2、代わりに言わせない
殿下の声です。
リディアのその一言のあと、部屋はしばらく静まり返っていた。
次席官はすぐには返さなかった。記録管理官もまた、机上の対案から目を上げたまま動かない。セオドアだけが、わずかに視線を伏せていた。止める必要がないと判断したときの顔だった。
やがて次席官が、小さく息をついた。
「……強い言い方ですな」
「事実です」
リディアは答えた。
「帰還請求の起点を殿下ご本人から外すことも、個人書簡の頻度を向こうとの協議に預けることも、帯同補助者を“実情に応じて”へ戻すことも、どれも最終的には殿下ご本人の声を弱めます」
「弱める意図があるわけではありません」
記録管理官が言った。
「先方との均衡を取りたいだけです」
「均衡の名で、片側だけが先に薄くなることはよくあります」
言い切ると、記録管理官は口を閉じた。
責められたというより、そこまで正面から置かれるとは思っていなかったのだろう。
次席官が話を引き取る。
「では、エーヴェル令嬢。あなたのお考えでは、この三つはどこまで動かせるのです」
問われたのは、反論ではなく整理だった。
リディアは対案へ視線を落としたまま答える。
「帯同補助者は、見せ方を工夫できます。常置という語が強いなら、帰還と書簡の実効を支える配置と書き換えればよい」
次席官がゆるやかに頷く。
「ほかは」
「帰還請求の起点と、書簡の独立性は落とせません」
「そこがもっとも難しいと申し上げているのですが」
「でしょうね」
リディアは顔を上げた。
「難しいからといって、そこを先に崩せば、残るのは整った文面だけです」
次席官は、その答えを正面からは否定しなかった。
否定できないのだろう。紙の上に残るものが何かくらい、彼にも見えている。
ただ、見えていることと、そのまま通すことは別だ。
「殿下」
次席官は、今度はヘレナへ向き直った。
「お考えは理解いたしました。ですが、このままでは、どうしても“殿下のお気持ち”が前へ出すぎます」
その言葉を聞いた瞬間、リディアはわずかに眉を寄せた。
お気持ち。
そう呼び替えた時点で、もう少しだけ話の重心がずれている。
次席官は続ける。
「もちろん、ご不安があること自体を軽んじているのではありません。ただ、草案として上げる以上は、個人のご心情ではなく、王家として必要な線として整え直す必要がある」
「つまり」
ヘレナが静かに問う。
「私の言葉では弱いとおっしゃるのですね」
次席官は、一瞬だけ言葉を選んだ。
「弱い、というより、そのままでは私的に映りやすい」
その返答に、ヘレナはしばらく何も言わなかった。
机上の対案へ視線を落としたまま、指先だけがごく小さく動く。怒っているようには見えない。むしろ、何かをはっきり測っているように見えた。
記録管理官が、やわらかな声で口を挟む。
「殿下が直接そこまでおっしゃらずとも、こちらで文面として整えます。たとえば書簡の件も、“殿下はご実家との安定した連絡をお望みである”といった形で」
「そのことは」
ヘレナが顔を上げた。
声は静かだったが、記録管理官はそこで続けるのをやめた。
「そのことは、私が申し上げます」
部屋の空気が変わる。
次席官も、記録管理官も、すぐには返さなかった。
予想外というほどではないにせよ、今ここでその線を引かれるとは思っていなかったのだろう。
ヘレナは視線を逸らさない。
「私が何を望んでいるかを、穏やかに言い換えていただけるのはありがたいこともあります。けれど、それで意味が変わるなら困ります」
記録管理官が、ようやく口を開く。
「意味を変えるつもりでは」
「変わります」
今度のヘレナの返答は早かった。
「“実家との安定した連絡を望む”では、足りません。私は、私の言葉が途中で選ばれずに届くことを望んでいます」
その一文で、机上にある書簡の項が、ただの連絡手段ではなくなった。
リディアはわずかに息をつく。
もう、王女の言葉をこちらが翻訳しなくてもよい。少なくとも今のこの場では、ヘレナは自分で中身まで言えている。
次席官は、指を組み直した。
「殿下。率直に申し上げます。そこまで個人の発信を独立させる文面は、どうしても先方の警戒を呼びます」
「呼ぶでしょうね」
ヘレナは言った。
その返答があまりにあっさりしていて、今度は次席官のほうが一拍止まった。
「呼ぶとおわかりでも、なお残すと」
「はい」
「なぜです」
ヘレナは机の上の対案に手を置いた。
「公的な報告だけが届いている限り、私はいつまでも穏やかで、役目を果たしている王女として記録されるでしょう」
誰も口を挟まない。
「けれど、それは私自身の言葉とは限りません」
王女の視線はまっすぐだった。
「私は、王女としての報告を否定しているのではありません。ただ、それだけで足りるとは思っておりません。私が私の言葉で書いたものが、途中で薄められたり、止められたりしないことも必要です」
記録管理官が低く言う。
「殿下は、そこまで先方をお疑いに」
「疑っているのではありません」
ヘレナは、はっきりと遮った。
その遮り方に棘はない。
けれど、代わりに言わせないという意志だけはよくわかった。
「私は、疑っているのではなく、困る形を避けたいのです」
次席官がわずかに身を引く。
ここまで来ると、もう“ご不安が強いご様子で”という便利な言い換えは使えない。ヘレナは自分で、何が困るのかを自分の言葉で述べている。
リディアはその変化を見ながら、胸の内で少しだけ緊張をほどいた。
守る条件が要る。
そのことを、誰かに代わりに説明してもらうだけでは足りない。
やはり、最後の一線は当人が言わなければならないのだ。
次席官はしばらく考え込むように沈黙し、それから話を少しずらした。
「では、帯同者の件はどうでしょう。こちらは殿下ご自身がおっしゃるより、我々が王家実務の必要として立てたほうが通しやすい」
ヘレナはそこではすぐに拒まなかった。
対案へ目を落とし、考えてから言う。
「それは、意味が変わりませんか」
「変えぬようにいたします」
「でしたら、そこは構いません」
次席官はわずかに頷いた。
「帰還請求については」
ヘレナは次にそこへ視線を移した。
「本人の請求が起点であることだけは、私が申し上げます」
その言い方には、はっきりと順があった。
帯同者は見せ方の工夫ができる。
だが、帰還請求と書簡は違う。
そこは自分の言葉でなければ意味が薄れる。
セオドアが静かに口を開く。
「整理しましょう」
彼は机上の三箇所を、順に指で示した。
「帯同補助者は王家実務として立てられる。帰還請求の起点と書簡の独立は、殿下ご本人の意思として残す」
次席官はその整理にすぐには頷かない。
だが、完全に退けもしない。ここまで来ると、もう無視できないのだろう。何を誰の言葉で立てるか、その違い自体が争点になっている。
記録管理官が小さく言った。
「殿下は、ご自身でおっしゃることを恐れてはおられないのですね」
その問いは、皮肉ではなかった。
むしろ純粋な確認に近い。
ヘレナは一瞬だけ目を伏せた。
それから、静かに答える。
「恐れております」
リディアは思わず王女を見た。
ヘレナの顔に強がりはない。
「ですが、恐れているからといって、代わりに言っていただいてよいことばかりではないと、今は思っております」
その言葉は、派手ではない。
けれど、この場にいる誰よりも重かった。
次席官は長く息を吐いた。
「……承知しました。では次案では、少なくともその区別をはっきりさせます。帯同補助者は実務必要、帰還請求と書簡は殿下ご本人の意思に基づくものとして」
記録管理官もまた、筆を取った。
「文面はこちらで改めます」
ヘレナは頷いた。
「お願いいたします」
会議は、そこでひとまず終わった。
前回のような大きな前進があったわけではない。何かが即座に通ったわけでもない。けれど、今日の会議で変わったものはたしかにあった。
もう、ヘレナの考えを「殿下のお気持ち」とまとめて他人が代わりに整えることはできない。
少なくとも、この場では。
退出のために席を立つ音がして、次席官と記録管理官が部屋を出ていく。扉が閉まると、小会議室にはいつもの三人だけが残った。
ヘレナは草案の上へ指を置いたまま、少しだけ息を吐く。
「思っていたよりも」
「はい」
リディアが応じる。
「“穏やかに整えていただく”ことのほうが、厄介でした」
王女は小さく頷いた。
「否定されたわけではないのです。けれど、言葉の向きが少しずつ変わっていく。そのたびに、私の言いたかったことが別のものになる」
「ええ」
セオドアが低く言う。
「代弁は便利です。本人より整って聞こえますから」
ヘレナは苦く笑うでもなく、ただ静かに言った。
「けれど、整っているだけでは残らないのですね」
「残りません」
リディアは答えた。
「少なくとも、殿下が守りたい線は」
王女はしばらく黙り、それから草案の帰還請求と書簡の項を、順に指先で押さえた。
「この二つは、私が申し上げます」
その一言で、今後の進め方が決まった気がした。
誰がどこを言うか。
誰の言葉で立てるか。
それが条件の重さを変える。
セオドアが書面を整えながら言う。
「では、次は優先順位をもっとはっきりさせましょう」
ヘレナは頷く。
「ええ。落としてはならないものを、もう一度見直したいのです」
リディアはその横顔を見た。
守られるだけではいられない。
その意味が、ようやく王女自身の中で形になってきている。
次はもう、誰かにわかってもらうためだけの話ではない。
何を落とさせないかを、自分で選ぶ話になる。




