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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第6章 交渉の代償

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3、残された道

次の文案づくりは、王宮ではなく法務局の奥の執務室で行われた。


表へ出す前の草案を整えるには、そのほうが都合がいいとセオドアが言ったのだ。窓は小さく、昼でも部屋の隅は少し暗い。けれど余計な飾りがないぶん、何を残し、何を削るかだけに集中できる。


机の上には、これまでの文案が何枚も重ねられていた。


最初の草案。

王家側で整えた第一案。

相手方の反応を受けた修正案。

そして、昨夜リディアが書き出した整理の紙。


帰還請求。

書簡。

補助者。


争点はもう動かない。動くのは、その見せ方だけだった。


ヘレナは最初の一枚を閉じ、ゆっくりと言った。


「私は、まだ考えておりました」


向かいに座るリディアとセオドアが顔を上げる。


「今の相手とでも、形を整えれば成立しうるのではないかと」


その声には迷いも諦めもなかった。ただ、最後まで考えたい人の静けさがある。


「その可能性を探るのは必要です」


リディアが答えると、ヘレナは小さく頷いた。


「ええ。私は婚姻そのものを退けたいのではありませんから」


その一言が、この場にいる三人の前提だった。


セオドアが紙束の中から一枚を引き抜いた。


「前提を置きます」


彼は簡潔に言う。


「帰還の起点は残す。書簡の独立も残す。補助者については、表現の工夫はできる。ここまでは動かしません」


「はい」


ヘレナが答える。


「そのうえで、どこまで薄めれば、なお意味が残るかを見る」


「ええ」


リディアは白紙を一枚引き寄せた。


最初に手をつけたのは補助者の項だった。


侍女の数をどうするか、では相手に“家の内側へ王家の人数を残す話”として受け取られやすい。だからそこは最初から外し、機能だけを残す。


帰還および連絡体制の維持に必要な補助者を置くこと。

その補助者は、医療および文書補佐の役目を担うこと。

欠員が出た場合、王家側との協議のうえ補充すること。


そこまで書いて、リディアはヘレナへ目を向けた。


「ここはさらに削れます」


「どこまで」


「“継続的配置”という語を落とせるかもしれません」


ヘレナは少し考えた。


「それで意味は残りますか」


「医療と文書補佐の機能が、婚姻後も殿下の側に属すると読めるなら」


セオドアが補った。


「常置という語を外しても、補充義務が残れば機能は保てます」


ヘレナは紙を見つめ、それから言った。


「では、そこは退けます」


その判断に迷いはなかった。

退いたというより、守るために位置を変えたというほうが近い。


次に、帰還請求の項へ移る。


ここは最初から難しかった。


殿下本人からの請求を起点とする。

王家側は速やかに協議を開始する。

一定期限内に返答を要する。


これ以上削れば、起点そのものが曖昧になる。


「ここは、起点以外の語しか動かせません」


リディアが言う。


「協議開始後の期限を、先方と王家双方の協議に委ねる、といった柔らかい書き方はできます。ただ」


「ただ」


「起点を“殿下本人の請求”から外せば、もう別です」


ヘレナはすぐに頷いた。


「そこは動かしません」


最後に残ったのが、書簡だった。


三人とも、そこへ来ると少し黙った。

やはりここが一番難しい。


封緘の保持。

定期的往復。

例外は限定。

共同確認。


それでも相手は嫌がる。

なぜなら、書簡は帰還以上に日常へ触れるからだ。婚姻後も外へ向かう細い管を、相手は最も嫌う。


「数字を落とすことはできます」


ヘレナが静かに言った。


「定期便の頻度ですか」


「ええ。一月に何度、のようなものは要らないと思います。定期、とだけ置けばよい」


「急の連絡は」


「別に要るでしょうね。でも、私が守りたいのは頻度ではありません。私の言葉が私のものとして届くことです」


その言い方に、リディアは小さく息をついた。

前よりずっと正確だ。


セオドアが紙の余白へ新しい案を書いていく。


殿下個人の書簡については、その封緘を保持し、王家指定の経路による定期の往復を妨げないこと。

急を要する場合はこの限りではなく、速やかに別途の連絡経路を認めること。

例外は宮中の安全又は明白な法規違反に限り、その場合も王家側への即時通知及び共同確認を要すること。


書き終えた紙を三人で黙って見る。


悪くない。だが、通るかは別だ。


「ここまで落とせば」


ヘレナが言った。


「もう、向こうが嫌がるのは中身そのものになりますね」


その一言で、部屋の静けさが少し変わった。


言い換えれば、これ以上薄めるなら、もう守っているものが別になる。

ここが最後の線かもしれないと、誰もが感じたのだろう。


リディアはその紙を見下ろしたまま、ゆっくりと言う。


「まだ一つ、見せ方を変えられるかもしれません」


セオドアが目を上げる。


「どこを」


「書簡です」


リディアは新しい白紙を取った。


「いまの書き方だと、“王女が外と頻繁につながる”印象が先に立ちます。そうではなく、“王女の安否確認と意思表示の経路”として前へ出すのです」


セオドアは少し考え、頷いた。


「悪くありません」


「安否確認と意思表示」


ヘレナがその語を繰り返す。


「はい。私信の自由ではなく、婚姻後も殿下の状態と意思を明らかにできる経路。そう置けば、私的な好みではなく最低限の安全管理として読ませられます」


「それでも、私の言葉であることは消したくありません」


「消しません」


リディアはすぐに言った。


「そこは芯です。ですから“殿下個人の書簡”は残す。そのうえで、それがなぜ必要かの説明を付けるだけです」


ヘレナはゆっくり頷いた。


「わかりました」


そこでようやく、三人の間に一つの文案が定まった。


補助者は見せ方を変えた。

帰還は起点を守った。

書簡は頻度を下げ、理由を安全と意思表示に寄せた。


ここまでやって、まだ駄目なら、それはもう向こうが線そのものを拒んでいるということになる。


「では、これで持っていきます」


セオドアが紙をまとめながら言う。


「……ええ」


ヘレナは答えた。


「これ以上は、もう薄められません」


リディアはその一言を聞き、ようやく自分の胸の中でも何かが定まるのを感じた。

ここまではやった。

成立しうる道を探り、見せ方も整え、守る線も選んだ。

そのうえでなお拒まれるなら、それはもう「条件が細かい」では済まない。


次の場で、たぶんそれがはっきりする。

そしてはっきりしてしまえば、もう前の場所へは戻れない。

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