第一節
屋敷まで、走った。
馬車を待つと言われたけれど、待てなかった。団長さんも走った。雪が残っていて、二回滑った。二回目は転んで、腕を掴まれて起こされた。
部屋には、人がいた。
あの年配の女の人と、それから医者。二人とも寝台の横に立っている。
「どこですか」
私は聞いた。声が掠れた。
「右手でございます」
女の人が言った。
「わたくしが手を拭いておりました。指のあいだを拭いていたときに」
「動いた」
「握るように、ほんの少し」
私は、寝台の横に膝をついた。
セシリアさんの右手が、掛布の上に出ていた。細い。爪が短く切ってある。誰かが切っている。
その手を、見た。
動かなかった。
医者が、私の後ろで言った。
「動くことは、あります」
「え」
「長く寝ておられる方は、時々こういうことが起きます。目が開くこともある。──眠っておられるからといって、体が止まっているわけではないので」
私は、振り返った。
「じゃあ、これは」
「分かりません」
医者は、正直な人だった。
「意味のある動きか、そうでないかを、私は区別できません。──ただ、この三年、この手が動いたのは初めてです」
団長さんが、寝台の向こう側に立っていた。
立ったまま、妹さんの手を見ていた。何も言わなかった。息が上がっているのが、こちらまで聞こえた。
「あの」
「なんだ」
「歌ってもいいですか」
その人が、こちらを見た。
「声は」
「少しなら」
「無理はするな」
「はい」
私は、手を取った。
温かかった。前と同じだった。
息を吸って、歌った。
声はすぐに掠れた。掠れたところで止まって、また続けた。旋律にならない。音が飛ぶ。三年歌ってきた歌が、こんなに壊れた形で出るのは初めてだった。
それでも、名前を呼んだ。
セシリアさん、おやすみ。
喉が、熱くならなかった。
何も来なかった。ただ痛いだけだった。
私は、最後まで歌った。
指は、動かなかった。
歌い終わって、手を離した。離してから、団長さんのほうを見た。
その人は、まだ立っていた。
「済まん」
「え」
「走らせた。あなたの喉に、悪いことをした」
「いえ」
「動くかもしれんと、思ったのだ」
その人は、そこで少しだけ笑った。
笑ったというより、口の端が動いた。前にも見た顔だった。
「三年、期待するのをやめていた。──やめていたつもりだった」
私は、何も言えなかった。
言えないまま、セシリアさんの手を見ていた。
動かない手だった。爪が短く切ってある。誰かが切っている。
この手は、三年前に扉を押さえた。
私は、それを思い出していた。
年が明けた。
この国の正月は、日が延びはじめる日だと聞いた。決まった日付があるわけではなく、神殿が決める。決まると鐘が鳴って、その日は誰も働かない。
城下で火を焚くのだと、エルナさんが言った。
「明日、来なよ。あんた書あるんでしょ」
「あります」
「じゃあ一人でも通れるじゃん」
その通りだった。
でも、一人で門を通ったことはまだない。通れると言われても、通り方が分からない。
「一緒に行きます」
「そう言うと思った」
火は、広場で焚かれていた。
あの広場だった。井戸があって、預かり場があって、下手な子守唄を歌うおばあさんがいたところ。
人が集まっていた。百人以上いる。子どもが走り回っていて、大人が酒を飲んで、誰かが弦を鳴らしていた。
私は、その端に立っていた。
エルナさんが、途中で誰かに捕まって、そのまま酒を飲まされていた。強い人だった。三杯飲んでも顔色が変わらない。
「ミオリ、飲む?」
「あの、私、弱いので」
「一口」
一口飲んだ。喉が焼けた。別の意味で。
咳き込んだら、周りの人が笑った。
火のそばに、詰所の人たちがいた。
半分くらいは知っている顔だった。ベルさんもいた。杖をついている。歩けるようになったらしい。
その人が、私を見つけて、手を上げた。
私も上げた。
しばらくして、エルナさんが戻ってきた。手に椀を二つ持って、片方を押しつけてきた。今度は水だった。
「ミオリ」
「はい」
「今年、七人だって」
「はい。聞きました」
「私は昨日。団長が隊に読み上げた」
その人は、火を見ていた。
「去年、二十六」
「はい」
「私さ、去年の正月、ここにいなかったの」
「え」
「東の詰所で、遺族に渡す荷物の仕分けやってた。正月に呼ばれて。──六人ぶん」
火が、爆ぜた。
誰かが薪を足したらしい。子どもが歓声を上げた。
「今年は、こうしてる」
エルナさんは言った。
「今年も誰か死んでるけど。七人死んでる。でも、こうしてる」
「はい」
「これ、あんたのおかげだって、誰も言わないの」
その人の声が、少し変わった。
「言わないんだよ。誰も。──だって、死ななかった人は、死ななかっただけだから。何も起きてないから」
「はい」
「腹立つ」
言って、その人は椀の水を飲んだ。
飲んで、それから、乱暴に袖で口を拭った。
「腹立つんだよ、私は」
声が、途中で崩れた。
私は、その人の顔を見た。
泣いていた。泣きながら、怒っていた。
「あんた、来年もいるでしょ」
私は、答えられなかった。
答えられないことに、自分で驚いた。
「いるよね」
「エルナさん」
「いるって言って」
火が大きくなって、そこにいた人たちの顔が明るくなった。
子どもが誰かの膝に乗っている。おばあさんが座っている。ベルさんが杖を椅子に立てかけて、両手で椀を持っている。
私は、その全部を見ていた。
見ながら、まだ、答えられなかった。




