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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第8章「冬の門」

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第五節

 評定の日、雪が積もっていた。


 朝のうちに止んで、中庭が白くなっていた。誰かが道をつけている。歩くところだけ、石が出ていた。

 広間は、前より人が多かった。

 四十人はいる。壁際が二重になっていた。前のときにいなかった顔がある。


 灰色の衣が三人、後ろのほうに座っていた。

 三人とも、知っている人だった。


 ヨナさんとティルダさんが並んでいる。少し離れて、ロレンツさん。誰かが手を引いてきたのだと思う。

 ティルダさんが、私を見つけて、胸に手を当てた。

 私も、胸に手を当てた。

 やり方が合っているかどうかは、まだ分からない。


 私は中央に立たされた。

 名前が読み上げられた。ナナセ・ミオリ。読み上げたのは、前と同じ人だった。


「大神官猊下より、申し立ての継続がございます」


 老人が前に出た。

 冬のせいか、前より痩せて見えた。杖をつく手の甲に、筋がはっきり出ている。


「ナナセ・ミオリ殿」


「はい」


「印は」


「消えました」


「いつか」


「二十日ほど前です」


「見せていただけるか」


 私は襟を引いた。


 四十人が見た。


 何もない。鎖骨のところに、うっすらと色が残っているだけ。それも、光の加減では見えない。

 広間が、ざわついた。


 老人は、こちらを見ていた。

 長く見て、それから、広間のほうを向いた。


「申し上げる。──ナナセ・ミオリ殿は、現在、いかなる特性の保持者でもない」


 誰も否定しなかった。


「印なく、書なく、名簿にもない。この国において、この方は何者でもない」


 その通りだった。

 私は、下を向かなかった。下を向くと、認めたことになる気がした。


「したがって、申し立てを続ける。この方の職務を、すべて解くこと。──前回、王女殿下の御側については取り下げた。今回は、そこにも及ぶ」


「猊下」


 団長さんの声だった。


「特性なき者を、王女殿下の御側に置く理由があるか」


「あります」


「述べられよ」


「この方は、二日前、私の隊の者に飯を食わせています」


 広間が、少し静かになった。


「ベル・カーニュという者です。先の門で腿を裂かれ、運び込まれたときに左の手首も折れていた。あとで分かったことです。──寝台から動けず、匙を持つ手が使えん」


「それは、慈悲であろう」


「慈悲では、こぼしません」


「……何と」


「慈悲でやるなら、こぼれない食わせ方をします」


 団長さんは言った。


「匙を小さくして、口元へ運んでやればいい。そのほうが早いし、寝具も汚れん。私ならそうします」


「では、この方は何をしておる」


「持たせています」


 その人は言った。


「折れていないほうの手に、匙を持たせて、自分で食わせている。──こぼれます。毎回こぼれます。それでも、この方は持たせている」


 老人は、答えなかった。


「あの者は最初の二日、ほとんど食えませんでした。人に食わせてもらうのを嫌がって、口を開けなかった。──今は食っています」


「アッシュフォード殿。話が逸れておる」


「逸れてはおりません。猊下は、特性なき者にできることはないと仰った。今、私は、特性なしでできたことを一つ申し上げた」


 老人は、杖を持ち替えた。


「ヴァレンス殿」


「はい」


 シリルさんが前に出た。紙の束を持っている。


「数を出されるのだったな」


「はい」


「聞こう」


「今年の騎士団の死者は、七名です」


 広間が、静かになった。


「昨年は二十六名。一昨年は二十二名」


 その人は、紙を見ずに言った。


「十九名、減っています」


 誰かが、何か言った。声にならない音だった。


「内訳を申し上げます。ナナセ殿が同行した遠征と巡回は二十回。この二十回における死者は、ゼロです」


「同行せぬ回は」


「七名です。すべて」


 老人は、しばらく黙っていた。


「──それは、この方の力によるものだと言うのか」


「断定はしません」


 シリルさんが言った。


「私は数値の話しかできません。因果は証明できない。──ただ、二十回連続でゼロが出る確率を、私は計算しました」


「述べよ」


「例年、遠征と巡回はあわせて年に百回ほど出ます。そのうち死者が出るのは、およそ四回に一回」


 その人は、指を一本立てた。


「四回に三回はゼロです。ゼロが二十回続く見込みは、およそ三百分の一になります」


「三百回やって、一回」


「そうです」


 その人は、指を下ろした。


「私は、これを偶然とは呼びません。呼びたい方がいれば、どうぞ」


 誰も、何も言わなかった。


「猊下。もう一点」


「なんだ」


「ナナセ殿の力が失われたかどうかは、現時点で不明です」


「印は消えておる」


「はい。ですが、この方の力は歌に出ます。歌が測れていないので、判定できません」


「歌えぬのか」


「喉を痛めています」


 シリルさんは、そこで一度、こちらを見た。


「先の門で、隊の者を一人、引き戻したときに」


 老人が、私を見た。

 目が合った。灰色の、色の薄い目だった。


「──ナナセ・ミオリ殿」


「はい」


「それは、まことか」


 私は、答えた。


「分からないです」


 広間が、また静かになった。


「あの、私がやったのかどうかは、分からないです。歌ったのは本当です。でも、あの人が助かったのは、押さえてくれた人がいたのと、医者が早かったのと、あと、あの人が強かったからだと思います」


「それだけか」


「はい」


 老人は、杖を床についた。

 音が、広間に響いた。

 それから、その人は言った。


「──先日、神殿の裏で、あなたが歌うのを見た」


 私は、顔を上げた。


「ハイムの喉が動いた。私はそれを見ておる」


 誰かが息を吸った。

 後ろのほうで、ロレンツさんの顔が、少し上を向いた。


「音は出ておらぬ。何も戻っておらぬ。あれをもって、戻る証とは言えぬ」


「はい」


「言えぬのだ。……三年、あの者たちは何も戻らなかった。何も戻らぬまま、私は毎日、あの者たちの前を通った」


 その人の声が、少し変わった。


「私は、期待をさせぬために、期待を禁じた。それが神殿の長として正しいと思っていた」


 誰も、何も言わなかった。


「先日、ハイムが私のところへ来た」


 老人は言った。


「板を持ってきた。書いてあったのは、一行だ」


 その人は、そこで止まった。

 止まって、杖を持ち直した。


「──また来るか、と」


 私は、口を押さえた。

 押さえたのは、声が出そうになったからだった。


「あの者は、三年、何も求めなかった。求めても得られぬと知っておったからだ。……知らせたのは、私だ」


 老人は、広間のほうを向いた。


「申し立てを、取り下げる」


 ざわめきが、大きくなった。


「猊下」


「取り下げると申した」


 その人は、杖を左手に持ち替えた。

 持ち替えて、それから、こちらを向いた。


 頭を下げた。

 深く、長く。


 広間の全員が、動きを止めた。


「ナナセ・ミオリ殿。神殿は、あなたを異端とした。あなたの印が生まれつきでないことを理由に、書を出さなかった。……その判断について、私は今も、規定に照らして誤っていないと考えている」


「はい」


「だが、規定のほうが誤っておった」


 頭が上がった。


「先例がないなら、作らねばならぬ。それを九か月やらなかったのは、私の怠慢だ」


 その人は、後ろの誰かに手を上げた。

 灰色の衣の一人が、板を持って前に出た。


「書を出す。書式を新たに立てる。──後より現れ、後より消えたる印を、我らは記す」


「猊下、それは前例が」


「作ると言った」


 老人は、そう言った。

 それから、私のほうへ一歩来た。


「ナナセ・ミオリ殿。書には、消えたことも記される。あなたの印は、あったこと、消えたこと、その両方が書に残る。──それでよろしいか」


 私は、頷いた。

 頷いてから、声を出した。


「はい」


 書は、その日のうちに作られた。

 厚い紙だった。表に文字が並んでいる。私は読めなかった。古語だった。


「読み上げましょうか」


 ニクラスさんが言った。

 私は頷いた。

 その人は、書を持って、ゆっくり読んだ。


「ナナセ・ミオリ。異界より来たる者。喉に印を持つ。補助の特性。──印は召喚の日に現れ、九か月と十日ののち消えた」


「はい」


「以上を、神殿が記す」


 それだけだった。

 思っていたより、短かった。


 私はその紙を両手で持った。持って、しばらく見ていた。読めない文字が並んでいる。この国の人も、たぶん、ほとんど読めない。


 それでも、この紙があれば、私は門を通れる。市に入れる。宿に泊まれる。名簿に載る。


 九か月と十日。

 私がここにいた日数を、誰かが数えていた。


 十日後の朝だった。

 ティアの部屋で手習いをしていたら、廊下が騒がしくなった。

 走る音だった。近づいてくる。

 扉が開いた。

 団長さんだった。外套も着ていない。息が上がっている。この人が走るのを、私は初めて見た。


「ナナセ殿」


 声が掠れていた。


「指が」


「え」


「指が、動いた」

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