答える。
「必要でした」
ヘレナは小さく頷いた。
「ええ。ようやく、自分でもそう思えます」
セオドアが低く言う。
「もう十分です」
「何がでしょう」
「形を探ることです」
ヘレナは、その言葉を少しのあいだ黙って受け止めた。
「そうですね」
やがてそう言って、王女は回廊の先へ視線を向ける。
「ここまで探って、なお同じなら、もう見ぬふりはできません」
それが答えだった。
今この場で、婚姻が正式に止まったわけではない。だが、もう見えている。この相手は、守りを持った王女を受け入れない。そしてヘレナもまた、守りのない婚姻を受け入れない。
その二つが、ようやく同じ場所へ並んだ。




