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「愛があれば十分だ」と私を捨てた婚約者へ――では、その婚約破棄の条件から確認いたしましょう  作者: 師走
第3章 王女の不安に名前をつける

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8、最初の一手

草案が整ったのは、その翌々日の夕刻だった。


場所は前と同じ書庫ではなく、離れの奥にある小さな控え室だった。書庫ほど広くはないが、扉が厚く、机がひとつあるだけの部屋は、かえって話を定めるには向いていた。


机の上には、セオドアが法務局の形式へ落とし込んだ草案が置かれている。


前回までの手書きの覚え書きとは違う。文言は整えられ、項目ごとに番号が振られ、どこから見ても正式な案件の入口に立つ紙になっていた。


ヘレナは着席してから、しばらくその束を見つめていた。


帰還条件。

書簡の独立。

帯同者の維持。

個人財産の区分。

王家との定期確認。

重大違反時の保全措置。

解除条項。


もう見慣れたはずの見出しなのに、整った書式の上に並ぶと、重みが違って見える。

これを出せば、言い逃れはしにくい。曖昧な相談ではなく、王女本人の意思を含んだ条件草案として受け取られる。


ヘレナは最初の頁をめくった。


「……ずいぶん、厳しく見えますね」


「実際、厳しい内容です」


セオドアが答えた。


「ですが、無理なことは書いておりません。守るために必要なことを、削られにくい順に並べただけです」


王女はその言葉を聞き、もう一度紙へ目を落とす。


前回なら、その厳しさに気後れしたかもしれない。

だが今のヘレナは、ためらいながらも、視線を逸らさなかった。


リディアは机上の第二案へ手を伸ばした。


「順番を少し変えてあります」


「順番を」


「はい。最初に解除条項を見せると、それだけで反発を招きやすいので。まずは帰還と書簡、それから帯同者です。殿下が守りたいものが何か、先に見える形にしました」


ヘレナはその説明に、小さく頷いた。


「終わらせるためではなく、保つための条件だとわかるように、ですか」


「そのとおりです」


王女はしばらく黙っていたが、やがて頁を繰りながら、ある一箇所で指を止めた。


殿下本人からの請求により、王家側は速やかに協議を開始すること。


そこを見つめたまま、ヘレナが言う。


「この文言は残していただきたいのです」


「残します」


リディアは即答した。


「削られやすい箇所でもありますが、ここが落ちると、殿下の退路が他人の判断だけになります」


「ええ。ですから、そこは落としたくありません」


言い方が、前とは違った。


まだ声は静かだ。けれど、相手に委ねる口調ではない。

自分で選び、自分で線を引く人の声音だった。


セオドアが別紙を一枚差し出す。


「提出の順ですが、いきなり大きくは上げません。まずは内廷で婚姻実務を預かる者に限定して回します。その上で、殿下のご意思として正式に乗せる」


「父上へ直接ではなく」


「今はまだ、そのほうがよろしいかと」


ヘレナは少し考え、頷いた。


「反対を集める前に、形を定めるのですね」


「はい。広い場へ先に出すと、“王女の婚姻とはそういうものだ”で丸められやすい。そうなる前に、何を落とせず、どこが争点になるかを固定したいのです」


王女は紙を閉じた。


「誰が最初に見ますか」


セオドアが答える。


「婚姻実務を預かる内廷局の責任者と、王家側の記録管理を担う書記官です。どちらも、後で知らなかったとは言えない立場です」


「味方になってくださる方々ではありませんね」


その言い方に、セオドアはわずかに目を上げた。


「敵でもありません。ただ、慣例の側に立ちやすい方々です」


「だから最初なのですね」


「はい」


やわらかな反対より先に、やわらかな整理で削られないようにする。

その順番が重要なのだと、ヘレナももう理解している顔だった。


リディアは、王女の前に置かれた草案の束へ視線を向ける。


「殿下」


「はい」


「この草案は、法務局と私どもだけでは出せません。殿下のご意思として置かれて初めて意味を持ちます」


ヘレナは黙って聞いている。


「ですから、今ここで、もう一度だけうかがいたいのです。怖さではなく、願いとして」


控え室は静かだった。

扉の向こうの気配も遠く、三人の息遣いだけが小さく届く。


王女は、机の上で両手を重ねた。


「私は」


その出だしに、最初の書庫での面会が、ふと重なる。

あのときもヘレナは自分の言葉を探していた。だが今の沈黙は、押し戻されそうな人のものではない。


「私は、この婚姻を拒みたいわけではありません」


王女は、はっきりとそう言った。


「国のために役目を果たすことから逃げたいわけでもありません。先方と良い関係を結びたいと思っておりますし、できるかぎり誠実でありたいとも思っています」


そこまで言ってから、草案の束にそっと手を置く。


「ですが、それは、何も持たずに差し出されることとは違います」


リディアは何も挟まなかった。

言うべきことを、今は王女自身に言わせるべきだと思った。


「戻れる道を残したいのです。王都とのつながりを切りたくありません。私のそばに、私の言葉を知る者を置きたい。向こうの家へ入っても、それで王家の娘としての線まで失う形は受け入れられません」


ヘレナはそこで、ゆっくりと顔を上げた。


「それが、私の望みです」


部屋の空気が、すっと定まった気がした。


怖いと認めるところから始まった言葉が、ようやくここまで来たのだ。

守られたいではない。逃げたいでもない。どういう形なら受け入えられるのかを、自分の言葉で言えるところまで。


セオドアが短く頷いた。


「十分です」


ヘレナは、かすかに目を細める。


「十分、ですか」


「はい。これで、誰が何を軽く扱おうとしているのかが見えます」


その言い方に、王女の口元がほんの少し和らいだ。


リディアもまた、胸の内で静かに息をつく。

ここまで来れば、もう曖昧には戻らない。戻してはならない。


王女は草案の最後の頁を開き、そこに添えられた提出前確認の欄へ目を落とした。


正式な署名ではない。だが、本人確認として記すには十分な印だ。

この印を置けば、草案はただの相談ではなくなる。


ヘレナは筆を取った。


持ち方に迷いはない。けれど筆先が紙に触れる直前、ごく短く止まる。

ためらいが消えたわけではないのだろう。反発も、面倒も、その先に待つ視線も、きっと見えている。


それでも王女は、静かに印を置いた。


小さな音だった。

けれど、その一筆で部屋の空気が変わる。


セオドアが草案を受け取り、乾きを待つあいだ、誰も喋らなかった。


やがて彼は紙を閉じ、革挟みに収める。


「これで、第一案として上げられます」


「反応は、荒れるでしょうか」


ヘレナが問う。


セオドアは少しだけ考えたあと、率直に答えた。


「ええ。穏やかには済まないでしょう」


王女はその答えに、目を伏せるでも笑うでもなく、ただ静かに受け止めた。


「そうでしょうね」


リディアはその横顔を見た。


最初に会った日のヘレナなら、その先を思ってまた口をつぐんだかもしれない。

けれど今は違う。怖さを知った上で、黙らない側に立とうとしている。


「殿下」


呼ぶと、王女は顔を上げた。


「ここから先は、もう不安を説明する段階ではありません。守るべきものを、守るために出す段階です」


ヘレナは静かに頷いた。


「はい」


「反発はあるでしょう。細かすぎると言う方も、王女の婚姻にそこまで要るのかと言う方もおられるはずです」


「ええ」


「ですが、そのたびに戻る必要はありません。殿下が何を望んでおられるかは、もうここにあります」


リディアが草案へ視線を落とすと、王女もまたその束を見た。


戻れること。

つながり続けること。

そばにいる者を奪われないこと。

王家の娘でなくならないこと。


それらはもう、胸の内の願いではなく、紙の上の条件になっている。


ヘレナは小さく息を吸った。


「……不思議ですね」


「何がでしょう」


「数日前まで、私はただ、怖いと思っていることを口にしてよいのかわからなかったのです。それが今は、何を落としたくないかまで考えている」


その言葉に、セオドアが簡潔に返す。


「当事者になられたのでしょう」


ヘレナは、その一言を少し驚いたように受け止め、それからゆっくりと頷いた。


「そうかもしれません」


控え室の外で、遠く人の足音がした。

そろそろ、これ以上は長居できない。


セオドアは革挟みを抱え直す。


「本日中に、最初の二名へ回します。明日には、どこが争点になるか見えるはずです」


「お願いします」


ヘレナはそう言い、次いでリディアへ視線を向けた。


「リディア嬢」


「はい」


「来てくださって、よかったです」


まっすぐな言葉だった。

飾りがなく、だからこそ重い。


リディアは一瞬だけ返事に迷い、それから静かに答える。


「私もです」


それはたぶん、思っていた以上に本心だった。


婚約を失った数日後に、自分が王女の婚姻条件にここまで深く関わることになるとは想像していなかった。

けれど今は、偶然巻き込まれた気はしていない。見えてしまったからではある。だが、それだけでもなかった。


この草案を出せば、面倒は増える。

王家の中にも、先方にも、社交界にも波は立つ。

それでも、このまま何も言わず送り出すより、ずっとましだと、もう迷わず思える。


セオドアが扉のほうへ一歩下がる。


ヘレナは席を立たず、その場で二人を見送る姿勢を取った。

だが、その座り方も眼差しも、最初に会ったときとは違っている。与えられる説明を待つ人ではなく、自分の条件を出した人の姿だった。


リディアは扉の前で、最後に振り返った。


王女は草案のなくなった机を見下ろし、それからゆっくりと顔を上げた。

もう迷いの色だけではない。怖さを残したまま、それでも前へ出る覚悟が、その静かな眼差しにあった。


その顔を見て、リディアの胸の内でも何かが定まる。


ここから先、自分はただ助言するだけでは済まない。

この案件へ、本格的に入るのだ。


王女のために。

それだけではない。


守る条件のない約束が、どれほど容易く弱い側を沈めるか。

それを見たまま、また曖昧さへ返す気にはなれなかった。


扉の外へ出る前に、リディアはヘレナへ向けて、はっきりと言った。


「では、守るための条件を出しましょう。」


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