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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第4章 王女の婚姻に条件を

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5、侯爵夫人は微笑む

書簡の項が最も強く削られるだろうと見えた、その翌々日だった。


王宮から戻ったリディアは、屋敷へ入る前に馬車の中で一度だけ目を閉じた。疲れていないとは言えない。だが、疲れより先に残っているのは、じわじわとした息苦しさだった。


帰還請求は、ひとまず起点を残せた。

帯同者も、形を変えればまだ守れる余地がある。

だが書簡だけは違う。あれは向こうにも、こちらにも、軽く扱いたい者が多すぎる。


必要なことだけが届けばよい。

整った報告があれば足りる。

そう言う者にとって、当人の言葉は邪魔なのだ。


屋敷へ着くと、執事が外套を受け取りながら静かに告げた。


「ローデン侯爵夫人から、お茶会へのお招きが届いております」


リディアは、そこで初めて足を止めた。


「私に、ですか」


「はい。明後日の午後、侯爵家の離れの温室にて、少人数で、と」


執事が差し出した厚手の封筒には、香りの薄い便箋が収まっていた。文面は柔らかい。春の花が開き始めたので、親しい方々と穏やかな午後を過ごしたい、というそれだけの文だ。


親しい方々、という言葉に、リディアは心の中で冷たく笑いかけた。


親しい相手を選ぶような夫人ではない。

選ぶのは、そこへ呼ぶ意味のある相手だ。


「お断りいたしますか」


執事が問う。


リディアは封筒を机へ置いた。


「……いいえ、伺います」


断ることもできる。だが断れば、今度は別の形で話が動くだろう。王女案件が噂になり始めている今、ローデン侯爵夫人がわざわざ呼ぶ以上、行かぬほうがかえって面倒になる。


「承知いたしました」


執事が下がったあと、リディアはしばらく便箋を見下ろしていた。


この呼び出しは偶然ではない。

社交界にも、もう草案の匂いが漏れているのだ。


温室は、噂どおり見事だった。


明るいガラス張りの天井から春の光が落ち、白い花鉢と淡い色の薔薇が整然と並んでいる。席数は多くない。呼ばれたのは五、六人ほどだろう。顔ぶれを見れば、若い令嬢ばかりではなかった。王宮と縁の深い伯爵夫人、公爵家の縁戚、そして中央にローデン侯爵夫人が座っている。


夫人は、リディアを見ると穏やかに微笑んだ。


「ようこそ、リディア嬢。お忙しいでしょうに、よくいらしてくださいましたわ」


「お招きありがとうございます、侯爵夫人」


「まあ、お堅いこと」


夫人は軽く扇を閉じた。


「今日は難しいお話ではなく、春のお花を眺めながら、少し気持ちを和らげたかっただけですのよ」


その言葉に、その場の何人かがやわらかく笑う。

だが、それで本当に話が花や菓子だけで終わるとは、誰も思っていない顔だった。


最初のうちは、たしかに当たり障りのない話が続いた。


今年の春は少し冷えること。

王都の仕立て屋が新しい染め色を出したこと。

最近の夜会は以前より小ぶりなものが好まれていること。


だが茶が二巡したころ、夫人はごく自然な顔で言った。


「そういえば、王宮のほうもこのところ少し慌ただしいようですわね」


その場の視線が、はっきりとは向かなくても、じわりと寄るのがわかった。


「婚姻のご相談は、やはり気を遣うことが多いのでしょう」


公爵家の縁戚らしい年長の婦人が、同じく穏やかに応じる。


「王女殿下ともなれば、なおさらでしょうね」


ローデン侯爵夫人は、そこで初めてリディアのほうを見た。


「リディア嬢も、いろいろとお忙しいのでしょう?」


やわらかい問いだった。

だが断る余地のない問いでもあった。


「多少は」


「そうでしょうとも。あなたは昔から、細かなところまでよくお気づきになる方でしたもの」


昔から、という言い方に、微かな棘がある。

婚約していたころから、という意味を誰もが拾える言葉だった。


「ですから、王女殿下のようなお立場の方にとっては、頼もしいのでしょうね」


頼もしい。褒め言葉の形をしている。

けれどその実、どこかで“実務向きの女”として位置づけている響きが消えない。


リディアはカップを置いた。


「お役に立てることがあればと思っております」


「まあ、ご立派」


侯爵夫人は目元だけで笑った。


「ただ、婚姻というものは、理を立てすぎても息苦しくなりますでしょう?」


周囲は誰も口を挟まない。

止めるつもりがないのは明らかだった。


夫人は続ける。


「もちろん、確認すべきことはございますわ。けれど、あまりに細かく条件を並べ立てれば、どうしてもお相手には不信を向けているように映りますもの。ことに、女性の側から強く線を引きすぎますと」


そこで言葉を切り、夫人はティーカップの縁へ指を添えた。


「可愛げがないように見えてしまうこともございますでしょう?」


温室の中は明るいのに、その一言だけ妙に冷たかった。


言い返そうと思えば、いくらでも言える。

可愛げで守れるものではないことも、条件が疑いではなく保護であることも。


けれど社交の場で真正面から返せば、その瞬間に負ける。

感情的な令嬢という型へ押し込まれるだけだ。


リディアは静かに言った。


「可愛げの有無で決めるには、婚姻は重すぎることもございます」


夫人は笑みを崩さない。


「そういうお考えなのでしょうね。もっとも、男性方は必ずしもそのようには受け取りませんわ」


その場の婦人たちが、曖昧に目を伏せたり、薄く微笑んだりする。

賛同とも否定とも取れぬ顔だった。だが、その曖昧さ自体が、この場の空気を物語っている。


誰もはっきりと「違う」とは言わない。

けれど「そういうものですわね」と言えるだけの土壌は共有している。


侯爵夫人は、話題を変えるような気軽さで続けた。


「王女殿下のお話も、きっと同じですのよ。あまりに条件を増やせば、かえってご自分を苦しくなさるだけかもしれません。婚姻は、多少のことは飲み込んで、先方へ委ねるやわらかさも必要でしてよ」


その一言で、ようやくリディアははっきり悟った。


この人は、条件そのものを嫌っているのではない。

女性が、自分を守るための線を自分で引くことを嫌っているのだ。


飲み込むこと。

委ねること。

やわらかく受け入えること。


それが上品さの名で美徳にされる限り、守りを求める声はすぐに“頑なさ”へ置き換えられる。


「委ねる先が、常に善意であればよろしいのですけれど」


そう言ったのは、席の端にいた年若い伯爵夫人だった。思いがけない一言に、その場の空気がほんの少し揺れる。


だがローデン侯爵夫人は動じない。


「善意ばかりで世が動かぬことは、もちろん存じておりますわ。でも、最初から疑ってばかりでは、どのご縁も冷たくなってしまいますでしょう?」


「疑うのではなく」


リディアは口を開いた。


「後で困る側が、困らぬようにしておくだけです」


侯爵夫人は、そこで初めて笑みを少し深くした。


「そういうところですのよ、リディア嬢」


その声はあくまで優しい。


「あなたは昔から、後で困ることをよくおわかりになる。その慎重さは美徳ですわ。けれど、ときに女性は、すべてを先に数えすぎぬほうが愛されることもございますの」


婚約破棄されたばかりの令嬢に向けるには、ずいぶん整った言葉だった。

露骨な嘲りはない。慰めの顔すらしている。

だからなおさら、切れ味が悪い。


今ここで返すべきか、一瞬だけ考えた。

だが考えた時点で、もう答えは出ている。


この場で争っても、勝てない。

侯爵夫人は一人ではないからだ。

この温室の空気そのものが、彼女の側に立っている。


「覚えておきます」


リディアはそうだけ言った。


夫人は満足そうに頷いた。

それ以上は追わず、花の話へ戻る。

だが、そのあとどれだけ話題が変わっても、温室の空気はもう元には戻らなかった。


茶会を辞したとき、外の空気は思っていたより冷たかった。


侯爵家の門を出て馬車へ向かう途中、リディアはようやく長く息を吐いた。怒っているのか、疲れているのか、自分でも判然としない。ただ、無駄に力を使った感覚だけが残る。


「お疲れのようですね」


声をかけられ、リディアは足を止めた。


侯爵家の前庭に面した石畳の脇で、セオドアが立っていた。

偶然にしては出来すぎている場所だった。


「……どうしてこちらに」


「侯爵家の隣の区画に法務局の文書庫がございます」


彼は淡々と答えた。


「本当に偶然です。そう言っても信じていただけるかは別ですが」


少しだけ、リディアは肩の力が抜けた。


「半分だけ信じます」


「それで結構です」


セオドアはそう言って、リディアの顔を見た。


その視線が、いつものように妙に正確で、少しだけうんざりする。


「何でしょう」


「あなたは、ああいう場でご自分を削りすぎる」


言葉は短かった。


慰めでも、同情でもない。

ただ事実をそのまま置かれた。

それだけなのに、茶会の間じゅう張っていたものが、胸の内でわずかに緩む。


「見ておられたのですか」


「門前で少し」


「悪趣味ですね」


「否定はいたしません」


彼はそう答えたが、口元は少しも楽しそうではなかった。


リディアは視線を外した。


「ああいう場で、まともに返しても意味がありません」


「ええ。ですから返さなかったのでしょう」


「でしたら問題ないはずです」


「問題はあります」


セオドアは即答した。


「返さずに済ませるたび、あなたがご自分の側を少しずつ削っている」


その一言に、リディアは何も返せなかった。


正しいとも、間違っているとも、すぐには言えない。

ただ、自分でも見ないようにしていた箇所へ、あっさり触れられた気がした。


「……社交の場では、そういうものです」


やっと出た言葉は、それだけだった。


「そうでしょうね」


「では」


「そういうものだから、削れてよいとも思いません」


夕方の薄い光が、石畳の端へ斜めに落ちている。

セオドアの声はいつもと変わらないのに、今だけは妙に静かに響いた。


リディアは少しだけ眉を寄せた。


「今日は、その話をしに来られたのですか」


「いいえ」


「では何を」


「書簡の項を、次にどう残すかを考えていました」


そこで彼はごく短く間を置いた。


「その前に、あなたがあの場から出てこられたので」


それは、気づいたから見た、ではなく、見ていたから言った、に近い言葉だった。

だがそこを問い返すほど、今のリディアには余裕がなかった。


代わりに、先ほどの温室の空気を思い出す。


条件が多い婚姻は愛を疑うように見える。

女性はすべてを先に数えすぎぬほうが愛される。


あれはローデン侯爵夫人個人の悪意ではない。

もっと広く、もっと丁寧に、昔から繰り返されてきた言葉だ。


「……侯爵夫人だけではないのですね」


ぽつりと漏らすと、セオドアは頷いた。


「ええ」


「わかってはおりましたが、あらためてよくわかりました」


リディアは馬車へ視線を向けたまま言う。


「敵は人ではありませんね」


セオドアは一拍置いて、静かに答えた。


「従順でいてほしい側の空気です」


その言葉に、リディアはようやく小さく息をついた。


温室で感じた息苦しさの正体が、ようやくきれいに輪郭を持った気がした。

人を責めれば済む話ではない。

だからこそ厄介で、だからこそ条件という形が要る。


「帰還と書簡と帯同者」


リディアは言った。


「やはり、あの三つですね」


「ええ」


「書簡はとくに嫌がられる」


「最も管理しやすい箇所ですから」


「だから軽く扱いたがる」


セオドアは黙って頷いた。


もう話は次へ進んでいる。

温室の空気を抜けたあとでも、結局はそこへ戻る。

そのことに、不思議と救われる気がした。


仕事の話だからではない。

同じものを見ている相手がいると、少なくとも自分だけが神経質なのではないと思えるからだ。


「明日、文案を詰めます」


セオドアが言う。


「書簡の項は、一段工夫が要るでしょう」


「ええ」


「来られますか」


その問いは、ごく普通の確認のはずだった。

だが、今のリディアには少しだけ違って聞こえた。


「行きます」


「では、明日の午後に」


それだけ言って、セオドアは一礼した。

引き留める理由もない。けれど立ち去る前に、ほんのわずかに言葉を足す。


「今日は、休まれたほうがいい」


リディアは思わず彼を見た。


「命令ですか」


「提案です」


「法務局の方は、提案まで職務に含まれるのですね」


「必要なら」


その返しに、ようやく少しだけ笑ってしまった。


セオドアはそれを見ても何も言わず、いつものように余計な追及をしないまま、隣の区画のほうへ歩いていく。


リディアはその背を見送り、それから馬車へ乗り込んだ。


車輪が静かに動き出す。


窓の外には、侯爵家の温室のガラスが夕暮れを薄く映していた。あの中にあった言葉は、きっとこれからも何度も形を変えて現れるのだろう。可愛げ、やわらかさ、信義、愛される女。そんな名前をつけて。


だがもう、正体は見えた。


敵はローデン侯爵夫人一人ではない。

従順でいてほしい側の空気そのものだ。


そしてその空気は、帰還と書簡と帯同者の三つを、何より嫌がる。


ならば次に守るべき場所も、もう迷わない。


リディアは膝の上で手を組み、閉じかけた目を開いた。


次は、書簡だ。

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