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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第5章 守られるだけではいられない

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3、落とせない三つ

次の打ち合わせは、王宮ではなく法務局の保管室で行われた。


本格的な会議の前に、まずこちらで文面と順番を整理したいとセオドアが言ったのだ。王宮の会議室より狭く、窓も小さい。壁際の棚には帳簿や写しがぎっしりと収められ、乾いた紙の匂いが満ちている。人に聞かせる言葉を整える場所というより、後で言い逃れのできぬ形へ押し固める場所に近かった。


ヘレナはいつもより簡素な装いで、長机の端に座っていた。


王女として人前へ出るときの張った顔ではない。けれど気を抜いているわけでもない。その中間の、今の彼女にいちばん似合う静けさだった。


机の上には、第一案と修正案、それに前回の会議で書き込まれた注記が並んでいる。


帰還請求。

書簡。

帯同補助者。


どの紙を見ても、この三つだけは消えずに残っていた。むしろ他の箇所が少しずつ整っていくぶん、この三つの輪郭だけが濃くなる。


セオドアが対案の束を揃え、簡潔に言った。


「今日は、残す順を決めます」


ヘレナが顔を上げる。


「順、ですか」


「はい。全部を同じ強さで守れるとは限りません」


彼はそう言って、三つの語を指で順に示した。


「どれも重要です。ただ、同じ場で同じ熱で押し返せば、かえって全部が薄まる」


リディアはその言葉に頷いた。


前回の会議で、ようやく見えてきたことでもある。反対する側は、一度にすべてを奪いには来ない。きれいな言い換えで少しずつ削ってくる。だからこちらも、何を先に守るかを持たなければならない。


ヘレナはしばらく紙を見つめていた。


「帰還、書簡、帯同」


自分に言い聞かせるように、王女は小さく繰り返す。


「前にも、順をお聞きしましたね」


リディアが言うと、ヘレナは頷いた。


「ええ。あのとき私は、帰還、書簡、帯同の順だと申し上げました」


「今も同じですか」


王女はすぐには答えなかった。


視線を帰還請求の項へ置き、それから書簡の頁へ移し、最後に帯同補助者の箇所で止める。その順に、前より迷いが少ないように見えた。


「同じです」


やがて、静かに言う。


「ただ、前より少しだけ、理由がはっきりいたしました」


「うかがっても」


ヘレナは帰還請求の項へ手を置いた。


「帰ることができるかどうかは、最後の線です。書簡も帯同者も大切ですが、戻る道がなければ、結局は向こうの家の中だけで息をすることになる」


その声音に、先日の会議で交わされた言葉の痕跡があった。

曖昧な気持ちではなく、守りの構造として語ろうとしている。


「書簡は、その次です」


ヘレナは続けた。


「帰ることができると決まっていても、言葉が届かなければ、その道は使えません。戻りたいと伝えることも、どこで何が起きているか知らせることもできなくなりますから」


そこまで言って、王女は少しだけ目を伏せた。


「帯同者は、帰還と書簡を支えるために必要です。侍女の数そのものより、文書を扱える者と、体調や状態を見て外へ伝えられる者が側にいることのほうが、私には大きい」


セオドアが短く言う。


「筋が通っています」


「そうでしょうか」


「はい。少なくとも、先に侍女の数から話すより、ずっと」


その返しに、ヘレナの口元がごくわずかに和らいだ。

笑うほどではない。けれど、いま自分が考えていることが、理にかなわぬ我儘ではないと確認した人の顔だった。


リディアは紙の余白へ、短く書きつける。


第一 帰還の起点

第二 書簡の独立

第三 補助者の継続


その三行を見ながら、ふと思う。

書庫で向かい合ったあのとき、ヘレナはまだ「怖い」と口にしてよいのか確かめていた。今はもう違う。怖さの形だけでなく、何を先に守るべきかまで、自分で言える。


「帯同者の見せ方は、昨日の整理でよいと思います」


リディアは筆を置いた。


「『帰還及び連絡体制の維持に必要な補助者』。これなら、数の話ではなく機能の話として残せます」


ヘレナは頷いた。


「ええ。そこは、前より納得しております」


「問題は書簡ですね」


セオドアが対案の二頁目を開く。


そこには、前回の修正で残された文言がある。


封緘の保持。王家指定便による往復。例外は宮中の安全又は明白な法規違反に限る。共同確認を要する。


前よりはましだ。だが、まだ心許ない。


「頻度を向こうとの協議に委ねるという一文は、やはり削りたい」


リディアが言う。


「ええ」


セオドアも頷いた。


「頻度に上限を作れば、あとは“十分に送っている”と主張されるだけです」


ヘレナは対案を見ながら、小さく問う。


「では、何と置き換えるのがよいのでしょう」


「定期、です」


セオドアが答える。


「頻度そのものを細かく切るより、一定間隔で定期に、という言葉のほうが残しやすい。数字は交渉で削られますが、『定期』の概念を残せば、完全に任意には戻りません」


リディアはそれを受けて言葉を継ぐ。


「加えて、定期便のほかに、急を要する連絡は別経路を使える余地も残したいですね。病や重大な待遇変更があったとき、次の定期便まで待つ形では意味が薄いので」


ヘレナは二人のやり取りを黙って聞いていたが、やがて対案の端を指で押さえた。


「……私」


その声に、二人とも顔を上げる。


「前は、書簡が大切だとは思っておりました。でもそれは、寂しいからとか、実家と繋がっていたいから、という気持ちに近かったのだと思います」


リディアは何も挟まない。

ヘレナが続けるのを待つ。


「けれど今は、もう少し違う形で必要なのだとわかります。手紙は慰めのためだけではありません。私が何を見て、何を困っているのかを、自分の言葉で外へ出せることそのものが必要なのですね」


その一言に、リディアははっきりと手応えを感じた。


構造が、自分のものになり始めている。

誰かに説明されて理解したのではなく、自分の生活の中で必要な線として掴み始めている。


「そのとおりです」


リディアは言った。


「寂しさを埋めるためだけなら、ここまで強くは求めません」


ヘレナは頷いた。


「ですから、そこは落としたくありません」


部屋の空気が、少しだけ引き締まる。


落としたくありません。

その言葉には、前のような確認の響きがもうない。選んだ上で言っている声だった。


セオドアが低く言う。


「では、次回の場では、帰還請求と書簡は殿下ご自身が前へ出る。帯同補助者はこちらで実務必要として押します」


「はい」


ヘレナは迷わず答えた。


「帯同者のことを、私が退いてもよいという意味ではありません。ただ、あれは私の感情というより、実務上の必要として立てたほうが伝わるのでしょう」


「そのほうが通りやすいです」


「書簡は違う」


「はい」


その短いやり取りだけで、もう十分だった。


誰が何を言うか。

どこを誰の言葉で立てるか。

それが見えたことで、次の会議の形も見えてくる。


リディアは草案の上へ手を置きながら、ふと気づく。

いま自分は、ヘレナの代わりに考えているのではなく、ヘレナが選んだ順を言葉へ整える側に回っている。位置が変わったのだ。少しずつだが、確かに。


「エーヴェル令嬢」


ヘレナの呼びかけに顔を上げる。


「はい」


「先日の会議で、あなたは『削ろうとしているのは殿下の声です』とおっしゃいましたね」


「……はい」


「そのとき、ようやくよくわかったのです。書簡を軽く扱われるのが、なぜあれほど苦しいのか」


王女は草案へ目を落とした。


「私は、ただ手紙を好んでいるのではないのですね」


リディアはわずかに目を細めた。


「ええ」


「言葉を失いたくないのだと思います」


その一文は、書簡の項の意味を一段深くした。

帰還の道を求めること。言葉を失わないこと。側の者を奪われないこと。それらはすべて、婚姻のあとも自分であり続けるための守りなのだ。


沈黙のあと、セオドアが机上の別紙を整えた。


「では、次回の争点は明確です」


彼は余白へ、短く三行を書いた。


帰還の起点は本人

書簡は定期かつ独立

帯同補助者は実務必要


「この順で押します」


ヘレナはそれを見て、静かに頷いた。


「はい」


保管室の外では、遠くで誰かの足音がした。

法務局の建物は、王宮よりずっと無機質だ。ここには社交界の飾りも、王家の柔らかな言い回しもない。そのかわり、残る言葉と消える言葉の差だけが、はっきり見える。


その乾いた空気の中で、リディアは不意に自分の指先が少し冷えているのに気づいた。


ずっと張っていたのかもしれない。

ヘレナが本当に、自分でこの三つを選び取れるところまで来るのか。口では大丈夫だと言っていても、どこかでまだ測っていたのだろう。


「今日はここまでで結構です」


セオドアが書面を重ねながら言った。


「次の場で、これ以上詰めても仕方がない」


リディアは頷こうとして、ほんのわずかに反応が遅れた。


その瞬間、セオドアの視線が一度こちらへ向く。


「聞こえておられましたか」


「聞こえております」


「そうは見えませんでした」


いつものように、言い方は素っ気ない。

だがそこに軽い咎めはなく、ただ疲れを見逃さない種類の正確さだけがある。


ヘレナが少しだけ口元を和らげた。


「お二人とも、ここ数日は休まれていないのではありませんか」


「殿下ほどでは」


リディアがそう返すと、王女は首を振った。


「私には、今はまだ待ってくださる時間があります。でも、お二人は、待たぬうちに紙を整えてしまわれるでしょう」


セオドアが答える。


「必要ですので」


「そういうところが、少し似ておられますね」


それだけ言って、ヘレナは立ち上がった。


似ている、と言われて、リディアは返事をしなかった。

否定するほどでもない。肯定するのも気恥ずかしい。ただ、少なくとも今は、同じものを見ている感覚がある。


ヘレナが退出し、保管室に二人だけが残る。


リディアは机上の紙をまとめながら、何気ないふうを装って言った。


「今日は少し、殿下が違って見えました」


「ええ」


セオドアは即座に応じた。


「もう、説明を受ける側ではありません」


「選ぶ側へ移りましたね」


「はい」


それだけの会話なのに、妙に静かに胸へ残る。


リディアは最後の一枚を重ね、端を揃えた。


帰還。

書簡。

帯同。


どれも簡単ではない。

だが、もう何を守るべきかは見えた。


「次は」


彼女が言いかけると、セオドアが先に続けた。


「殿下ご自身の言葉で押す場になります」


「ええ」


「ですから、あなたは代わりに前へ出すぎないことです」


リディアは思わず顔を上げた。


「ずいぶん先回りをなさるのですね」


「前科がありますので」


その返答に、わずかに目を見開く。


「前科ですか」


「殿下の代わりに、あなたが言ってしまいそうになることです」


そこまで言われると、否定しきれなかった。

たしかに、今日も何度か喉元まで来ていた。ヘレナが言葉を探す一拍のあいだに、こちらが先に出てしまいたくなる瞬間はあった。


「……気をつけます」


「ええ。お願いします」


その言い方が、命令でも冗談でもなく、ただ本当に必要だから言っている声で、少しだけ可笑しい。


リディアは小さく息をついた。


「あなたは本当に」


「何でしょう」


「よく見ておられますね」


セオドアは書面を革挟みに収める手を止めずに答えた。


「見ていなければ、手遅れになります」


その一言は仕事の話のようでいて、どこかそれだけではない響きがあった。


けれど今は、そこへ踏み込まないほうがいい。

次に必要なのは、まだ紙の上の戦いなのだから。


リディアは視線を外し、閉じられた革挟みを見た。


次は、王宮の会議室だ。

そして今度こそ、ヘレナが自分で線を引く場になる。

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