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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第6章 交渉の代償

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4、削られるのは誰か

再度の会談は、その翌日の午後に開かれた。


応接室は前回と同じだった。壁の織物も、窓辺の花も、茶器の置かれ方も変わらない。変わったのは、机の上に置かれた文案の厚みだけだ。前回より紙は薄い。削れるところは削り、残すべき線だけを絞り込んだ、その結果だった。


これ以上薄めれば、もう別の婚姻になる。


昨日、法務局の執務室でそう言ったときの静けさを、リディアはまだ覚えている。今日ここへ持ち込んだ文案は、その静けさの上に成り立っていた。


レオポルト卿は、相変わらず穏やかな顔で文案を受け取った。


読み進める手つきも丁寧だ。粗を探すような慌ただしさはない。だからこそ、どこで目が止まるかがよくわかる。


帰還請求。

個人書簡。

補助者。


やはり、そこだった。


「ご配慮いただいたことは、よくわかります」


文案を閉じたあと、レオポルト卿は静かに言った。


「前回より、ずっと整っております」


次席官が応じる。


「ありがとうございます」


「ただ、恐縮ながら、根のところは変わっておりません」


ヘレナは目を伏せなかった。


レオポルト卿は、帰還請求の項へ指を置いた。


「殿下ご本人の請求を起点とすること。この一点は、やはり家の内側に常の揺らぎを生みます」


「私が帰還を命じるわけではありません」


ヘレナが言う。


「ええ。協議の起点にすぎぬことは承知しております」


レオポルト卿はすぐに頷く。


「ですが、起点がどこにあるかが軽くないのです」


彼は次に書簡の項へ目を移した。


「こちらも、殿下の安否と意思を確認する経路として置かれたことはわかります。ですが、やはり私的書簡を独立した経路として残すことには、家として慎重にならざるを得ません。家の内側で収まるべきことが、殿下個人の判断で外へ届く形になります」


「“収まるべき”とおっしゃるのですね」


ヘレナの声音は、低くも強くもない。

それでも室内の空気を静かに変える力があった。


「はい」


「その中には、私の不利益も含まれますか」


レオポルト卿は、そこで初めて答えを遅らせた。


ほんの一拍だ。だが、その一拍で十分だった。


「殿下を不利益に遇わせるつもりは、もちろんございません」


「つもり、ではなく」


ヘレナは文案の上へ手を置いた。


「形の話をしております」


今度は補助者の項へ話が移る。


「医療と文書補佐の機能すら、継続的に殿下の側へ属するのであれば、我が家にとっては強い」


それで十分だった。


帰還。

書簡。

補助者。


結局、何も変わっていない。

相手方が拒んでいるのは、ヘレナが婚姻後も外へ向けて持ち続ける細い線、そのものだ。


会談は、それ以上大きくは進まなかった。


礼を失わぬまま言葉が行き交い、最後まで穏やかに終わる。だが終わったとき、少なくともリディアには、何かが前へ進んだという感覚より、残された道がさらに細くなったという感覚のほうが強かった。


退出のあとの回廊は静かだった。


王宮の石床は外の冷えをよく拾う。歩くたびに、靴音が細く伸びる。ヘレナは途中で侍女に呼ばれ、二人に軽く会釈して別れた。


残ったのはリディアとセオドアだけだ。


「……もう少し、削れます」


自分でも、声が少し早かったと思う。


セオドアは足を止めなかった。


「どこをです」


「書簡です。定期の往復という言葉を、定例の安否確認と王家への意思表示に分ける。補助者も、継続配置ではなく婚姻後の初期段階に限定すれば」


「それで」


セオドアが歩調を変えずに問う。


「何が残るのです」


「起点は、まだ」


「起点だけ残して、日常の回路を細らせるのですか」


リディアは返答に詰まった。


違う、と言いたかった。けれど違わないこともわかっていた。


「少なくとも、いまのままでは平行線です」


ようやくそう言うと、セオドアは初めて足を止めた。


そして、正面からリディアを見た。


「あなたは」


声は低かった。

だが、普段より少しだけ硬い。


「ご自分が削られることには鈍すぎる」


回廊の空気が、一瞬止まったように感じた。


責められたのではない。怒鳴られたわけでもない。けれど、その一言はまっすぐすぎた。


「他人の退路はよく見える。どこが痩せれば危ういかも、誰より早くわかる。なのに、ご自分が今やろうとしていることには気づかない」


「私は、自分のことを言っているのでは」


「同じです」


遮るように言われて、リディアは黙る。


「あなたがいま削ろうとしているのは、殿下の書簡です。殿下の退路です。ですがその削り方を選んでいるのは、結局“ここまで譲れば通るかもしれない”とご自分が受け持つやり方でしょう」


その指摘は、否定のしようがなかった。


もし次の案でさらに薄めるなら。

それを提案するのは自分だ。

王女を守るために、成立のために必要だったと言いながら、実際には王女の側から少しずつ削っていく。


「……だからといって、全部を強く押し切れるわけでもありません」


やっとそう言うと、セオドアは視線を逸らさなかった。


「ええ。押し切れないでしょう」


「なら」


「押し切れぬことと、こちらから薄くすることは別です」


その言葉が、胸の奥に重く落ちた。


自分はまたやろうとしていたのだ。

誰かを守るために、誰かが削られる形を、少しだけならと見ないふりして通そうとしていた。


少しだけ。ほんの一言だけ。その程度なら。

そうやって、いちばん大事な線のほうを痩せさせる。


「……そうですね」


ようやく、その一言が出た。


「私は、殿下の退路を守るためにいるのに」


「ええ」


「通すために削っては、本末転倒です」


セオドアは短く頷いた。


「ようやく気づかれましたか」


その返しが少しだけいつもの調子に戻っていて、妙に腹が立つ。けれど、それで助かった気もした。


「もう少し、言い方というものがあるでしょう」


「急ぎましたので」


「法務局は、人を急がせるためにああいう言い方をなさるのですか」


「必要なら」


相変わらずだった。


けれどそのあとで、彼はごく短く言葉を足す。


「……失礼しました」


リディアはわずかに目を見開いた。


謝るのかと思うより先に、その声音が普段より少しだけ低いことに気づく。形式上の詫びではない。自分でも少し強かったとわかっている声だ。


「いいえ」


リディアは答えた。


「たぶん、ああ言われなければ止まりませんでした」


それは本音だった。


自分は、人のためなら削れる。

自分の役目や矜持だけでなく、場合によっては相手の守りまで、成立のためという顔で少しずつ削ってしまえる。

それは美徳ではなく、危うさだ。


ここまで来て、ようやくそこへはっきり触れられた気がした。


「次の案は、こちらからは薄めません」


セオドアが言う。


「そのうえで、向こうがなお拒むなら」


「もう答えは見えます」


二人とも、それ以上は言わなかった。

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