1、削りたいもの
第一案を上げてから二日後、王宮から戻ってきた文案は、前回よりずっと静かな顔をしていた。
表紙には大きな差し戻しの印もない。文面も乱れていない。むしろ、丁寧に整えられていると言ってよかった。だからこそ、リディアは封を切ってすぐに、これは前より厄介だと思った。
露骨に拒まれているわけではない。
だが、残したい芯にだけ、きれいに手が入っている。
机の上に広げた書面を、セオドアが隣から覗き込む。
「来ましたか」
「ええ」
リディアは一枚目を押さえたまま答えた。
「前より上品です」
「その言い方だと、悪くなったように聞こえます」
「悪くなっています」
彼はそれに反論しなかった。
文案は三つの注記に分かれていた。
帰還請求の項については、殿下本人からの請求を起点とする形は残す。ただし、協議開始の条件として「王家側の確認を経るものとする」を補う。
書簡の項については、封緘の保持と王家指定便の往復を認める。ただし、私的書簡の頻度は過度に及ばぬよう、先方との協議により定める。
帯同補助者については、医師及び文書補佐の必要性は認める。ただし、常置ではなく、婚姻後の実情に応じて調整し得るものとする。
一見すれば譲っている。
だが実際には、三つとも起点を曖昧にしている。
「頻度を協議により定める」
セオドアが書簡の一行を指で叩いた。
「これが一番露骨ですね」
「はい」
リディアは頷いた。
「認めると見せかけて、結局は向こう側に減らせる余地を渡しています」
「帰還のほうも同じです。王家側の確認を経る、と入れれば、本人請求が単独で動かなくなる」
机の上の紙は整っている。だが整っているほど、どこを削りたいのかが見やすい。
帰還を、誰かの判断へ預けること。
書簡を、量の調整という名目で痩せさせること。
帯同者を、実情に応じてという便利な文言の中へ戻すこと。
リディアは目を細めた。
「削りたいのは、結局同じですね」
セオドアはそれ以上言わず、別紙を一枚差し出した。
「今日の午後、殿下も同席されます」
「先にご覧になっているのですか」
「今朝、要点だけは」
その返答の速さに、リディアは少しだけ安堵した。ヘレナが何も知らぬままこの文案の前へ座るのではない。それだけで違う。
王宮の小会議室は、前回より空気が乾いていた。
次席官も記録管理官も、相変わらず落ち着いた顔をしている。第一案が正式な相談として受理されたことで、あからさまな軽視は消えた。けれどその代わり、削るべき場所を丁寧に選んでくるようになっていた。
ヘレナは席に着くと、最初に書簡の項を開いた。
そこを真っ先に見るあたり、もう何が争点なのかをよくわかっている。
次席官が口を開く。
「まず申し上げますと、第一案そのものを退ける意図はございません」
その前置きに、リディアは心の中で冷たく息をついた。
退けない。
だが、そのままでも通さない。
そういうときに使う言い回しだ。
「ただ、先方との折衝を現実に進めるには、文面に一定のやわらかさが要る。とくに私的書簡の頻度や、帯同補助者の常置については、相手方が最も敏感に受け取る箇所でしょう」
「敏感に、ですか」
ヘレナが静かに尋ねる。
「ええ」
記録管理官が引き取った。
「婚姻後の家の中へ、王家側の手をどこまで残すかという話になりますので。先方からすれば、私的なやり取りの頻度まで先に定められるのは、いささか窮屈に映りましょう」
「では、窮屈でなければよいのですね」
その問いに、記録管理官は一瞬だけ言葉を止めた。
ヘレナは視線を逸らさない。
「私の書簡が、婚姻後も私のものとして届くこと。それ自体を否定しておられるのではなく、その量を先に定めることを問題にしておられるのですね」
「……はい。少なくとも、現時点ではそのほうが受け入れられやすいかと」
「受け入れられやすいのは、誰にとってでしょう」
部屋が静まった。
強い言い方ではない。
けれど、よく研がれた問いだった。
次席官が穏やかに返す。
「両家にとって、です。殿下のご意思を過不足なく守りつつ、先方の面目も保つ。その均衡が必要だと申し上げております」
「面目は理解しております」
ヘレナは一度だけ頷いた。
「ですが、私の書簡が細っていくことは、面目で済むことではありません」
記録管理官が紙をめくる。
「細ると決まったわけではございません」
「決まらぬように、先に言葉を置いているのです」
その返答は、前よりずっと早かった。
リディアは王女の横顔を見た。
誰かに翻訳してもらわなくても、もう自分で言葉を返せる。昨日たしかに見えた変化が、今日も消えずに残っている。
次席官は今度は帰還請求の項へ話を移した。
「こちらについては、大枠は維持しております。ただ、王家側の確認を経ることを明記したい」
「なぜでしょう」
ヘレナが問う。
「殿下ご本人の請求だけで動くように見えれば、先方に不安を与えます。婚姻後の秩序というものもございますから」
「秩序の話にするなら」
そこで初めて、リディアが口を開いた。
次席官の視線がこちらへ向く。
「殿下ご本人の請求が起点であることは、むしろ秩序の一部であるべきです」
「どういう意味ですかな」
「帰還を願い出る権利が、当人ではなく周囲の判断に先に奪われる形のほうが、秩序として危ういと申し上げています」
次席官は表情を変えない。
「エーヴェル令嬢は、ずいぶん本人の裁量を重く見ておられる」
「軽く見た結果、後で困るのも本人ですので」
その言葉に、記録管理官が別の角度から差し込んだ。
「とはいえ、婚姻後の殿下は向こうの家の奥方でもあられる。すべてをご本人の裁量で始められる形は、先方が受け入れ難いでしょう」
「始めることと、決めることは違います」
リディアは言った。
「殿下が求めておられるのは、協議を始める起点です。即時帰還を一存で決める権能ではありません」
「その違いが、先方に通じるかどうかですな」
次席官の言葉はやわらかかった。
だがやわらかいだけに、何を争っているのかがいっそうはっきりした。
通じるかどうか。
つまり、通じないと言って削る余地を最初から残したいのだ。
会議はそのあとも続いた。
帯同補助者は、常置の語を避けて「継続的配置」へ置き換えたい。
書簡の頻度は「定期」ではなく「必要に応じて」にしたい。
帰還請求の起点は残すが、王家側確認の前置きを消したくない。
どの修正案も、全部を取り上げるほど露骨ではない。だからこそ、受け入れやすく見える。少しの譲歩に見える。だが少しずつ受け入れれば、最後に残るのは美しい文面だけで、中身はもう最初の草案とは別物になっているだろう。
一通りの説明が終わったあと、部屋に短い沈黙が落ちた。
ヘレナは手元の対案を見つめたまま、動かない。
セオドアもまた、何かを待つように黙っている。
リディアは、その沈黙の形でわかった。
ここで言うべきことは、たぶん一つだ。
「削ろうとしているのは」
声にした途端、室内の視線が集まる。
リディアは対案の三箇所を、順に指先で押さえた。
帰還請求。
書簡。
帯同補助者。
「条項そのものではありません」
次席官が目を細める。
「と、申されますと」
「殿下の声です」
それだけ言うと、部屋はしんと静まった。
誰もすぐには返さない。
だが、その一言で何が問題なのかは、前よりずっと見えやすくなったはずだった。




