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第二節

 呼ばれたのは、春が近くなってからだった。


 雪が溶けはじめて、中庭の石が濡れている。ティアの部屋の窓辺で、鉢の草が新しい葉を出した。五枚目だった。ティアが数えて、私に報告した。


 その日の午後、使いが来た。

 通されたのは、儀式の間だった。

 人がいた。王妃陛下と、ユーリ様。シリルさんと、ニクラスさん。それから、大神官様。

 円の白い線は、引き直されていた。

 前より濃い。塗ったばかりの色をしている。文字も増えていた。円の外側に、二重目の輪ができている。


「外側は、逆に回すための輪です」


 シリルさんが言った。私が見ているのに気づいたらしい。


「あなたが来たときは、一重でした。呼ぶのと返すのでは、要る手順が違いますので」


「はい」


「ミオリ」


 王妃陛下が言った。


「座って」


 椅子が用意されていた。私だけが座った。他の人は立っていた。それが、居心地の悪さを増した。


「話は、ユーリからします」


 ユーリ様が、一歩前に出た。

 その人は、この冬でまた少し痩せていた。目の下は変わらない。今日は青い上着だった。


「ナナセ殿。陣の準備が整いました」


「はい」


「星合の夜は、十五日後です」


 十五。

 頭の中に、数が置かれた。


「その夜、あなたを元の場所へお戻しできます。代償はありません。大地から借りるので、誰の身も削りません」


「はい」


「陣の起動は、ヴァレンス殿と神殿が共同で行います。大神官猊下からも、人を出していただきました」


 大神官様が、少し頷いた。


「戻る先は、あなたが来た場所と時です」


 シリルさんが言った。


「正確には、時は分かりません。同じ場所へは戻せます。時については、こちらの一年ぶんが向こうでどれだけかを、我々は知らないので」


「一年経ってないかもしれないってことですか」


「あるいは、十年経っているかもしれません」


 その人は、はっきり言った。


「分からないことを、分かるとは言いません」


 私は、頷いた。

 頷いてから、床の白い線を見た。


「ナナセ殿」


 ユーリ様が言った。


「もう一つ、申し上げなければなりません」


「はい」


「星合の夜は、三年に一度です」


 私は、顔を上げた。


「今回を過ごせば、次は三年後になります」


「三年」


「はい」


 その人は、それだけ言った。


 それだけで、十分だった。


 私は、椅子に座ったまま、指を折っていた。

 折ってから、自分が何を数えているのか分からなくなって、やめた。


 一年前、私は同じことをした。あのとき、この人が帰れると言って、私は「よかった」と言った。声に出して言った。ありがとうございます、と言った。


 あのときは、十二を数えた。四月から四月まで。

 今度は、三十六だった。


 今度帰らなければ、ティアは八つになる。


「ミオリ」


 王妃陛下の声だった。


「返事は、今日でなくて構いません」


「はい」


「十五日あります。十四日目までに決めてください。──準備に一日かかります」


「はい」


「それから、一つだけ」


 その人は、円のほうへ歩いた。

 歩いて、線のふちで止まった。


「私たちは、あなたに残ってほしいと思っています」


 言い切られた。


「それは、あなたに知らせておくべきだと思いました。隠して選ばせるのは、卑怯なので」


「はい」


「その上で、選んでください」


 私は、頷いた。


「ミオリ。もう一つ」


「はい」


「あなたが残ると言った場合、私たちは喜びます。喜んだあとで、たぶん、あなたに何かを頼みます」


 その人は、こちらを向いた。


「人は、そういうものです。──それを承知の上で、選んでください」


 部屋を出たのは、日が傾いてからだった。

 廊下を歩いていたら、後ろから足音がした。


 ユーリ様だった。


「ナナセ殿」


「はい」


「先ほどの、母の言い方は」


「あの、大丈夫です」


「母は、そういう人です」


「はい。知ってます」


 その人は、少し黙った。


「十五日です」


「はい」


「私は、帰っていただきたいと申し上げました。秋に」


「はい。覚えてます」


「あれは、今も変わりません」


 その人は、そう言った。

 言って、それから、少し目を伏せた。


「変わりませんが、──いえ」


「はい」


「何でもありません」


 私は、待った。


 この人が言いかけてやめるのを、私は何度も見ている。見ているので、待てるようになった。

 待ったけれど、続きは来なかった。

 その人は頭を下げて、廊下を戻っていった。


 部屋に戻って、椅子に座った。

 窓の外が、暗くなりはじめていた。日没の鐘は、冬より少し遅くなっている。春が来ている。

 私は、机の引き出しを開けた。

 紙の束が入っている。いちばん下に、いくつか入っていた。


 ユーリさんの家の絵。四角と三角。点が二つと、横線が一本。

 自分の名前を書いた紙。ナ、ナ、セ、ミ、オ、リ。この国の字で。

 配備の表。もう使われていない。


 それから、鑑定書。


 全部出して、机に並べた。

 並べて、しばらく見ていた。


 園のことを、思い出そうとした。


 りっちゃんの顔は、出てきた。牛乳を残す子だ。うさぎのワッペン。走ってくるお母さん。大野先生。オルガンの右のペダルの軋み。


 全部、出てきた。

 出てくるのに、遠かった。

 遠いというのが、うまく言えない。忘れているわけではない。思い出せる。思い出せるのに、それが自分の生活だという感じがしなかった。


 私は、五月の壁面のことを考えた。

 こいのぼりのうろこ。二十一枚。切りかけで、あの部屋に置いてある。

 あれを切った日から、こっちに来た。


 だから、あの部屋の畳の上には、まだ切れ端が散らばっているはずだった。えらいねシールの台紙も、半分だけ剥がされたまま。


 誰かが片付けただろうか。

 片付けていたら、私が戻ったとき、部屋はきれいになっている。片付けていなかったら、そのままだ。

 どちらでも、私は困らない。

 困らないと思ったことが、少し怖かった。


 扉が叩かれた。


「みおり様」


 イルゼさんだった。

 私は紙を集めて、引き出しに戻した。戻す前に、鑑定書だけ手に持っていた。


「はい」


「殿下が、お呼びでございます。草に水をやる日だと」


「あ」


 私は立ち上がった。


「三日に一度でしたね」


「本日で、二十四回目でございます」


 その人は、そう言った。


 数えていた。

 この人も、数える人だった。


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