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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第4章 王女の婚姻に条件を

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2、私の考えです

これは、殿下ご本人のお考えなのですか。


問われたヘレナは、目を伏せなかった。


机上の草案に置いていた手をそのままに、まっすぐ次席官を見返す。声を整えるための短い間はあったが、迷っているようには見えなかった。


「はい」


その一言だけで、部屋の空気が少し変わった。


王女が否定しなかった、というだけではない。ここまで並んだ文言を、自分の考えとして引き受けた。その事実が、草案の重みを一段変えたのだ。


次席官は、すぐには言葉を継がなかった。記録管理官もまた、草案の端へ指を置いたままヘレナを見ている。


ヘレナは続けた。


「細部の言い回しまで、私ひとりで定めたとは申しません。ですが、ここに記されている中身は、私が必要だと思ったものです」


「必要、とお考えになるのは」


記録管理官が慎重に問う。


「先ほど申し上げたとおりです。曖昧なまま困るのが私だからです」


「殿下のお立場でそうしたご不安があることは理解いたします」


次席官が言う。


「ですが、婚姻前からここまで退路を明文化するのは、先方に対して強い姿勢と受け取られましょう。ことに『殿下ご本人からの帰還請求』は、向こうから見れば信義を疑われているようにも映ります」


ヘレナは小さく頷いた。


「そう受け取る方がいることは、承知しております」


意外なほど静かな返しだった。

反発するのでも、怯むのでもない。ただ、すでに考えた上でここにいる人の声だった。


「それでも」


王女は草案の二頁目を開いた。


「信義があるなら、書いてはならぬとは思いません」


向かいの二人が、わずかに目を上げる。


「信義があるなら不要だ、とよく言われます。ですが私は逆だと思っております。信義があるなら、守るべき線を先に置いても、損なわれるものではありません」


その言葉を聞きながら、リディアはヘレナの横顔を見ていた。


書庫で初めて会ったとき、王女は「怖いと申し上げるのは幼いことでしょうか」と問うていた。あの頃のためらいが消えたわけではないだろう。けれど今はもう、自分の不安を誰かに説明してもらう側ではない。


次席官は、わずかに指を組み直した。


「殿下。お言葉は理解いたします。ですが、婚姻とは、互いに歩み寄ることで成るものです。最初からここまで強く線を引けば、先方もまた身構えましょう」


「身構えることが問題なのでしょうか」


ヘレナの問いは穏やかだった。


「それとも、私が何も持たずに向かうほうが望ましいのでしょうか」


次席官は返答に一瞬詰まった。

露骨に困った顔はしない。だが、その問いを軽く受け流せないことは、沈黙でわかった。


記録管理官が口を開く。


「殿下を何も持たずに向かわせるつもりはございません。ただ、文面として、あまりに対立を前提にした形は避けるべきかと」


「対立を前提にしているのではありません」


ヘレナはそう言って、次の頁へ目を落とした。


「対立したときに、私だけが何も持たぬ形を避けたいのです」


その一文のあと、部屋はまた静かになった。


セオドアは何も言わない。補うべき箇所ではないと判断しているのだろう。ここで前へ出れば、王女の言葉の重みを削ぐ。


リディアもまた黙っていた。


ヘレナが、自分でここまで言えている。それだけで十分だった。


やがて次席官は、紙へ視線を戻した。


「では、殿下はこの草案を、婚姻そのものを退けるための文書とはお考えではないのですね」


「もちろんです」


ヘレナは即答した。


「私は婚姻そのものを拒みたいわけではありません。国のための務めを、私情だけで退けるつもりもありません」


その答えは迷いなく、だからこそ重かった。


「先方と良い関係を築けるなら、それを望んでおります。誠実でありたいとも思っております。ですが、誠実であることと、何も持たずに差し出されることは同じではありません」


次席官の目が、わずかに細くなる。

今の一言で、王女の立ち位置がはっきりしたのだろう。これは感情に駆られた一時の不安ではない。役目を理解した上で、それでも必要な線を引こうとしている。


記録管理官が、草案の一箇所を指先で押さえた。


「この『殿下個人の書簡の留め置き及び選別の禁止』ですが」


そこへ来るだろうと、リディアは思っていた。


「王家との公的な報告経路を整えることには異論ございません。ただ、個人書簡までを明記するとなると、向こうの家の内側へ踏み込むと受け取られかねません」


「踏み込む必要があるからです」


ヘレナが言う。


今度は、ほんのわずかに声が低かった。


「王家への報告だけが残れば、私は役目を果たしております、という言葉しか送れなくなる気がいたします」


その瞬間、記録管理官の顔から、ごく薄く事務的な仮面が外れたように見えた。


ヘレナは視線を逸らさない。


「私は王女ですから、公的な報告は当然必要です。ですが、それだけでは足りません。私自身の言葉が、途中で選ばれたり留められたりしないことも、同じくらい必要です」


「殿下ご自身の言葉、ですか」


次席官が繰り返す。


「はい」


「そこまでを文面に置く必要がある、と」


「あると思っております」


短い応酬だった。

けれど、その短さのわりに、部屋の空気は確実に動いていた。


ここまで来ると、もう「不安が募っておられるのですね」と穏やかに片づけるわけにはいかない。ヘレナはすでに、どこを守りたいのかを具体的に示し始めている。


次席官はゆっくりと息を吐いた。


「……わかりました。少なくとも、殿下がこれを感情の勢いで出しておられるわけではないことは理解しました」


その言い方は」


その言い方は、半分は譲歩で、半分は確認だった。


ヘレナは頷いた。


「ありがとうございます」


「ただし」


次席官はすぐに続けた。


「理解したことと、このままで通ると申し上げることは別です」


「ええ」


「文面の立て方は、なお見直す必要がございます。とくに、帰還請求と書簡、それに帯同者の維持は、先方がもっとも強く構える箇所でしょう」


そこで初めて、リディアは口を開いた。


「その三つが、もっとも落としてはならない箇所でもあります」


部屋の視線が一度こちらへ向く。


次席官は、表情を変えなかった。


「エーヴェル令嬢は、そのようにお考えですか」


「はい」


リディアは簡潔に答えた。


「ほかの項目は見せ方や順番を工夫できます。ですが、帰還、書簡、帯同者が曖昧になれば、殿下の退路と孤立防止が崩れます」


記録管理官が言う。


「退路、ですか」


「そうです」


「婚姻の場に、その言葉をあまり前へ出すべきではないと申し上げたなら」


「前へ出さなければ、後ろにも残りません」


言ってから、部屋がしんと静まった。


少し強かったかもしれない、と一瞬思う。

だが撤回する気にはなれなかった。


次席官はリディアを見たあと、ゆっくりとセオドアへ視線を移した。


「法務局としても、同じ整理ですか」


「同じです」


セオドアは即答した。


「表現や順序の再検討には応じられます。ただし、帰還、書簡、帯同者の三点を空洞化させる修正には応じられません」


その言い方に、次席官はようやく小さく苦笑した。


「なるほど。今日は、その線を確かめる場でもあったわけですな」


セオドアは否定しなかった。


ヘレナは机上の草案へ目を落とし、静かに言った。


「私は、全部を私の思いどおりに通したいわけではありません」


その声音に、部屋の空気がまた少し変わる。


「ですが、どこを落としてはならないかだけは、最初に申し上げておきたいのです」


王女は一枚目を閉じ、二枚目へ手を置いた。


「帰ることができること。言葉が届くこと。そばにいる者を、私の知らぬうちに失わずに済むこと」


それは草案の言葉より少しやわらかい、けれど中身は同じ三つだった。


「そこが曖昧になるなら、この草案を出した意味が薄れます」


誰もすぐには答えなかった。


次席官は、しばらく王女を見つめ、それから記録管理官と目を交わした。何かを測っている顔だった。王女の本気をか、あるいはこの先に起きる揉め方の大きさをか。


やがて彼は草案の端を整え、静かに言った。


「承知しました。まずは、この三点を芯として扱う前提で、文言の見直しに入りましょう」


それは受諾ではない。

だが拒絶でもなかった。


少なくとも、もうこの草案を「王女殿下のご不安」として脇へ置くことはできなくなったのだ。


ヘレナははっきりと頷いた。


「お願いいたします」


会議は、そこでようやく次の段階へ進んだ。


抽象的な反対から、具体的な削り合いへ。

誰がどう困るかを曖昧にしたままでは済まない場所へ。


机上の紙は変わらない。だが、それを囲む人間の見方は、さっきまでとは確実に違っていた。


会議が終わり、次席官と記録管理官が退出したあと、部屋には三人だけが残った。


扉が閉まると、ヘレナは背もたれへほんの少しだけ身を預けた。大きく崩れるわけではない。だが張っていたものが、一瞬だけほどけたのがわかった。


「……思っていたよりも、はっきりとお尋ねになるのですね」


誰にともなく言ったその声に、リディアはかすかに口元を和らげた。


「殿下が曖昧に退かれないとわかったからでしょう」


ヘレナは机上の草案を見下ろした。


「先ほど、はいと申し上げたとき」


「はい」


「少しだけ、怖かったのです」


正直な一言だった。

だが今のヘレナは、怖さを告白することと、退くことを同じにしていない。


「それでも、言えてよかったと思っております」


その言葉に、リディアは短く頷いた。


「言わなければ、きっと今日のまま丸められていたでしょう」


セオドアが、机上の草案を整えながら低く言う。


「次は、丸めるのではなく、削ってきます」


ヘレナは彼を見た。


「ええ。そうでしょうね」


王女の声は静かだった。

けれど、もう最初の問いに怯えていた人のそれではなかった。


セオドアは整えた紙束の上へ指を置いた。


「では次は、どこを守るかをもっとはっきりさせましょう」


彼のその言葉とともに、机上の草案は、ただの意向確認の紙ではなくなった。


次に進めば、もう具体的に削られる。

何を残し、何を退かせず、どこで線を引くかを決めなければならない。


ヘレナは草案の二頁目を開き直した。


その先に並ぶ文言を見つめながら、静かに言う。


「では、見せ方ではなく、中身の話をいたしましょう」


部屋の空気が、また少しだけ引き締まった。


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