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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第6章 交渉の代償

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1、礼を尽くした拒絶

相手方の使者が王宮へ入ったのは、薄曇りの午後だった。


窓の外の光は白く鈍い。晴れているとも曇っているとも言い切れない空模様で、季節に似合わぬ冷たさだけが廊下へ残っていた。リディアはその冷えを、応接室へ向かう途中で妙に意識していた。


通された部屋は、これまで文案を詰めていた小会議室より一回り広い。壁には織物が掛けられ、窓辺には花が活けられている。客人へ礼を尽くすための部屋だった。


だからこそ、そこで交わされる言葉がどれほど整っていても、安心はできない。


室内にはすでに次席官と記録管理官が着いており、セオドアは少し後ろに控えていた。リディアは正式な提出者ではないため脇の席にいる。だがもう、この場に彼女がいることを不自然と見る者はいなかった。どこを削れば文案が空になるかを、ここにいる誰より早く見抜くからだ。


ヘレナは正面の席に座っていた。


王女として軽んじられぬだけの整い方をしている。華美ではない。けれど、隙もない。机上の文案へ向ける視線は静かで、その静けさがかえって張ったものを感じさせた。


やがて扉が開き、相手方の使者が入室した。


名をレオポルト卿という。先方当主の側近であり、婚姻実務を預かる立場だと紹介された。年の頃は四十代半ばほどで、長く高位の家に仕えてきた者らしい、過不足のない礼を取る。


その顔には敵意がない。むしろ、よく整えられた誠実さがある。


それが、いちばん厄介だった。


礼が交わされ、着席が整う。茶が運ばれ、最初の数言は天候と道中の無事に触れるだけの穏やかなものだった。


だが本題へ入る前のその短い時間に、リディアはもうわかっていた。今日の相手は荒れない。侮らない。乱暴な言葉も使わない。その代わり、引けない線だけをきれいな言い回しで退けに来る。


次席官が、王家側で整えた文案を机上へ置いた。


「本日は、殿下のご婚姻に関わる条件につきまして、事前の確認のためお時間を頂戴いたしました」


レオポルト卿は穏やかに頷いた。


「こちらこそ、丁寧なお取り計らいに感謝いたします。ご婚姻は両家の信を結ぶもの。早い段階で考えを交わせるのはありがたいことです」


その言い方には一点の曇りもない。最初から、信という言葉が置かれている。


記録管理官が要点を読み上げていく。


殿下本人からの請求を起点とする帰還協議。

個人書簡の封緘保持と定期的往復。

帰還および連絡体制を支える補助者の継続的配置。

重大な違反が生じた場合の協議手続き。


読み上げが終わったあと、室内には短い沈黙が落ちた。


レオポルト卿はすぐに口を開かなかった。文案を手元へ引き寄せ、一枚ずつ丁寧に目を通す。焦りも不快も見せない。ただ確認しているだけの顔だった。


やがて彼は文案を閉じ、静かに言った。


「よく整えられております」


次席官が応じる。


「ありがとうございます」


「ただ」


やはり、その先は続いた。


「率直に申し上げますと、少々驚きました」


部屋の空気がごくわずかに張る。


「殿下のお立場を思えば、一定の配慮が必要であることは、もちろん承知しております。帰還や連絡の経路についても、何らの確認も要らぬとは申しません」


そこまで言ってから、彼は帰還請求の項へ指を置いた。


「ですが、婚姻後も殿下ご本人の請求をもって王家側との協議が起動し得る、という形は、家の秩序に関わります」


「秩序、ですか」


ヘレナが問う。


「はい。婚姻とは、殿下を我が家へお迎えした後、我が家の一員としてお遇しすることでもございます。そこへ、常に外側への直接の回路が強く残るとなれば、家の内側に揺らぎが生じましょう」


礼儀正しい。だが、言っていることは明快だった。


向こうの家へ入る以上、向こうの論理が優先されるべきだ、と。


次席官が穏やかに返した。


「殿下ご本人からの請求は、即時の帰還を意味するものではありません。協議の起点です」


「承知しております」


レオポルト卿は頷く。


「ですが、起点がどこにあるかは軽くありません。婚姻後の家において、奥方がご自身の判断で外へ働きかけ得ると見える形は、どうしても強い」


リディアは机の下で指先を軽く組んだ。


強い、という言い方。

駄目とも不当とも言わない。だが受け入れ難いことだけははっきり示す、最も厄介な拒み方だった。


レオポルト卿は次に書簡の項へ目を移す。


「そして、個人書簡についてですが」


そこからだ、とリディアは思った。


「封緘保持と定期的往復。このお考えそのものは理解できます。殿下が王家のご息女であり、婚姻後もお心を通わせる必要がおありなのは当然でしょう」


その前置きの丁寧さに、むしろ気分が冷える。


「ただ、私的書簡をここまで独立させますと、家の内側のことが常に外へ流れ得る形になります。これは、我が家に対する不信の現れとも受け取られかねません」


「不信ではありません」


ヘレナが静かに言った。


レオポルト卿はすぐに言い返さず、王女へ視線を向ける。


「では、どのようなお考えでしょう」


「私が私の言葉で書いたものが、私のものとして届くことを望んでおります」


ヘレナの声は落ち着いていた。


「それは、家の内側を暴くためではありません。私が向こうで何を見て、何を困っているのかを、自分の言葉で伝えられるためです」


レオポルト卿の表情は崩れない。

けれどその目に、ごくわずかな硬さが差した。


「殿下。婚姻後のご生活は、当然ながら我が家の内側に属します。そこで交わされる言葉が、常に外と直接結びつくとなれば、家の信は育ちにくい」


「信は」


ヘレナは文案の上へ手を置いた。


「私の言葉が途中で選ばれる形でも、育つものでしょうか」


一拍の沈黙。


レオポルト卿は、すぐには返さなかった。動揺したわけではない。ただ、この王女が想像していたよりずっと静かに、ずっとまっすぐに問い返してくると知ったのだろう。


「選ばれる、という表現は少々」


「適切だと思っております」


ヘレナは言った。


「例外が広ければ、都合のよいものだけが外へ出る形になります。私はそれを避けたいのです」


次に補助者の項へ話が移る。


「医師と文書補佐を継続的に配置し、その補充にまで王家側の承認を置く。これもまた、我が家の中へ王家の手を残し続ける形に見えます」


「帰還と連絡のためです」


今度はセオドアが答えた。


「殿下が婚姻後も適切に連絡を取り、必要なときに協議を起こせるようにする最低限の体制です」


レオポルト卿は彼を見た。


「法務局としては、これを最低限とお考えですか」


「はい」


「我が家から見れば、婚姻の内側へ外の監督を常置するように見えますが」


「監督ではありません。孤立防止です」


セオドアの返答は平板だった。


だが、その言葉で部屋の温度が少しだけ下がった気がした。


孤立防止。

それはあまりに正確で、あまりに露骨だった。


レオポルト卿は一度だけ目を伏せ、それからゆっくり言った。


「率直に申しましょう。これは、殿下をお迎えする側の信を、十分に見ておられません」


次席官がわずかに身じろぐ。

記録管理官も沈黙したままだった。


レオポルト卿は礼を失わぬ声音で続ける。


「帰還の起点を殿下ご自身に置き、私的書簡を独立させ、帯同補助者を継続的に残す。そこまでなされば、殿下は婚姻後も半ば王家の内側におられるに等しい。恐縮ながら、それでは我が家としてお迎えする意味が揺らぎます」


その言葉は整っていた。非礼もない。けれど中身は明白だった。


向こうが欲しいのは、婚姻後も外とつながるヘレナではない。向こうの家の内側へ、完全に組み込まれるヘレナだ。


リディアはそれを、はっきりと感じた。


条件を嫌がっているのではない。条件があると、好きなように閉じられないから嫌なのだ。


ヘレナはしばらく黙っていた。

やがて、静かに口を開いた。


「つまり」


その声は低く、落ち着いていた。


「私が婚姻後も外へ向けて声を持つ形では、そちらは受け入れ難いのですね」


誰もすぐには答えなかった。


レオポルト卿はやがて、礼を取るように少しだけ頭を下げる。


「そこまで直截には申し上げたくありませんが、結果としては近いのかもしれません」


それで十分だった。


部屋の中の誰もが、いま何を聞かされたのかを理解したはずだ。

条件が多すぎるのではない。

その条件が残す外への回路が、受け入れ難いのだ。


応接室の花は静かに飾られたままで、茶もまだぬるくなりきっていない。けれどここで必要だったのは、礼でも柔らかさでもなかった。


必要だったのは、どこを拒んでいるのかを相手の口から聞くことだった。


そして今、それは十分に果たされた。

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