6、王女の名で
翌日の空は、朝から薄く曇っていた。
王宮の回廊も、いつもより少し冷えているように感じられる。もっとも、それは天気のせいばかりではないのだろうと、リディアは思った。今日は、草案をただの相談ではなく、王女自身の意思として前へ出せるかどうかの瀬戸際だ。その境目にいるのだと、皆がわかっている。
小会議室へ入ると、机の上には新しい対案が一部ずつ置かれていた。
前日より赤線は減っている。だが減ったからといって、楽になったわけではない。削るべき場所の目星が絞られ、今度はそこをどう残すかだけが、はっきり残っている。
帰還請求。
個人書簡。
帯同補助者。
ヘレナは席に着く前に、その三つの箇所を一度だけ見た。顔色は変わらない。けれど、書庫で初めて会ったころより、ずっと目が据わっている。
次席官が一礼して口を開いた。
「昨日のご意向を受け、文面を整理いたしました」
記録管理官が対案の二頁目を開く。
「とくに書簡の項です。原案どおり『留め置き及び選別の禁止』では、先方の反発が強すぎる。ですので、表現を改めました」
紙の上には、整った字でこうあった。
殿下個人の書簡については、その封緘を保持し、王家指定の経路による定期的な往復を妨げないこと。
ただし、宮中の安全に関わる重大な疑義が生じた場合は、この限りではない。その際は王家側へ速やかに通知し、共同確認を要する。
リディアは、その二行を黙って読み返した。
原案より柔らかい。
だが、最初に出された「先方の規律に従う」よりはずっとましだった。
封緘を保持する。
王家指定の経路を妨げない。
そして例外を設けるなら、その例外は向こう側だけで握らせず、王家への通知と共同確認を要する。
完全ではない。けれど空洞でもない。
「どうでしょう」
次席官が言う。
「原案の趣旨をすべて失わぬよう配慮したつもりです」
ヘレナはすぐに答えなかった。
書簡の項をじっと見つめ、それから、ゆっくりとリディアへ視線を向ける。問いかけではない。自分で考える前提の上で、もう一つ目を借りるような視線だった。
リディアは短く言った。
「前の対案よりは残っています」
次席官が眉を動かす。
「前の対案よりは、ですか」
「はい。少なくとも、殿下ご本人の言葉が最初から向こう側の裁量へ戻る形ではなくなりました」
記録管理官が問う。
「では、十分だと?」
「いいえ」
リディアは首を振った。
「十分かどうかは、例外条項の運用次第です」
ヘレナが小さく頷く。
「私も、そこが気になりました」
王女は対案の末尾へ指を置いた。
「重大な疑義、という言葉が広すぎます」
記録管理官が穏やかに返す。
「そこはどうしても必要です。完全な不可侵を求めれば、先方は受け入れぬでしょう」
「不可侵を求めているのではありません」
ヘレナは言った。
「例外が、常態にならぬ形を求めているのです」
その一言に、次席官は少しだけ目を細めた。
ヘレナはさらに続ける。
「重大な疑義があるなら、王家側への通知と共同確認を要する。この部分は残してください。その上で、『疑義』の範囲を、宮中の安全や明白な犯罪に関わる場合へ限ることはできませんか」
次席官は記録管理官と目を交わした。
そのやり取りを見ながら、リディアは心の中で小さく息をつく。前なら、ここで説明役に回っていたかもしれない。だが今は違う。ヘレナはもう、自分でどこを狭め、どこを広げるべきかを考えている。
「不可能ではありません」
しばしののち、記録管理官が言った。
「ただ、先方はなお渋るでしょう」
「渋ることと、曖昧にすることは別です」
ヘレナの返答は静かだった。
「そこは、曖昧にしたくありません」
短い沈黙が落ちる。
その間に、セオドアが帰還請求の項へ手を伸ばした。
「帰還のほうはどうなりましたか」
次席官が別紙を示す。
「こちらは昨日のやり取りを受け、起点は残しました」
文面はこう変わっていた。
殿下本人からの請求があった場合、王家側は速やかに協議を開始するものとする。
協議開始後の手続き及び期限は別記に従う。
リディアはその一行を見て、ようやく肩の力が少し抜けた。
起点が残っている。
それで十分とは言えないが、ここが落ちなかった意味は大きい。
「帯同補助者については」
記録管理官が続ける。
「役目を少し整理しました。常置とまでは書かず、『帰還及び連絡体制の維持に必要な補助者』といたします」
ヘレナはその文言も目で追った。
医師。
文書補佐。
必要に応じた補充。
王家側承認。
侍女全体の維持を大きく掲げるより、芯だけを残した形だった。
削られた部分がないとは言えない。だが守る順を決めた今なら、これでよいと判断できる線でもある。
「……ここは、結構です」
王女がそう言うと、次席官はわずかに息を緩めた。
残るのは書簡だった。
そこへ、外から控えめなノックがした。若い侍従が一礼して入り、次席官へ短く耳打ちをする。王は別件のため、この文案整理の場には加わらない。その代わり、今日中に最終確認を上げるよう命じがあったらしい。
侍従が退出すると、部屋の空気が少し変わった。
今日で決める。
少なくとも、ここで止めるわけにはいかない。
次席官が姿勢を正した。
「では、最後に書簡の項だけ詰めましょう」
記録管理官が筆を取り、文面の余白に小さく追記を書き込む。
重大な疑義を、宮中の安全又は明白な法規違反に関わる場合に限る。
通知は遅滞なく行うものとする。
「これでどうです」
ヘレナは、その場で答えなかった。
書簡の項を、最初から最後まで読み直す。
封緘の保持。
定期経路。
例外の限定。
即時通知。
共同確認。
やがて王女は、静かに言った。
「これなら、意味は残ります」
次席官が尋ねる。
「ご納得いただけますか」
ヘレナは少しだけ考え、それからはっきりと頷いた。
「全面的に、とは申しません。ですが、私が守りたいと思った線は、まだここにあります」
その答えで、ようやく部屋の中のものが定まった気がした。
完璧ではない。
最初の草案そのままでもない。
けれど、帰還の起点も、書簡の独立も、帯同の芯も、まだ残っている。
セオドアが整えられた対案へ目を落とし、短く言う。
「これなら出せます」
次席官も頷いた。
「では、この形を第一案として上げましょう」
第一案。
その言葉で、草案はただの相談から一段階進む。
ここで引けば、また曖昧さへ戻る。
ここで出せば、次からは“王女の意思を含む文案”として扱わざるを得なくなる。
リディアはヘレナを見た。
王女は草案の最後の頁を開き、確認欄へ目を落としている。署名ではない。だが、ここへ印を置くかどうかで意味が変わる。
書庫で「怖いと申し上げるのは幼いことでしょうか」と問うた王女は、もうここにはいない。
そのことを、いちばんよく知っているのは、きっと本人だった。
ヘレナは筆を取った。
ほんの一瞬だけ、筆先が紙の上で止まる。
その間、誰も口を開かなかった。
次席官も、記録管理官も、セオドアも、リディアも。
ヘレナは顔を上げた。
視線はまっすぐ、次席官へ向いていた。
「一つ、確認したいことがございます」
「はい、殿下」
「この文案が上がれば、もう『王女殿下のお気持ちの整理』としては扱えませんね」
次席官はわずかに目を見開き、それから静かに答えた。
「はい。少なくとも、そのようには扱えません」
ヘレナは、小さく頷いた。
「それで結構です」
その一言のあと、筆先が紙へ触れた。
確認印は小さい。
けれど、前よりずっと重く見えた。
印を置き終えると、ヘレナは筆を置き、整えられた文案の束を両手でそろえた。
そして、次席官ではなく、草案そのものへ向かって言うように、静かに告げた。
「これは、私の名でお出しください」
部屋が、しんと静まった。
大きな言葉ではない。
声も抑えられている。
けれどその一文で、すべての位置が変わった。
もう誰かが王女のために整える文ではない。
王女が、自分の条件として前へ出す文になったのだ。
次席官が最初に頭を下げた。
「承知いたしました」
記録管理官もまた、続けて礼を取る。
「確かにお預かりいたします」
セオドアは何も言わなかった。
ただ、草案をまとめる手つきが少しだけ丁寧だった。
リディアは、その横顔をちらりと見た。
彼は普段と変わらぬ顔をしている。だが、今この場がどれほど大きな一歩か、わからぬはずがない。
会議はそれで終わった。
次席官と記録管理官が退出し、扉が閉まる。
部屋にはいつものように、三人だけが残った。
ヘレナは、ようやく背もたれへ身を預けた。
疲れた顔ではない。ただ、張っていたものが、少しだけほどけた顔だった。
「……出してしまいましたね」
その言い方に、リディアはわずかに口元を和らげた。
「はい」
「もう戻れません」
「戻る気はございますか」
ヘレナは少し驚いたようにリディアを見たあと、小さく首を振る。
「いいえ」
その返答は、静かで、揺れていなかった。
セオドアが草案を革挟みに収めながら言う。
「では、次は相手と王家内部がどう動くかです」
「ええ」
ヘレナは頷いた。
「今日までとは違う形で来るのでしょうね」
「来ます」
セオドアは簡潔に答えた。
「ただの調整ではなく、もっとはっきり削りに来る」
王女はその言葉を受け止め、それからリディアへ視線を向けた。
「でも、ようやく始まった気がいたします」
書庫での面会が、王女の内側を整える時間だったとしたら、今ここでようやく、外とぶつかるための一歩が置かれたのだ。
リディアはゆっくりと息を吸った。
「はい。ここからです」
それは、王女に向けた言葉であると同時に、自分へ向けた確認でもあった。
守る条件は出された。
もう曖昧な善意や穏やかな言い換えの中へ戻すつもりはない。
ヘレナは席を立つ前に、最後に一度だけ草案のあった机を見た。
そこにはもう紙束はない。
けれど、たしかに残ったものがある。
怖いと言ってよいのかもわからなかった王女が、自分の名で条件を出した。




