5、守る側へ
次の文案が整ったのは、三日後の午後だった。
場所は王宮の小会議室ではなく、ヘレナの居室に近い控えの間だった。表向きには私的な確認の時間として扱われているらしい。侍女が茶器を置いて下がり、扉が閉まると、部屋にはヘレナとリディア、それにセオドアだけが残った。
机の上には、引き直された文案が一部ずつ置かれている。
帰還請求の起点。
個人書簡の独立。
帰還および連絡体制を支える補助者の継続的配置。
最初の草案に比べれば、いくつかの言葉は丸くなっている。だが、丸くしただけで中身まで空け渡したわけではない。そのことは、紙を開けばすぐにわかった。
ヘレナは一枚目から順に目を通し、やがて静かに言った。
「……これなら、何を残したのかが見えます」
セオドアが短く頷く。
「そこが大事です」
王女は帰還請求の項へ指を置いた。
「ここは、私の請求が起点のままですね」
「はい。王家側の確認は入りますが、請求そのものを選び直す形にはしていません」
「書簡は」
ヘレナは次の頁を開いた。
封緘の保持。
定期的な往復。
例外は限定。
照会と共同確認。
前よりは、ずっとよかった。
まだ十分だと言い切るには慎重であるべきだろう。けれど少なくとも、最初から向こうの裁量に戻される形ではない。
「ここも、意味は残っていますね」
リディアはその言葉に、小さく息をついた。
王女はもう、文案を読まされているのではない。どこが残り、どこが削られたのかを、自分で見ている。
「補助者の項も」
ヘレナが三枚目へ視線を移す。
「人数ではなく、必要な役目として置かれている」
「ええ」
セオドアが答える。
「そこは実務必要として通したほうが強いと判断しました」
「それでよいと思います」
王女は頷き、紙を重ねた。
ひととおり読み終えたあとも、すぐには顔を上げなかった。机の上へ視線を落としたまま、しばらく黙っている。
やがて、静かに言った。
「私は、今まで」
その声に、リディアもセオドアも何も挟まなかった。
「守られているのだと思っておりました」
王女は帰還請求の項へ触れる。
「王女なのですから、周囲が必要なことを考え、整えてくれるのは当然だと。婚姻の話も、私を気遣いながら進められているのだと」
そこで少しだけ間を置き、今度は書簡の頁へ指を移した。
「けれど実際には、私が何を恐れているのかを、私が言わなければ残らぬことのほうが多いのですね」
責める口調ではなかった。
ただ、ようやく見えたものをそのまま受け止めている声だった。
リディアは静かに答える。
「そういうことは、あります」
「ええ」
ヘレナは小さく頷いた。
「気づいてしまえば、もう同じには戻れませんね」
それは諦めではなかった。
むしろ、戻らないと自分で決めた人の言い方だった。
セオドアが文案を閉じる。
「戻る必要もありません」
王女は彼を見た。
「必要がない、と」
「はい。ここでまた周囲の整え方へ預け直せば、次からはもっと簡単に削られます」
容赦のない言い方だった。だがヘレナは不快そうにはしなかった。
「……なるほど」
それだけ言ってから、王女はリディアへ視線を向けた。
「エーヴェル令嬢。私は、これからも何度も怖いと思うのでしょうね」
書庫で交わした、最初の問いを思い出す。
怖いと申し上げるのは、幼いことでしょうか。
あのときより、今の声はずっと落ち着いていた。怖さが消えたのではない。怖さと一緒に立つ術を覚え始めているのだ。
「ええ」
リディアは答えた。
「でしょうね」
「それでも、言うべきなのでしょうか」
「言わねば残らないことなら、はい」
ヘレナはその返事を聞き、わずかに目を細めた。
「前なら、もっとやさしい答えを望んだと思います」
「今は」
「今は、そのほうが落ち着きます」
王女はそう言って、もう一度文案へ目を落とした。
「帰還の起点があること」
「私の言葉が、途中で別のものにされないこと」
「それを支える者が側にいること」
ひとつずつ、確かめるように口にする。
それから、文案を閉じて言った。
「これが、私の守る順ですね」
「はい」
リディアは頷いた。
「そこさえ見失わなければ、次の場で言葉が多少動いても、中身は残しやすくなります」
「次は、もう王家の内側だけの話ではないのですね」
「ええ」
セオドアが答える。
「ここから先は、相手方がどこを嫌がるかを見る段階です」
ヘレナは苦くもなく、ただ静かに息を吐いた。
「そうでしょうね」
それでも、前のような曖昧な不安の色は薄かった。
何が来るかを、もう知らないままではいない顔だった。
セオドアが別紙を差し出す。
「次の場で、殿下にお話しいただきたい要点を整理しました」
そこには三行だけ書かれていた。
帰還請求は殿下本人の意思を起点とすること。
書簡は殿下自身の言葉として扱われるべきこと。
補助者は婚姻後も帰還および連絡体制を支える実務必要であること。
ヘレナはそれを読み、二行目で指を止めた。
「ここだけ」
「はい」
「少しだけ、変えてもよろしいでしょうか」
リディアとセオドアが同時に顔を上げる。
王女は別紙を見たまま、言葉を選ぶように続けた。
「私は、書簡が殿下自身の言葉として扱われるべきだ、と言うつもりでした。けれど、今はもう少し違う気がいたします」
「どう違うのですか」
リディアが問う。
「扱われるべき、では弱いのです」
ヘレナは顔を上げた。
「私が守りたいのは、立派な原則ではありません。私が私の言葉で書いたものが、私のものとして届くことです」
部屋の空気が、そこで少し変わった。
リディアは胸の奥で小さく息をつく。
その言い換えは、ずっとよかった。正しさとしてではなく、必要として届く言葉だった。
「では、そのまま置きましょう」
リディアは言った。
「殿下が私の言葉で書いたものは、殿下のものとして届くべきこと。そう直せば、趣旨もぶれません」
セオドアも頷く。
「そのほうが強い」
ヘレナは別紙へ目を落とし、静かに言った。
「お願いいたします」
セオドアがその場で文言を書き直し、机の中央へ置く。
ヘレナはそれを読み、今度ははっきり頷いた。
「ええ。これがよいです」
それから王女は、二人を順に見て、少しだけ笑みを含んだ声で言った。
「ここまで来れば、もう私は、守られるのを待つだけの側ではいられませんね」
自嘲ではない。
ようやく自分で認めるような、静かな笑みだった。
「はい」
リディアは答える。
「そのほうが残ります」
ヘレナは立ち上がった。
文案を自分の手で揃え、端を整え、それからふと、机の上に残る紙へもう一度視線を落とした。
「次は」
声は落ち着いていた。
「削られたものを戻すのではないのですね」
「はい」
セオドアが答える。
「落とさせぬための話になります」
ヘレナはその一言を反芻するように目を伏せたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「では次は、削られたものを戻すのではなく、落とさせぬようにいたしましょう」
その声音は静かだった。
けれど、書庫で初めて会ったあの日の王女とは、もうまったく違っていた。
誰かに守られるのを待つ声ではない。
自分で守ると決めた人の声だった。




