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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第6章 交渉の代償

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2、受け入れられない理由

会談のあとも、応接室の空気はしばらく抜けなかった。


使者が去り、次席官と記録管理官も退出して、部屋に残ったのはヘレナとリディア、セオドアだけになっている。それでも、さきほど交わされた言葉はまだ机の上に置かれたままのように感じられた。


殿下は婚姻後も半ば王家の内側におられるに等しい。

それでは我が家としてお迎えする意味が揺らぐ。


礼を尽くした声で言われたぶんだけ、その中身は冷たく明瞭だった。


ヘレナは席を立たなかった。

机の上に指先を置いたまま、しばらく黙っている。


「……ずいぶん、はっきりいたしましたね」


やがて王女がそう言うと、セオドアが短く答えた。


「ええ」


「条件が多いとおっしゃりたいのではないのですね」


「はい」


前なら、ここで自分が求めすぎているのではないかと問うたかもしれない。だが今のヘレナは違う。問いの向きが変わっている。自分が過剰なのかを量るのではなく、相手が何を嫌がっているのかを見ていた。


帰りの馬車で、ヘレナはほとんど口を開かなかった。王女を居室へ送ったあと、リディアもエーヴェル家の馬車へ乗り込む。向かいの席にはセオドアがいた。今日のような場のあとで、別々に戻っても意味がないと、いつの間にかそういう扱いになっている。


揺れる車内で、リディアは窓の外を見ていた。

王都の夕方はまだ明るい。店先の灯りも、人の足取りも、どれも変わらず穏やかだ。けれど今日聞かされたことを思えば、その穏やかさがどこか空々しく見えた。


「気づいておられますか」


向かいからセオドアの声がした。


「何をです」


「向こうが嫌がっているのは、条項ではありません」


リディアは彼を見た。


「ええ」


「殿下が、婚姻後も外とつながる形そのものです」


それだけの言葉で、今日の会談の輪郭がさらに明るくなる。


帰還請求。

個人書簡。

帯同補助者。


相手方が拒んでいるのは、条項の多さではない。ヘレナが婚姻後も、向こうの家の外へ自分の声と退路を持ち続けることだ。


「つまり」


リディアは窓の外へ視線を戻したまま言う。


「向こうが欲しいのは、婚姻相手ではなく、取り込まれた王女ということですね」


「少なくとも、いま見えているのはそうです」


馬車は石畳を一定の速さで進んでいく。

その規則的な揺れの中で、リディアは今日の会話を一つずつ思い返していた。


家の秩序。

家門の信。

お迎えする意味。


どの言葉も、表面だけ見ればおかしくはない。だがその言葉が向いている先は、いつも同じだった。王女が婚姻後も自分の名で動ける形を、穏やかに薄めること。そのために使われている。


屋敷へ戻った夜、机の上には何枚もの紙が広がった。


婚姻後の家の秩序。

私的書簡の独立は不信に映る。

帯同者の継続配置は内政への干渉に見える。

帰還請求の起点が本人にあると、家の統治が揺らぐ。


リディアはそれらを書き出し、その横へ一つずつ別の言葉を書き添えていく。


秩序ではなく拘束。

不信ではなく外部回路の遮断。

干渉ではなく孤立防止への拒否。

統治の揺らぎではなく、片側支配の妨げ。


書いているうちに、胸の中で何かがはっきりしていく。


向こうは、条件が多いから嫌なのではない。

条件によって、王女を完全に閉じきれなくなるから嫌なのだ。


そこまで見えたとき、不意にペン先が止まった。


もし条件をもう少し和らげれば、どうなるだろう。

書簡を公的報告中心に寄せ、帯同補助者も一段引き、帰還請求も王家側の判断を強くすれば。そうすれば、婚姻自体は進むのかもしれない。


だがそのとき残るのは、誰の婚姻だ。


ヘレナは役目を理解している。

婚姻そのものを拒みたいわけでもない。

それでも今の形では駄目だと思ったから、ここまで来た。


そこを薄めて成立だけを取るのなら、自分たちがいまやっていることは、結局あちら側の理屈を少し整えて通す手伝いにしかならない。


リディアは深く息を吐き、書きかけの余白へ短く記した。


成立のために守りを削るな。


翌朝、法務局の保管室にはいつもより早く三人が揃った。


王宮ではない場所で会うときのヘレナは、少しだけ呼吸が深い。王女としてではなく、交渉の当事者として席に着いているせいかもしれない。


机の中央には、リディアが昨夜まとめた紙が置かれていた。


左側に相手方の言い分。

右側に、それが実際には何を意味するか。


ヘレナはそれを読み、二列目で視線を止めた。


私的書簡の独立は家への不信に映る。

→ 王女の私的発信を家の裁量に置きたい。


王女はゆっくりと目を上げる。


「……ここまで書いてしまうのですね」


「書かなければ、綺麗な言葉のまま残ります」


リディアが答えると、ヘレナは小さく頷いた。


帰還請求が本人起点だと家の秩序が揺らぐ。

→ 王女本人の意思を起点にしたくない。


帯同補助者の継続配置は内政への干渉に見える。

→ 王女の側近機能を婚姻後も残したくない。


そこまで読んだあと、王女は静かに言った。


「向こうは、条件を疑っているのではないのですね」


「はい」


セオドアが答える。


「殿下を閉じたいのです」


「閉じたい」


「家の内側に」


部屋は静かだった。

紙の擦れる音すらやけに小さく聞こえる。


ヘレナはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「それなら、理由もはっきりいたします」


「何がでしょう」


リディアが問うと、王女は紙の右側を見ながら答えた。


「向こうが受け入れられないのは、私の条件ではないのですね。私が婚姻後も王家の娘であり続ける形なのだと思います」


リディアはわずかに目を細めた。

そこまで自分の言葉で言えたなら、もう十分だった。


「はい」


セオドアも同じく短く言う。


「そういうことです」


ヘレナは紙を閉じた。

その仕草に、前より明らかな硬さがある。怯えではなく、輪郭を得た決意の硬さだった。


「では」


王女は二人を見た。


「次は、こちらも礼を尽くして、はっきり申し上げねばなりませんね」


その言葉で、次の会談の形が定まった。


礼を尽くした拒絶は、まだ始まりにすぎない。

次は、拒絶の理由がもっと並べられる。

けれどもう、それを恐れるばかりの段階ではなかった。


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