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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第5章 守られるだけではいられない

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1、削りたいもの

第一案を上げてから二日後、王宮から戻ってきた文案は、前回よりずっと静かな顔をしていた。


表紙には大きな差し戻しの印もない。文面も乱れていない。むしろ、丁寧に整えられていると言ってよかった。だからこそ、リディアは封を切ってすぐに、これは前より厄介だと思った。


露骨に拒まれているわけではない。

だが、残したい芯にだけ、きれいに手が入っている。


机の上に広げた書面を、セオドアが隣から覗き込む。


「来ましたか」


「ええ」


リディアは一枚目を押さえたまま答えた。


「前より上品です」


「その言い方だと、悪くなったように聞こえます」


「悪くなっています」


彼はそれに反論しなかった。


文案は三つの注記に分かれていた。


帰還請求の項については、殿下本人からの請求を起点とする形は残す。ただし、協議開始の条件として「王家側の確認を経るものとする」を補う。


書簡の項については、封緘の保持と王家指定便の往復を認める。ただし、私的書簡の頻度は過度に及ばぬよう、先方との協議により定める。


帯同補助者については、医師及び文書補佐の必要性は認める。ただし、常置ではなく、婚姻後の実情に応じて調整し得るものとする。


一見すれば譲っている。

だが実際には、三つとも起点を曖昧にしている。


「頻度を協議により定める」


セオドアが書簡の一行を指で叩いた。


「これが一番露骨ですね」


「はい」


リディアは頷いた。


「認めると見せかけて、結局は向こう側に減らせる余地を渡しています」


「帰還のほうも同じです。王家側の確認を経る、と入れれば、本人請求が単独で動かなくなる」


机の上の紙は整っている。だが整っているほど、どこを削りたいのかが見やすい。


帰還を、誰かの判断へ預けること。

書簡を、量の調整という名目で痩せさせること。

帯同者を、実情に応じてという便利な文言の中へ戻すこと。


リディアは目を細めた。


「削りたいのは、結局同じですね」


セオドアはそれ以上言わず、別紙を一枚差し出した。


「今日の午後、殿下も同席されます」


「先にご覧になっているのですか」


「今朝、要点だけは」


その返答の速さに、リディアは少しだけ安堵した。ヘレナが何も知らぬままこの文案の前へ座るのではない。それだけで違う。


王宮の小会議室は、前回より空気が乾いていた。


次席官も記録管理官も、相変わらず落ち着いた顔をしている。第一案が正式な相談として受理されたことで、あからさまな軽視は消えた。けれどその代わり、削るべき場所を丁寧に選んでくるようになっていた。


ヘレナは席に着くと、最初に書簡の項を開いた。


そこを真っ先に見るあたり、もう何が争点なのかをよくわかっている。


次席官が口を開く。


「まず申し上げますと、第一案そのものを退ける意図はございません」


その前置きに、リディアは心の中で冷たく息をついた。


退けない。

だが、そのままでも通さない。

そういうときに使う言い回しだ。


「ただ、先方との折衝を現実に進めるには、文面に一定のやわらかさが要る。とくに私的書簡の頻度や、帯同補助者の常置については、相手方が最も敏感に受け取る箇所でしょう」


「敏感に、ですか」


ヘレナが静かに尋ねる。


「ええ」


記録管理官が引き取った。


「婚姻後の家の中へ、王家側の手をどこまで残すかという話になりますので。先方からすれば、私的なやり取りの頻度まで先に定められるのは、いささか窮屈に映りましょう」


「では、窮屈でなければよいのですね」


その問いに、記録管理官は一瞬だけ言葉を止めた。


ヘレナは視線を逸らさない。


「私の書簡が、婚姻後も私のものとして届くこと。それ自体を否定しておられるのではなく、その量を先に定めることを問題にしておられるのですね」


「……はい。少なくとも、現時点ではそのほうが受け入れられやすいかと」


「受け入れられやすいのは、誰にとってでしょう」


部屋が静まった。


強い言い方ではない。

けれど、よく研がれた問いだった。


次席官が穏やかに返す。


「両家にとって、です。殿下のご意思を過不足なく守りつつ、先方の面目も保つ。その均衡が必要だと申し上げております」


「面目は理解しております」


ヘレナは一度だけ頷いた。


「ですが、私の書簡が細っていくことは、面目で済むことではありません」


記録管理官が紙をめくる。


「細ると決まったわけではございません」


「決まらぬように、先に言葉を置いているのです」


その返答は、前よりずっと早かった。


リディアは王女の横顔を見た。

誰かに翻訳してもらわなくても、もう自分で言葉を返せる。昨日たしかに見えた変化が、今日も消えずに残っている。


次席官は今度は帰還請求の項へ話を移した。


「こちらについては、大枠は維持しております。ただ、王家側の確認を経ることを明記したい」


「なぜでしょう」


ヘレナが問う。


「殿下ご本人の請求だけで動くように見えれば、先方に不安を与えます。婚姻後の秩序というものもございますから」


「秩序の話にするなら」


そこで初めて、リディアが口を開いた。


次席官の視線がこちらへ向く。


「殿下ご本人の請求が起点であることは、むしろ秩序の一部であるべきです」


「どういう意味ですかな」


「帰還を願い出る権利が、当人ではなく周囲の判断に先に奪われる形のほうが、秩序として危ういと申し上げています」


次席官は表情を変えない。


「エーヴェル令嬢は、ずいぶん本人の裁量を重く見ておられる」


「軽く見た結果、後で困るのも本人ですので」


その言葉に、記録管理官が別の角度から差し込んだ。


「とはいえ、婚姻後の殿下は向こうの家の奥方でもあられる。すべてをご本人の裁量で始められる形は、先方が受け入れ難いでしょう」


「始めることと、決めることは違います」


リディアは言った。


「殿下が求めておられるのは、協議を始める起点です。即時帰還を一存で決める権能ではありません」


「その違いが、先方に通じるかどうかですな」


次席官の言葉はやわらかかった。

だがやわらかいだけに、何を争っているのかがいっそうはっきりした。


通じるかどうか。

つまり、通じないと言って削る余地を最初から残したいのだ。


会議はそのあとも続いた。


帯同補助者は、常置の語を避けて「継続的配置」へ置き換えたい。

書簡の頻度は「定期」ではなく「必要に応じて」にしたい。

帰還請求の起点は残すが、王家側確認の前置きを消したくない。


どの修正案も、全部を取り上げるほど露骨ではない。だからこそ、受け入れやすく見える。少しの譲歩に見える。だが少しずつ受け入れれば、最後に残るのは美しい文面だけで、中身はもう最初の草案とは別物になっているだろう。


一通りの説明が終わったあと、部屋に短い沈黙が落ちた。


ヘレナは手元の対案を見つめたまま、動かない。

セオドアもまた、何かを待つように黙っている。


リディアは、その沈黙の形でわかった。

ここで言うべきことは、たぶん一つだ。


「削ろうとしているのは」


声にした途端、室内の視線が集まる。


リディアは対案の三箇所を、順に指先で押さえた。


帰還請求。

書簡。

帯同補助者。


「条項そのものではありません」


次席官が目を細める。


「と、申されますと」


「殿下の声です」


それだけ言うと、部屋はしんと静まった。


誰もすぐには返さない。

だが、その一言で何が問題なのかは、前よりずっと見えやすくなったはずだった。

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