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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第4章 王女の婚姻に条件を

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1、出された草案

三日後、草案は内廷局へ回された。


王家の離れではなく、本棟の一角にある小会議室だった。窓は高く、壁際の書棚には過去の婚姻記録や儀礼書が並んでいる。広さはないが、そのぶん逃げ場もない部屋だった。


机の上には、整え直された草案が三部。


帰還条件。

書簡の扱い。

帯同者の維持。

個人財産の区分。

保全措置。

解除条項。


書庫で書かれていた手書きの覚え書きとは、もう顔つきが違う。紙の上に並んだ文言は簡潔で、余計な情を挟まないぶん、かえって重かった。


リディアは正面の席ではなく、少し脇へ控えていた。正式な提出者ではない。だが文言の整理に関わった者として、必要ならば補足を求められる位置にいる。


隣にはセオドアがいた。


彼はいつも通り、余計な緊張を煽る顔をしていない。ただ、机上の草案と向かいの二人を見比べるその目に、曖昧な着地を許す気がないことだけは見て取れた。


向かいに座っているのは、内廷局で婚姻実務を預かる次席官と、王家の記録管理官だった。どちらも年長で、紙の扱いに慣れた顔をしている。感情を表へ出す立場ではない人間のはずだった。


それでも、最初の一枚を開いたとき、部屋の空気は確かに変わった。


次席官は視線を紙へ落としたまま、何も言わない。

記録管理官もまた、頁を繰る手を止めはしないが、先ほどまでの事務的な速さが失われていた。


沈黙は短かった。

だが、その短さで十分だった。


書かれているものの意味は、もう伝わっている。


やがて次席官が、紙を机上へ戻した。


「ずいぶんと」


声は穏やかだった。


「踏み込んだ内容ですな」


「最低限と判断しております」


セオドアが答える。


次席官は、その返答を否定しなかった。代わりに、草案の二頁目へ目を移す。


「帰還条件に、殿下ご本人からの請求を含める」

「個人書簡について、留め置き及び選別を禁ずる」

「帯同者について、役目ごとの維持と補充承認を要する」


低く読み上げられるその文言は、部屋の中でいっそう硬く響いた。


「婚姻の草案としては、かなり珍しい形です」


今度は記録管理官が口を開いた。


「前例がないとまでは申しませんが、少なくとも穏当な言い回しではありません」


「穏当さを優先して落ちる箇所ではありませんので」


セオドアの答えは短かった。


記録管理官は、その物言いに眉ひとつ動かさない。ただ、紙を置く指先だけがわずかに強くなる。


「法務局としての見解ですか」


「法務局としての整理でもありますが、それだけではありません」


そう言って、セオドアは草案の端に置かれた確認欄へ手を添えた。


そこにはヘレナの確認印がある。


小さく、けれど見落としようのない印だった。


次席官は、そこで初めて視線を上げた。


「殿下は、まもなくお越しになるのですね」


「はい」


セオドアが答えると、ちょうど扉の外で控えめなノックがした。


室内の三人がそちらを見る。


入ってきたのはヘレナだった。


今日は書庫で会ったときより、王女としての装いに近い。華美ではないが、立場を軽んじられぬだけの整い方をしている。後ろには侍女が一人ついていたが、部屋の中までは入らず、扉の外へ控えた。


ヘレナは席に着く前に、机上の草案へ一度だけ目を落とした。


その視線に迷いはある。

だが、書庫で初めて会った頃のように、何を口にしてよいのかわからぬまま戸惑う顔ではなかった。


「お待たせいたしました」


王女の声に、次席官と記録管理官が礼を取る。


ヘレナもまた応じ、静かに席へ着いた。


「拝見いたしました、殿下」


次席官が言う。


「きわめて慎重にお考えになったことは伝わってまいります。ただ、いささか先方への警戒が前へ出すぎているようにも見える」


ヘレナは、すぐには答えなかった。


次席官は続ける。


「婚姻前からここまで退路を明文化すれば、先方に不信を示す形にもなりましょう。ことに書簡と帯同者の項は、向こうの家の内情へ踏み込みすぎると受け取られかねません」


記録管理官も穏やかに言葉を継いだ。


「帰還請求についても同様です。王女殿下のご身辺を守る意図は理解できますが、ご本人からの請求を条項に置くのは、いささか強い。王家と先方の信義にまず委ねる形のほうが、文面としては整うかと」


どちらの声にも、露骨な拒絶はなかった。

むしろ丁寧だった。


だからこそ、その言葉が削ろうとしているものの輪郭がよく見える。


帰還を、本人の意思から遠ざけること。

書簡を、公的なやり取りへ吸収すること。

帯同者を、単なる人数へ戻すこと。


きれいな文面の裏で、守ろうとしてきた芯が静かに切り分けられていく。


リディアは口を挟まなかった。


ここで前へ出るのは違う。

今日この場で試されているのは、文言の正しさだけではない。ヘレナが、自分の意思としてこの紙の前に座れるかどうかだ。


セオドアもまた、すぐには言葉を返さなかった。


短い沈黙のあと、ヘレナは草案の一枚目へ手を置いた。


「先方への警戒と申されましたが」


その声は静かだった。


「私は、先方が必ずしも不誠実だと申し上げたいわけではありません」


次席官が目を細める。


ヘレナは続けた。


「ですが、誠実であれば条件は要らぬ、とは思っておりません」


部屋の空気が、わずかに張った。


「婚姻が穏やかに続くことを望んでおります。先方とも信を結びたいと考えております。それでも、帰還や書簡や帯同者のことを曖昧なままにしてよいとは思えませんでした」


「殿下」


記録管理官がやわらかく口を開く。


「お立場ゆえ、ご不安が募ることはもっともです。ですが、そのご不安をすべて条項へ置かれますと、草案はどうしても」


「不安だからではありません」


ヘレナが、そこで言葉を切った。


強い声ではない。

だが、その短い一言で、記録管理官は続きを呑み込んだ。


王女は草案へ落としていた目を、ゆっくりと上げた。


「不安だからではなく、必要だと思ったからです」


向かいの二人が、王女を正面から見返す。


リディアは胸の内で、わずかに息を整えた。

ここまではいい。ヘレナは逃げていない。


次席官が慎重に問う。


「必要、とお考えになる理由を、うかがっても」


「曖昧なまま困るのが、私だからです」


その返答は短く、そして明瞭だった。


記録管理官が、さすがにわずかに眉を動かした。


ヘレナは続ける。


「病に伏したとき、誰が帰還を求めるのか。書簡が滞ったとき、どのように確かめるのか。そばの者が減らされたとき、どこまでが取り決め違反なのか。そうしたことが曖昧なままでは、後で困るのは私です」


「ですが殿下」


次席官が声を和らげる。


「婚姻とは、そこまで疑いを並べて入るものでは」


「疑っているわけではありません」


ヘレナはもう一度、はっきりと言った。


「疑っているのではなく、守りを持って入りたいのです」


その言葉に、部屋は静まり返った。


窓の外で遠く鳥の声がしたが、それすら今は室内まで届いてこないように思えた。


次席官は、草案とヘレナの顔を見比べる。

記録管理官もまた、机上へ手を置いたまま動かない。


沈黙を破ったのは、セオドアだった。


「ですので、法務局としてはこの草案を、単なる補足案ではなく、殿下ご本人のご意思を含む条件整理としてお預かりしております」


次席官が、ようやく小さく息をついた。


「そうですか」


それだけ言って、彼は草案の確認印をもう一度見た。


今度の沈黙は、先ほどまでとは少し違った。

ただの驚きではない。

この紙を、もう“周囲が整えた気遣い”としては扱えないと理解した沈黙だった。


やがて次席官は、静かに口を開いた。


「確認させていただきたい」


その問いは、今度はセオドアではなく、まっすぐヘレナへ向いていた。


「これは、殿下ご本人のお考えなのですか」



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