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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第5章 守られるだけではいられない

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2、代わりに言わせない

殿下の声です。


リディアのその一言のあと、部屋はしばらく静まり返っていた。


次席官はすぐには返さなかった。記録管理官もまた、机上の対案から目を上げたまま動かない。セオドアだけが、わずかに視線を伏せていた。止める必要がないと判断したときの顔だった。


やがて次席官が、小さく息をついた。


「……強い言い方ですな」


「事実です」


リディアは答えた。


「帰還請求の起点を殿下ご本人から外すことも、個人書簡の頻度を向こうとの協議に預けることも、帯同補助者を“実情に応じて”へ戻すことも、どれも最終的には殿下ご本人の声を弱めます」


「弱める意図があるわけではありません」


記録管理官が言った。


「先方との均衡を取りたいだけです」


「均衡の名で、片側だけが先に薄くなることはよくあります」


言い切ると、記録管理官は口を閉じた。

責められたというより、そこまで正面から置かれるとは思っていなかったのだろう。


次席官が話を引き取る。


「では、エーヴェル令嬢。あなたのお考えでは、この三つはどこまで動かせるのです」


問われたのは、反論ではなく整理だった。


リディアは対案へ視線を落としたまま答える。


「帯同補助者は、見せ方を工夫できます。常置という語が強いなら、帰還と書簡の実効を支える配置と書き換えればよい」


次席官がゆるやかに頷く。


「ほかは」


「帰還請求の起点と、書簡の独立性は落とせません」


「そこがもっとも難しいと申し上げているのですが」


「でしょうね」


リディアは顔を上げた。


「難しいからといって、そこを先に崩せば、残るのは整った文面だけです」


次席官は、その答えを正面からは否定しなかった。

否定できないのだろう。紙の上に残るものが何かくらい、彼にも見えている。


ただ、見えていることと、そのまま通すことは別だ。


「殿下」


次席官は、今度はヘレナへ向き直った。


「お考えは理解いたしました。ですが、このままでは、どうしても“殿下のお気持ち”が前へ出すぎます」


その言葉を聞いた瞬間、リディアはわずかに眉を寄せた。


お気持ち。

そう呼び替えた時点で、もう少しだけ話の重心がずれている。


次席官は続ける。


「もちろん、ご不安があること自体を軽んじているのではありません。ただ、草案として上げる以上は、個人のご心情ではなく、王家として必要な線として整え直す必要がある」


「つまり」


ヘレナが静かに問う。


「私の言葉では弱いとおっしゃるのですね」


次席官は、一瞬だけ言葉を選んだ。


「弱い、というより、そのままでは私的に映りやすい」


その返答に、ヘレナはしばらく何も言わなかった。


机上の対案へ視線を落としたまま、指先だけがごく小さく動く。怒っているようには見えない。むしろ、何かをはっきり測っているように見えた。


記録管理官が、やわらかな声で口を挟む。


「殿下が直接そこまでおっしゃらずとも、こちらで文面として整えます。たとえば書簡の件も、“殿下はご実家との安定した連絡をお望みである”といった形で」


「そのことは」


ヘレナが顔を上げた。


声は静かだったが、記録管理官はそこで続けるのをやめた。


「そのことは、私が申し上げます」


部屋の空気が変わる。


次席官も、記録管理官も、すぐには返さなかった。

予想外というほどではないにせよ、今ここでその線を引かれるとは思っていなかったのだろう。


ヘレナは視線を逸らさない。


「私が何を望んでいるかを、穏やかに言い換えていただけるのはありがたいこともあります。けれど、それで意味が変わるなら困ります」


記録管理官が、ようやく口を開く。


「意味を変えるつもりでは」


「変わります」


今度のヘレナの返答は早かった。


「“実家との安定した連絡を望む”では、足りません。私は、私の言葉が途中で選ばれずに届くことを望んでいます」


その一文で、机上にある書簡の項が、ただの連絡手段ではなくなった。


リディアはわずかに息をつく。

もう、王女の言葉をこちらが翻訳しなくてもよい。少なくとも今のこの場では、ヘレナは自分で中身まで言えている。


次席官は、指を組み直した。


「殿下。率直に申し上げます。そこまで個人の発信を独立させる文面は、どうしても先方の警戒を呼びます」


「呼ぶでしょうね」


ヘレナは言った。


その返答があまりにあっさりしていて、今度は次席官のほうが一拍止まった。


「呼ぶとおわかりでも、なお残すと」


「はい」


「なぜです」


ヘレナは机の上の対案に手を置いた。


「公的な報告だけが届いている限り、私はいつまでも穏やかで、役目を果たしている王女として記録されるでしょう」


誰も口を挟まない。


「けれど、それは私自身の言葉とは限りません」


王女の視線はまっすぐだった。


「私は、王女としての報告を否定しているのではありません。ただ、それだけで足りるとは思っておりません。私が私の言葉で書いたものが、途中で薄められたり、止められたりしないことも必要です」


記録管理官が低く言う。


「殿下は、そこまで先方をお疑いに」


「疑っているのではありません」


ヘレナは、はっきりと遮った。


その遮り方に棘はない。

けれど、代わりに言わせないという意志だけはよくわかった。


「私は、疑っているのではなく、困る形を避けたいのです」


次席官がわずかに身を引く。


ここまで来ると、もう“ご不安が強いご様子で”という便利な言い換えは使えない。ヘレナは自分で、何が困るのかを自分の言葉で述べている。


リディアはその変化を見ながら、胸の内で少しだけ緊張をほどいた。


守る条件が要る。

そのことを、誰かに代わりに説明してもらうだけでは足りない。

やはり、最後の一線は当人が言わなければならないのだ。


次席官はしばらく考え込むように沈黙し、それから話を少しずらした。


「では、帯同者の件はどうでしょう。こちらは殿下ご自身がおっしゃるより、我々が王家実務の必要として立てたほうが通しやすい」


ヘレナはそこではすぐに拒まなかった。

対案へ目を落とし、考えてから言う。


「それは、意味が変わりませんか」


「変えぬようにいたします」


「でしたら、そこは構いません」


次席官はわずかに頷いた。


「帰還請求については」


ヘレナは次にそこへ視線を移した。


「本人の請求が起点であることだけは、私が申し上げます」


その言い方には、はっきりと順があった。


帯同者は見せ方の工夫ができる。

だが、帰還請求と書簡は違う。

そこは自分の言葉でなければ意味が薄れる。


セオドアが静かに口を開く。


「整理しましょう」


彼は机上の三箇所を、順に指で示した。


「帯同補助者は王家実務として立てられる。帰還請求の起点と書簡の独立は、殿下ご本人の意思として残す」


次席官はその整理にすぐには頷かない。

だが、完全に退けもしない。ここまで来ると、もう無視できないのだろう。何を誰の言葉で立てるか、その違い自体が争点になっている。


記録管理官が小さく言った。


「殿下は、ご自身でおっしゃることを恐れてはおられないのですね」


その問いは、皮肉ではなかった。

むしろ純粋な確認に近い。


ヘレナは一瞬だけ目を伏せた。

それから、静かに答える。


「恐れております」


リディアは思わず王女を見た。


ヘレナの顔に強がりはない。


「ですが、恐れているからといって、代わりに言っていただいてよいことばかりではないと、今は思っております」


その言葉は、派手ではない。

けれど、この場にいる誰よりも重かった。


次席官は長く息を吐いた。


「……承知しました。では次案では、少なくともその区別をはっきりさせます。帯同補助者は実務必要、帰還請求と書簡は殿下ご本人の意思に基づくものとして」


記録管理官もまた、筆を取った。


「文面はこちらで改めます」


ヘレナは頷いた。


「お願いいたします」


会議は、そこでひとまず終わった。


前回のような大きな前進があったわけではない。何かが即座に通ったわけでもない。けれど、今日の会議で変わったものはたしかにあった。


もう、ヘレナの考えを「殿下のお気持ち」とまとめて他人が代わりに整えることはできない。

少なくとも、この場では。


退出のために席を立つ音がして、次席官と記録管理官が部屋を出ていく。扉が閉まると、小会議室にはいつもの三人だけが残った。


ヘレナは草案の上へ指を置いたまま、少しだけ息を吐く。


「思っていたよりも」


「はい」


リディアが応じる。


「“穏やかに整えていただく”ことのほうが、厄介でした」


王女は小さく頷いた。


「否定されたわけではないのです。けれど、言葉の向きが少しずつ変わっていく。そのたびに、私の言いたかったことが別のものになる」


「ええ」


セオドアが低く言う。


「代弁は便利です。本人より整って聞こえますから」


ヘレナは苦く笑うでもなく、ただ静かに言った。


「けれど、整っているだけでは残らないのですね」


「残りません」


リディアは答えた。


「少なくとも、殿下が守りたい線は」


王女はしばらく黙り、それから草案の帰還請求と書簡の項を、順に指先で押さえた。


「この二つは、私が申し上げます」


その一言で、今後の進め方が決まった気がした。


誰がどこを言うか。

誰の言葉で立てるか。

それが条件の重さを変える。


セオドアが書面を整えながら言う。


「では、次は優先順位をもっとはっきりさせましょう」


ヘレナは頷く。


「ええ。落としてはならないものを、もう一度見直したいのです」


リディアはその横顔を見た。


守られるだけではいられない。

その意味が、ようやく王女自身の中で形になってきている。


次はもう、誰かにわかってもらうためだけの話ではない。

何を落とさせないかを、自分で選ぶ話になる。


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