小さな婚約の、その後(エミリア視点)
その紙は、まだ薄かった。
机の上に置かれた婚約確認書は、家同士の取り決めとして見れば、驚くほど簡素だった。祝儀の額、婚約披露の時期、正式な顔合わせの日取り。どれも必要なことではある。けれど、エミリアが本当に知りたかったことは、そのどこにも書かれていない。
婚約後に侯爵家で暮らすことになった場合、自分の手紙はどこを通るのか。
体調を崩したとき、実家へ戻ることはできるのか。
持参する侍女を減らされたら、誰が止めるのか。
前なら、そこまで考える自分が悪いのだと思っていた。
愛があるなら、そんなことを先に数えるべきではない。
良縁なのだから、不安より感謝を先にするべきだ。
娘は、あまり細かなことを口にしないほうがいい。
そう言われるたび、たぶん自分のほうが間違っているのだと、少しずつ思わされてきた。
けれど、今は違う。
怖いと思うのは、間違いではない。
あの日、リディアにそう言われたときのことを、エミリアはまだはっきり覚えていた。やさしく慰められたわけではなかった。むしろ声は静かで、言葉も短かった。それなのに、不思議なくらい胸に残った。
間違いではない。
それだけで、自分の感じていたものにようやく名前がついたのだ。
「お嬢様」
控えめな呼びかけに、エミリアは顔を上げた。
侍女のマリナが、扉のそばで一礼している。
「侯爵家より、先方のご子息がいらしております」
エミリアは思わず机上の紙へ目を落とした。
「……お一人で?」
「はい。お付きの方は、控えの間に」
それなら、正式な使者というほどではないのだろう。あくまで本人が話しに来た、という形だ。
エミリアは小さく息を吸った。
逃げたいわけではない。
けれど、心臓が少しだけ早くなる。これまでの自分なら、こういうときこそ穏やかに笑って、「お任せいたします」と言っていたかもしれない。
だが今日は、そのつもりはなかった。
「応接間へ伺います」
「かしこまりました」
立ち上がる前に、エミリアは机上の婚約確認書を一度だけ手に取った。
そして、その下に置いてあった自分の覚え書きも重ねる。
帰還について。
書簡について。
持参侍女について。
婚約後の居所について。
書き方は拙い。順番も整っていない。
けれど、これが今の自分の怖さであり、確かめたいことだった。
応接間には、侯爵家の次男レオナルドがすでに来ていた。
立ち上がって礼を取る所作は丁寧で、相変わらず人当たりの良い顔をしている。年の頃は二十代の半ばで、社交の場でも穏やかで通っている男だ。エミリアも、彼そのものを恐れているわけではなかった。むしろ彼は、これまで一度も声を荒げたことがない。
だからこそ、余計に困っていたのかもしれない。
悪い人ではない。
けれど、悪くなければ十分なのかが、ずっとわからなかった。
「突然伺って申し訳ありません、エミリア嬢」
「いいえ」
向かいに腰を下ろしながら、エミリアは手元の紙を膝の上へ置いた。
レオナルドは少し言いにくそうに笑った。
「先日の件で、父から少し急ぎすぎるなと言われまして」
「先日の件、とは」
「婚約確認書です」
彼はそう言って、テーブルの上に同じ書面を置いた。
「あなたが、確認したいことがあるとおっしゃったでしょう。正直に申し上げると、私は少し驚きました」
驚きました、という言い方は責めていない。
だが、その驚きの中に「そこまで言うとは思わなかった」が混じっていることはわかった。
エミリアは視線を落とさなかった。
「そうでしょうね」
「ですが」
レオナルドはそこで言葉を選ぶように間を置いた。
「考えてみれば、驚くほうがおかしいのかもしれません。婚約するのは、私だけではないのですから」
その返答は、思っていたよりずっとましだった。
だからといって安心してはいけないと、今はわかっている。
言葉の入口がよいからといって、中身までよいとは限らない。
エミリアは膝の上の紙を開いた。
「それで、今日は何をお話しに来てくださったのですか」
レオナルドは一瞬だけその紙を見た。
自分に向けて用意されたものだとわかったのだろう。少し表情を引き締めてから、正面へ向き直る。
「父は、確認書は家同士の約束だから、細部まで増やす必要はないと言っています」
やはり、と思う。
もっともらしい。家と家の話なのだから、娘ひとりの不安を細かく拾う必要はない。そう言いたいのだ。
レオナルドは続けた。
「ただ、私は、少なくともあなたが何を気にしているのかを聞かずにそのまま進めるべきではないと思いました」
エミリアは、そこで初めて少しだけ息をついた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありません」
「いいえ」
それは本音だった。
聞く姿勢を見せることすら、これまであまりに少なかったからだ。
レオナルドは苦笑した。
「その言い方をされると、こちらがいたたまれませんね」
「そういうつもりでは」
「わかっています」
彼は小さく首を振った。
「ですから、今日は私も持ち帰るために来ました。あなたが、どこを不安に思っているのかを」
応接間は静かだった。
窓の外の庭では、まだ春の色が浅い。花が開ききる前の、少し寒い午後だった。
エミリアは手元の紙へ目を落とし、それから最初の一行をなぞった。
「まず……書簡です」
レオナルドの顔がわずかに動く。
「手紙、ですか」
「はい」
「実家との」
「ええ。それから、婚約後に私が自分の言葉で書いたものが、勝手に止められたりしないかということも」
レオナルドはそこで初めて、少しだけ考え込んだ顔をした。
「止める、ですか」
「おかしいでしょうか」
「いえ」
彼はすぐに否定した。
「ただ、そこまで考えたことがなかっただけです」
その返答が、エミリアにはむしろまっすぐに聞こえた。
知らなかったのだ。悪意で隠していたのではなく、本当に思い至っていなかった。
けれど、思い至っていなかったことで困るのは、いつもたいてい娘の側だ。
「次に、体調を崩したときのことです」
エミリアは続けた。
「婚約後に侯爵家で過ごすことになった場合、長く伏したとき、実家へ戻ることができるのか。それとも、そのままそちらで静養することになるのか。そこも曖昧なままです」
「それは……」
レオナルドは言葉を切った。
考えれば答えられる問いではないのだろう。家の意向が絡む。だからこそ、曖昧なままにされやすい。
エミリアはそこで、覚え書きの最後の一行へ目を落とした。
「それから、持参する侍女についてもです」
「侍女」
「はい。私は多くを望んでいるつもりはありません。けれど、婚約後に侍女を減らされるのが当然のように扱われるなら、それも前もって知っておきたいのです」
言い終えたあと、少しだけ手が冷えているのに気づいた。
怖くないわけではない。嫌われるかもしれない、面倒な娘だと思われるかもしれない、その感覚はまだ消えていない。
けれど、それでも口にした。
前の自分なら、それだけで十分大きな違いだった。
レオナルドは、すぐには何も言わなかった。
笑ってごまかすこともできただろう。
「そのようなことは起こりません」と言って安心させたふりもできただろう。
だが彼は、少なくともそれをしなかった。
しばらくして、静かに言う。
「率直に申し上げると」
「はい」
「すべてに今ここで答えることはできません」
エミリアは頷いた。
それはそうだろうと思っていた。
「ですが」
彼はそのまま続けた。
「答えを曖昧なままにしておくべきではないということは、わかります」
その一言で、エミリアは自分の肩に入っていた力が少し抜けるのを感じた。
わかります。
ただそれだけの言葉なのに、思っていたより胸に響く。
レオナルドは目の前の婚約確認書へ視線を落とした。
「正直に申し上げれば、私は、婚約というのは家と家でだいたい整うものだと思っていました。細かなことは、そのときになれば何となく収まるのだろうと」
「はい」
「ですが、あなたにとっては、何となく収まる側ではなかったのですね」
その言い方に、エミリアはようやく小さく笑った。
「たぶん、そうなのだと思います」
「……そうでしょうね」
レオナルドもまた、苦く笑う。
「私のほうが、何となく収まる側だったのでしょう」
それは少しだけ、自分を恥じるような響きだった。
ここで言い訳をしないぶん、まだましだとエミリアは思う。
「父に掛け合います」
彼は言った。
「少なくとも、書簡と静養については、確認書の補足という形で書けるようにしたい。侍女の件も、人数ではなく、最初にあなたが連れてくる者を勝手に減らさぬよう、文面を考えます」
エミリアは目を見開いた。
「そこまで、すぐに」
「すぐでなければ、また曖昧になりますから」
レオナルドはそう言って、机上の紙へ手を置いた。
「ただ、ひとつお願いがあります」
「何でしょう」
「全部を父や家に言わせるのではなく、あなたにも、次は同席していただけませんか」
エミリアは瞬きをした。
「私も、ですか」
「はい。今日聞いていて思いました。私が持ち帰るだけでは、たぶん足りない。あなたご自身が、何を不安に思っているのか、どこを曖昧にされたくないのか、それを家の者に聞かせたほうが早い」
その申し出は、少し怖かった。
だが同時に、それが必要なこともわかる。
誰かが代わりに話してくれれば楽だ。けれど代わりに話されたものは、たいてい途中で形を変える。ならば、自分の口で言うしかない。
エミリアは膝の上の紙を見た。
そこに並んだ字はまだ拙い。
けれど、もうそれを隠したいとは思わなかった。
「……はい」
そう答えると、レオナルドはわずかに安堵したようだった。
「ありがとうございます」
「礼を言うのは、まだ早いです」
「たしかに」
「文面が実際に整ってからでなければ」
その返しに、彼は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「ずいぶん、はっきりおっしゃるようになりましたね」
エミリアは、その言葉に少しだけ戸惑う。
変わったのだろうか。
まだ自分ではよくわからない。けれど、怖さを怖いまま押し込めないと決めたあの日から、たしかに同じではいられなくなっている。
「前は、怖いと思うこと自体がいけないことのように感じていました」
ぽつりと言うと、レオナルドは静かに聞いていた。
「でも今は、怖いと思ったなら、そのまま進めてはいけないのだとわかります」
「誰かに言われたのですか」
エミリアは一度だけ迷ったが、やがて頷いた。
「ええ。そう言ってくださった方がいます」
その人の名は出さなかった。
けれどリディアの顔は、はっきり胸の内に浮かんでいた。
怖いと思うのは間違いではない。
あの言葉がなければ、自分は今日もまた笑って頷いて終わっていたかもしれない。
レオナルドはそれ以上問わなかった。
代わりに席を立ち、机上の確認書とエミリアの覚え書きを見比べてから言う。
「では、次は家の者を交えて話しましょう」
「はい」
「そのときも、今日と同じように言ってください」
エミリアは少しだけ驚いたが、すぐに頷いた。
「……わかりました」
彼が帰ったあと、応接間には静けさが戻った。
だが、その静けさはこれまでのものと少し違っていた。
先の見えない曖昧さではない。まだ何も決まっていないのに、少なくとも次に何を言うべきかは見えている静けさだった。
エミリアは自室へ戻り、机へ向かった。
さきほどの覚え書きを開き、空いた余白へ新しく書き足す。
次回は同席。
書簡の経路を確認。
静養時の帰還可否。
侍女の扱いは人数でなく人で。
書いているうちに、ふと、もう一枚紙を出したくなった。
少し迷ってから、エミリアは白紙を引き寄せる。
宛名はまだ書かない。けれど誰へ向けたものかは、自分でもわかっていた。
あの日、たった一度会っただけの相手へ、長々しい礼を書くつもりはない。
それでも、ひとことだけは伝えたかった。
筆先を整え、ゆっくりと最初の一文を書く。
怖いと思うのは間違いではないと、あの日に言っていただいたことを、忘れません。
そこまで書いて、エミリアは手を止めた。
まだ全部がうまくいくと決まったわけではない。
侯爵家の返答次第では、また別の怖さも出てくるだろう。
それでも前とは違う。
何も知らされぬまま、何となく整えられていく婚約ではない。
自分でも確かめ、口にし、その上で進める婚約へ、少しだけ形が変わり始めている。
窓の外では、遅い春の光が庭へ落ちていた。
エミリアは書きかけの便箋をそっと閉じ、机上の婚約確認書の隣へ置く。
小さな婚約は、まだ続いている。
けれどもう、前と同じ続き方ではなかった。




