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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第4章 王女の婚姻に条件を

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4、削られる条項

翌日の午後、机の上には二種類の草案が並んでいた。


ひとつは、ヘレナの確認印が入った原案。

もうひとつは、内廷局と記録管理側が修正を入れた対案だった。


見た目の違いは大きくない。字面も整っている。だが、並べて見れば、どこが削られたかは一目でわかった。


本人請求による帰還協議の開始。

個人書簡の独立。

帯同医師及び文書補佐の常置。


昨日、争点として読み上げられた三つに、揃って細い線が引かれている。


「まず、帰還請求の項です」


次席官が対案を開いた。


「現行案では、殿下ご本人からの請求により王家側は協議を開始する、とあります。これを、王家側が必要と認めた場合に協議を開始する、へ改めたい」


リディアは視線を落としたまま、その一行を追った。


必要と認めた場合。


昨日と同じ言葉だったが、紙の上に置かれると、なおさらはっきりする。本人の意思は起点ではなく、参考に落とされる。そういう文言だった。


ヘレナはすぐには口を開かなかった。

代わりに、修正箇所をもう一度見返し、それから静かに問う。


「私が求めても、王家側が必要と認めなければ始まらない、ということでしょうか」


「そのように強くは申しません」


次席官は穏やかに答えた。


「殿下のお言葉を含め、総合的に判断するという意味です。婚姻後の帰還に関わることは、どうしても一人のご意思だけで動かすには重すぎますので」


「重いことは承知しております」


ヘレナは言った。


「ですからこそ、私の言葉が起点にならねば困ります」


次席官は返さず、視線を別紙へ移した。


「では、書簡についてです」


記録管理官が、対案の二頁目を示す。


「原案では、殿下個人の書簡について留め置き及び選別を禁ずる、とあります。ここは、公的な報告経路を優先し、私的書簡については先方の宮中規律に従う、という形に改めたい」


紙の上の文言は、よく整っていた。


公的な報告経路を優先し、私的書簡については先方の宮中規律に従う。


乱暴な削り方ではない。むしろ配慮ある書きぶりに見える。

だが中身は明白だった。ヘレナ個人の言葉は、向こう側の裁量の中へ戻される。


「それでは、私の手紙は私のものではなくなります」


ヘレナが言うと、記録管理官は少しだけ困ったように眉を寄せた。


「殿下、そのような極端なことでは」


「極端ではありません」


ヘレナは対案へ手を置いた。


「先方の規律に従う、と書けば、選ばれるのは私ではなく向こうです」


その一言に、部屋は小さく静まった。


昨日までは、ヘレナの言葉を周囲が受け止めている印象がまだあった。だが今日は違う。王女はすでに、紙のどこがどう変われば意味が変わるかを見ている。


次席官はひとつ息をついた。


「では、帯同者の項です。ここは人数の維持までは認めやすい。しかし、医師や文書補佐を役目ごとに常置するとなると、先方の家の内政へ踏み込みすぎるとの反発が予想されます」


「予想される、ではなく、そう申し上げたいのでしょう」


セオドアが口を開いた。


次席官は彼を見たが、咎めはしなかった。


「そのとおりです。少なくとも、原案のままでは強い」


「人数だけ残して、役目を消せば空洞になります」


セオドアは淡々と言った。


「侍女が何名いるかではなく、その中に誰が含まれるかが問題なのでしょう」


「理屈はわかります」


次席官の声はまだ落ち着いている。


「ですが、理屈どおりに書けば通るものでもない。婚姻草案は、正しさだけで成立する文書ではありません」


「ですから、見せ方の話をしておりました」


セオドアは返した。


「中身を抜く話ではなく」


その応酬のあいだ、リディアは原案と対案を見比べ続けていた。


帰還請求。

書簡。

帯同者。


三つとも、削り方は違う。

だが向かっている先は同じだった。


本人の意思を弱める。

本人の言葉を管理へ戻す。

本人の周囲を“人数”へ薄める。


結局、切ろうとしているのは一本だ。

ヘレナが、婚姻後もなお自分の声と退路を持ち続けるための線。それを細くしようとしている。


「殿下」


リディアは顔を上げた。


「確認させてください」


ヘレナもまた、すぐにこちらを見た。


「この三つのうち、順をつけるならどれですか」


次席官がわずかに目を細める。

記録管理官も、黙って耳を向けた。


唐突に見えたかもしれない。だがここで必要なのは、きれいな反論ではない。落とせぬものの順番を、当人が持つことだった。


ヘレナはしばらく答えなかった。


机上の三箇所へ視線を移す。

帰還請求。

個人書簡。

帯同医師及び文書補佐。


それから王女は、静かに言った。


「帰還です」


その答えに、リディアは頷いた。


「次は」


「書簡」


「三つ目は」


「帯同者」


短いやり取りだった。

けれど、その順が決まっただけで、草案の見え方が変わる。


次席官がその変化を感じ取ったのか、慎重に問い返した。


「そこまで明確にお考えでしたか」


ヘレナは小さく首を振った。


「明確ではありませんでした。ですが、今は、そうだと思います」


王女は対案へ指先を置いた。


「帰ることができねば、あとの二つも遅れます。書簡が届かねば、帰還も求めにくくなります。帯同者は、その二つを支えるために必要です」


順番にしたことで、三つの関係がはっきりした。


ばらばらの不安ではない。

帰還があり、書簡があり、それを支える帯同者がいる。そうして初めて、切り離されぬまま婚姻へ入れる。


「では、帯同者の項は少し形を変えられます」


リディアは言った。


次席官がこちらを見る。


「どう変えると」


「人数と役目を並列で置くのではなく、帰還請求と書簡の実効を支える補助体制として書き換えるのです。医師と文書補佐だけを前へ出せば、侍女全体の常置よりは通しやすくなります」


次席官はすぐには頷かなかったが、露骨に否定もしなかった。

記録管理官が紙へ目を落とす。


「帯同者全体の維持、ではなく」


「帰還及び連絡体制を保つために必要な補助者の帯同」


セオドアが引き取るように言う。


「そう書けば、見せ方は少し変わります」


次席官が、そこでようやく小さく息をついた。


「なるほど。そこは工夫の余地があるかもしれませんな」


少しだけ、場が動いた。


全部を守るのではなく、芯を守るために周辺の見せ方を変える。

ようやく、その話へ入れたのだ。


だが、帰還請求と書簡はそうはいかなかった。


「本人請求は、なお強い」


次席官は紙を軽く叩いた。


「先方がもっとも構えるのはここでしょう。王女殿下が婚姻後も、王家へ直接動きを求め得ると見える」


「見えるのではなく、そのとおりです」


ヘレナが静かに言う。


次席官は返答を止めた。

ほんの一瞬だけだったが、その沈黙には、さきほどよりはっきりした重さがあった。


「私は、王家の娘でなくなるわけではありません」


ヘレナは続けた。


「向こうの家へ入ったあとも、私が私の名で帰還を求められぬ形には同意できません」


部屋の空気が変わる。


昨日までは、必要だと思う、困るのは私だ、という言い方だった。

今日は違う。同意できない、と王女は言った。


記録管理官が口を開きかけたが、その前にセオドアが言った。


「そこは落とせません」


言葉は短く、余計な熱もない。


「表現の検討はできます。ですが、本人の意思を起点から外す修正には応じられません」


次席官は視線をヘレナへ戻した。


王女は、今度は目を伏せない。


やがて彼は、諦めたというより、争点を認めるような息をついた。


「……では、そこは次案でも残しましょう。ただし、協議開始後の手続きには一定の期限と段階を入れます。即時帰還請求と読まれぬように」


「それで結構です」


ヘレナは答えた。


「私が求めているのは、私の言葉で始められることです」


そのやり取りのあいだ、リディアはようやく自分の肩が少し強張っていたことに気づいた。

ひとつ通っただけなのに、思っていた以上に息が詰まっていたらしい。


その瞬間、隣から低い声がした。


「少し休まれたほうがいい」


セオドアだった。


声量は抑えられている。向かいの二人には届かぬ程度だった。

リディアはほんの一瞬だけ彼を見た。


「まだ終わっておりません」


「書簡の項に入る前に一度切ったほうがいいと言っています」


言い方は事務的だった。

だが、彼が見ているのは机上の紙だけではないとわかる。


次席官も、ちょうどそこで筆を置いた。


「こちらも、書簡の文言は少し持ち帰って整理したい。ひとまず今日はここまでにいたしましょう」


会議は、そこで区切られた。


退出の準備が始まり、紙が重ねられる。

記録管理官は最後に書簡の項へもう一度視線を落とし、それから静かに草案を閉じた。まだそこは通っていない。むしろ次に最も削られる箇所として残っている。


扉が閉まったあと、部屋には三人だけが残った。


ヘレナは椅子の背へ軽く身を預け、机の上の草案と対案を見下ろした。


「帯同者は、見せ方を変えれば残せるかもしれない」


「はい」


リディアは答えた。


「ですが書簡は、まだ厳しいでしょうね」


「ええ」


セオドアが短く言う。


「向こうもこちらも、そこを最も軽く扱いたいはずです」


ヘレナは黙っていたが、やがて、原案の三箇所へ順に指を置いた。


帰還請求。

個人書簡。

帯同医師及び文書補佐。


その順に触れてから、王女は静かに息を吐く。


「帰還が一つ目。書簡が二つ目。帯同が三つ目」


自分に言い聞かせるような声だった。


「はい」


リディアは答える。


ヘレナは顔を上げた。


「では、次は書簡ですね」


それは弱音ではなかった。

どこが次の山かを、正しく見定めた人の声だった。


机の上に残された対案には、まだいくつもの赤線が引かれている。

だがもう、何を先に守るべきかは見えていた。

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