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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第5章 守られるだけではいられない

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4、王女の拒否

次の会議は、その翌日の午後に開かれた。


場所はこれまでと同じ、小会議室だった。けれど机の上に並ぶ紙の数は、前より少なかった。争点が絞られたからだ。帰還請求の起点。書簡の独立。帯同補助者の扱い。そのほかの文言は、もう大きくは動かない。


動くなら、ここだ。


ヘレナは席に着くと、最初に書簡の項へ目を落とした。そこに、いちばん深く息を詰まらせるものがあると、もう知っている顔だった。


次席官が文案を開く。


「前回までの整理を受け、三点について再度まとめました」


記録管理官が、その脇へ新しい対案を置いた。


帰還請求の起点については、殿下本人の請求を基礎としつつ、協議開始に先立ち王家側へ口頭確認を置く。

帯同補助者については、帰還及び連絡体制の維持に必要な補助者を継続的に配置し、補充には王家側の承認を要する。

そして書簡については――。


記録管理官が指先でその箇所を押さえる。


「殿下個人の書簡は、王家指定の経路による定期的往復を認める。ただし、その内容が宮中の規律、家門の名誉、または両家の関係に不利益を及ぼすと判断される場合、先方は一時留保のうえ王家側へ照会することができる」


読み上げられた瞬間、リディアは目を細めた。


前の案より悪い。

少なくとも、書簡についてはそうだった。


宮中の規律。

家門の名誉。

両家の関係への不利益。


どれも広すぎる。解釈はいくらでも広げられる。そして「一時留保」は、ほとんど「止め置く」と変わらない。


記録管理官は、穏やかな顔のまま言う。


「完全な選別の自由を認める趣旨ではありません。照会義務を置くことで、向こう側の独断を防ぐ形です」


セオドアは何も言わない。

リディアもまた、すぐには口を開かなかった。


先に言うべきは、今日はヘレナだ。


王女はしばらく文案を見つめていた。

視線は落ち着いている。けれど指先だけが、ごくわずかに紙の端を押していた。


やがて、静かに問う。


「家門の名誉、とは何を指しますか」


記録管理官が答える。


「婚姻後の家には、その家の秩序がございます。外へ出る文言が、その秩序を損ねると判断される場合もありましょう」


「両家の関係に不利益、とは」


次席官が引き取る。


「外交上の配慮です。婚姻は私的な結びつきであると同時に、両家の関係を保つ場でもありますので」


ヘレナは頷きもしなかった。

ただ、もう一度文案へ目を落とす。


「つまり」


その声は静かだった。


「私の言葉が、不都合だと見なされれば止められる、ということですね」


「そのように極端には」


次席官がやわらかく制しにかかる。


「殿下、これは制限ではなく、調整のための手続きです。すべてを無制限に通す形では、どうしても先方の不安が」


「私の不安ではなく」


ヘレナが顔を上げた。


「先方の不安、なのですね」


その一言で、部屋が静まった。


記録管理官はすぐには返さない。

次席官もまた、言葉を選ぶ間を置いた。


ヘレナは続けた。


「私はこれまで、私の言葉が途中で選ばれずに届くことを求めてきました。封緘の保持も、定期の往復も、そのためです」


王女の視線は文案の上を離れない。


「けれど今ここに置かれているのは、言い方を変えただけで、結局は向こうが止められる形です」


「殿下」


次席官が低く呼ぶ。


「婚姻後の家には、家の中で収めるべきこともございます。そこを無視してすべてを個人の発信として外へ出す形は、現実には」


「無視しておりません」


ヘレナの返答は、前回までよりはっきりしていた。


「私は、向こうの家に規律があることを理解しております。婚姻が家と家の結びつきでもあることも理解しております。けれど」


そこまで言って、王女は文案の上へ手を置いた。


「理解していることと、私の言葉を止められてよいことは、同じではありません」


リディアはその横顔を見た。


書庫で出会ったとき、ヘレナは恐れを言葉にすること自体にためらっていた。今は違う。恐れを知った上で、どこが受け入れられないかを言える。


記録管理官が、今度は少し硬い声で言った。


「では殿下は、婚姻後もすべての私的書簡が無条件に外へ出る形でなければならぬと」


「そのようには申しておりません」


ヘレナは視線を逸らさない。


「私は例外を否定していません。けれど、その例外が“家門の名誉”や“不利益”のように広く取れる言葉であっては困るのです」


次席官が言う。


「どこまで狭めればご納得になるのです」


「宮中の安全、もしくは明白な法規違反」


ヘレナは即答した。


「そこまでは前案でも受け入れております。それ以上を広げるなら、結局は何でも止められることになります」


次席官がわずかに息を吐く。


「殿下。そこまで先方を縛れば」


「縛るのではありません」


その声は、今度は少しだけ低かった。


「私の言葉を、最初から向こうの都合で選ばせたくないのです」


その一言に、これまで黙っていたセオドアがゆっくりと顔を上げた。

だがまだ何も言わない。

ここで前へ出るべきでないと、やはり思っているのだろう。


代わりに、次席官が話を帰還請求へ移した。


「では、こちらはどうでしょう」


彼は帰還の項を示す。


「殿下本人の請求を起点とする形は残しております。ただ、王家側への口頭確認を先に置く。これなら、殿下のご意思も守りつつ、先方に対しても穏当です」


ヘレナはそこへも目をやった。


「口頭確認、とは」


「請求を受けた王家側が、その真意を確認する手続きです」


「書面ではなく」


「はい。あくまで前段階ですので」


ヘレナはしばらく考え、それから静かに言った。


「それは構いません」


次席官の表情がわずかに緩む。


だが、王女はそのまま続けた。


「ただし、口頭確認は、請求そのものの可否を選ぶためのものではありませんね」


「……確認です」


「でしたら、その旨を明記してください。王家側が請求の当否をあらためて判断する形には同意できません」


今度は、次席官のほうが一瞬だけ沈黙した。


帰還は起点を残す。

書簡は例外を狭く限定する。

帯同補助者は実務必要として残す。

ヘレナの中で、もう線ができていることが見て取れる。


リディアは心の中で小さく息をつく。

ここまで来れば、もう大丈夫だと思えた。

王女は今、自分で守っている。


記録管理官が、最後に帯同補助者の項へ触れる。


「ではこちらは、実務必要としてこのまま」


「はい」


ヘレナは頷いた。


「そこは、その形で結構です」


ここでは退ける。

だが退いているのではない。守る順を知っているからこそ、言葉の立て方を変えている。


次席官がようやく全体の紙を閉じた。


「……承知しました。整理いたしますと、帯同補助者はこのまま。帰還請求は、口頭確認が請求の可否を選ぶものではないと明記する。書簡については、例外を宮中の安全と明白な法規違反へ限定する」


ヘレナは頷いた。


「はい」


「それでも、書簡の項は先方が最も強く反発するでしょう」


「でしょうね」


王女の声は静かだった。


「ですが、そこは落とせません」


その一言は、ひどくまっすぐだった。


誰も口を挟まない。


ヘレナは文案の上へ手を置いたまま、続ける。


「帰ることができることも、そばに必要な者を置けることも、もちろん大切です。けれど、言葉が届かなければ、その二つも遅れます。私は、私の言葉が途中で別のものにされる形には同意できません」


リディアの指先が、机の下でわずかに力を帯びた。

代わりに言いたくなる衝動が、今回はなかった。必要がないからだ。


ヘレナは向かいの二人を見た。


「それは、私の条件です」


部屋の空気が、そこで止まったように感じられた。


大きな声ではない。

けれど今まででいちばん強かった。


次席官は返答までに少し時間を要した。

やがて、静かに頭を下げる。


「……承知しました」


記録管理官も続けて言う。


「では、その前提で文面を引き直します」


それで会議は終わった。


退出のために椅子が引かれ、紙が重ねられ、扉が開いて閉まる。

いつものように、最後に部屋へ残ったのは三人だけだった。


ヘレナはすぐには背もたれへ身を預けなかった。

まだ自分の言葉が部屋の中に残っていることを確かめるように、しばらく机を見ていた。


やがて、ゆっくりと息を吐く。


「……言ってしまいました」


その響きに、かすかな疲れと、それでも退かぬ静けさが混じっている。


「はい」


リディアは答えた。


「よくおっしゃいました」


ヘレナは少しだけ苦く笑った。


「褒められる歳ではないのですが」


「歳の問題ではありません」


セオドアが低く言う。


「必要な場で、必要な線を引かれたというだけです」


王女はその言葉を受け止め、今度こそほんの少しだけ背を預けた。


「ですが、ようやく」


視線を紙へ落としたまま、続ける。


「ようやく、自分が守られるのを待つだけでは足りないのだと、はっきりわかった気がいたします」


リディアは黙って頷いた。


たぶん、それがいま彼女たちの前にある答えだった。

誰かが気づいてくれるのを待つだけでは、最後の一線は残らない。代わりに言ってもらうだけでは、結局どこかで別のものにされる。


王女は、自分で守る側へ移った。


セオドアが書面を革挟みに収めながら言う。


「次で、相手へ持ち込む形が見えます」


「ええ」


ヘレナも頷く。


「ここまで来たなら、もう曖昧には戻せませんね」


「戻すつもりはありません」


リディアがそう言うと、王女は小さく目を細めた。


「あなたは、そこだけはいつも迷いませんね」


その言い方に、少しだけ可笑しさが混じる。


リディアは返そうとして、ふと隣の気配に気づいた。

セオドアが、こちらを見ていた。


ほんの一瞬、目が合う。

彼は何も言わなかったが、そのまま視線を外す前に、ごく低く言う。


「今日はここまでで十分です」


声はいつものように事務的だった。

だが、その“十分”が、文案の進み具合だけではないとわかる。


リディアは少しだけ間を置いて答えた。


「……そうですね」


ヘレナが立ち上がり、二人を見た。


「次は、もう少し強い風になるのでしょう」


「はい」


セオドアが答える。


「ですが、今日よりは迷わずに済みます」


王女は頷いた。


「それなら結構です」


そう言って退出する背中は、書庫で出会ったころよりずっと静かで、ずっと強かった。


扉が閉まり、部屋にはまた二人だけが残る。


リディアは紙をまとめながら、ぽつりと言った。


「思っていた以上に、早かったですね」


「何がですか」


「殿下が、あそこまでご自分で言われるようになるのが」


セオドアは革挟みを閉じる手を止めずに答える。


「早くありません。必要なだけです」


その一言が、妙にしっくり来た。


必要だから、そうなった。

誰かの成長を美しく飾るのではなく、必要に押されて変わったのだという言い方が、この物語にはよく合っている気がした。


リディアは最後の紙を揃えて立ち上がる。


次は、もっと強い風が来る。

けれど少なくとも今は、ヘレナがその風の前に自分の足で立てると知っている。


それだけで、次の景色は少し違って見えた。


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