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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第6章 交渉の代償

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5、その形では受け入れない

次の会談は、前より短く終わるはずだった。


そう考えていたのは、たぶんリディアだけではない。王家側も相手方も、ここまで来れば争点は出尽くしているとわかっていた。帰還請求の起点。個人書簡の独立。補助者。もう新しい論点が増える余地はない。残っているのは、どちらがどこで退くか、それだけだった。


応接室へ入ると、机の上には最終案に近い文案が整えられていた。


紙の枚数はさらに減っている。

余計な前置きも、飾るための言い回しもない。残したい線だけをようやく裸にしたような文だった。


ヘレナは席に着くと、その文案を一度だけ見た。

もう確認のためではない。自分が何を守るためにここへ座っているのかを、目でなぞるための一瞥だった。


レオポルト卿は、今日も変わらぬ礼節で入室した。


形式的なやり取りのあと、次席官が王家側の案を示す。


「前回までのご懸念を踏まえ、必要な箇所のみを残した文案です」


レオポルト卿は受け取り、静かに目を通していく。

その視線が止まる場所は、やはり同じだった。


帰還請求。

個人書簡。

補助者。


読み終えたあと、彼は紙を机へ戻し、少しだけ間を置いて言った。


「王家側が、成立の形を真摯に探ってくださったことは、十分に伝わっております」


次席官が頷く。


「ありがとうございます」


「ですが、恐縮ながら、やはり我が家としては受け入れ難い点が残ります」


部屋は静かだった。


驚く者はいない。

ただ、その言葉がどこへ向かうかを誰もが知っているからこそ、沈黙の質が重い。


レオポルト卿は帰還請求の項へ指を置いた。


「殿下ご本人の請求を起点とすること。この一点は、やはり家の内側に常の揺らぎを生みます」


「私が帰還を命じるわけではありません」


ヘレナが言う。


「ええ。協議の起点にすぎぬことは承知しております」


「ですが、起点がどこにあるかが軽くない」


彼は次に書簡の項を示した。


「殿下個人の書簡を、殿下の安否および意思を明らかにする経路として保持する。この考えも理解いたします。ですが、それを家の内側から独立したものとして残せば、我が家は常に外から量られる側となる」


「量るのではありません」


ヘレナが言った。


「知らせるのです」


レオポルト卿は一度だけ王女を見た。


「殿下がそうお考えであることはわかります。ですが家の側から見れば、内側で収まるべきことが、殿下個人の判断で外へ届く形になります」


「“収まるべき”とおっしゃるのですね」


ヘレナの声音は静かだった。


「はい」


「その中には、私の不利益も含まれますか」


レオポルト卿は、そこで初めて答えを遅らせた。


「殿下を不利益に遇わせるつもりは、もちろんございません」


「つもり、ではなく」


ヘレナは文案の上へ手を置いた。


「形の話をしております」


その一言に、これまで黙っていたセオドアがゆっくりと顔を上げた。

だが、まだ何も言わない。ここで前へ出るべきでないと、やはり思っているのだろう。


代わりに、レオポルト卿は補助者の項へ話を移した。


「医療と文書補佐の機能すら、継続的に殿下の側へ属するのであれば、我が家にとっては強い」


それで十分だった。


帰還。

書簡。

補助者。


結局、相手が拒んでいるのはひとつだ。ヘレナが婚姻後も外へ向けて持ち続ける細い線、そのものだった。


しばらく静寂が落ちた。


ヘレナは黙って文案を見ていた。

帰還請求。書簡。補助者。自分が選び、自分で守ると決めた順だ。それを前にして、相手は礼を尽くしながら、どれも認め難いと言っている。


やがて王女は、ゆっくりと顔を上げた。


「私は」


その声は静かだった。


「婚姻そのものを退けたいわけではありません」


レオポルト卿は黙って聞いている。


「国のための役目を理解しております。先方と良い関係を築きたいとも思っております。できることなら誠実でありたいと考えております」


そこまで言ってから、王女は机上の文案へ手を置いた。


「ですが、私がここに置いたのは、気休めではありません」


誰も口を挟まない。


「帰ることができること。私の言葉が途中で別のものにされず届くこと。必要な者が側にいること。それがなければ、私は婚姻ののち、向こうの家の中で何も持たぬままになります」


レオポルト卿の顔には、なお礼儀がある。けれど、それだけだった。


「その形を、そちらが受け入れ難いとおっしゃるなら」


ヘレナはほんの一瞬だけ息を吸った。


その形での婚姻に、私は同意できません。


部屋の空気が、そこで止まった。


大きな声ではない。言い捨てたわけでもない。けれど、今まででいちばん明確だった。


婚姻を拒むのではない。

この形での婚姻を拒む。


そこに、この物語のすべてがあった。


レオポルト卿は、すぐには言葉を返さなかった。

やがて、ごく静かに頭を下げる。


「殿下のお考えは、よくわかりました」


それは譲歩ではない。ただ、これ以上この場で飾る言葉がないと認めた返答だった。


会談はそれで終わった。


礼は最後まで保たれ、声も荒れず、誰ひとり非礼を働かなかった。なのに、ここまでくっきりと交わらないとわかる場も珍しいと、リディアは思った。


退出のあと、回廊へ出る。


窓の外の光は少し傾いていた。

白かった空が、ようやく薄く色づきはじめている。


ヘレナはすぐには歩かなかった。

扉の外で一度立ち止まり、静かに息を吐く。


「……言ってしまいましたね」


その声に、後悔はなかった。

疲れと、それでも揺れない静けさだけがある。


「はい」


リディアが答える。


「必要でした」


ヘレナは小さく頷いた。


「ええ。ようやく、自分でもそう思えます」


セオドアが低く言う。


「もう十分です」


「何がでしょう」


「形を探ることです」


ヘレナは、その言葉を少しのあいだ黙って受け止めた。


「そうですね」


やがてそう言って、王女は回廊の先へ視線を向ける。


「ここまで探って、なお同じなら、もう見ぬふりはできません」


それが答えだった。


今この場で、婚姻が正式に止まったわけではない。だが、もう見えている。この相手は、守りを持った王女を受け入れない。そしてヘレナもまた、守りのない婚姻を受け入れない。


その二つが、ようやく同じ場所へ並んだ。

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