第五節
評定の日、雪が積もっていた。
朝のうちに止んで、中庭が白くなっていた。誰かが道をつけている。歩くところだけ、石が出ていた。
広間は、前より人が多かった。
四十人はいる。壁際が二重になっていた。前のときにいなかった顔がある。
灰色の衣が三人、後ろのほうに座っていた。
三人とも、知っている人だった。
ヨナさんとティルダさんが並んでいる。少し離れて、ロレンツさん。誰かが手を引いてきたのだと思う。
ティルダさんが、私を見つけて、胸に手を当てた。
私も、胸に手を当てた。
やり方が合っているかどうかは、まだ分からない。
私は中央に立たされた。
名前が読み上げられた。ナナセ・ミオリ。読み上げたのは、前と同じ人だった。
「大神官猊下より、申し立ての継続がございます」
老人が前に出た。
冬のせいか、前より痩せて見えた。杖をつく手の甲に、筋がはっきり出ている。
「ナナセ・ミオリ殿」
「はい」
「印は」
「消えました」
「いつか」
「二十日ほど前です」
「見せていただけるか」
私は襟を引いた。
四十人が見た。
何もない。鎖骨のところに、うっすらと色が残っているだけ。それも、光の加減では見えない。
広間が、ざわついた。
老人は、こちらを見ていた。
長く見て、それから、広間のほうを向いた。
「申し上げる。──ナナセ・ミオリ殿は、現在、いかなる特性の保持者でもない」
誰も否定しなかった。
「印なく、書なく、名簿にもない。この国において、この方は何者でもない」
その通りだった。
私は、下を向かなかった。下を向くと、認めたことになる気がした。
「したがって、申し立てを続ける。この方の職務を、すべて解くこと。──前回、王女殿下の御側については取り下げた。今回は、そこにも及ぶ」
「猊下」
団長さんの声だった。
「特性なき者を、王女殿下の御側に置く理由があるか」
「あります」
「述べられよ」
「この方は、二日前、私の隊の者に飯を食わせています」
広間が、少し静かになった。
「ベル・カーニュという者です。先の門で腿を裂かれ、運び込まれたときに左の手首も折れていた。あとで分かったことです。──寝台から動けず、匙を持つ手が使えん」
「それは、慈悲であろう」
「慈悲では、こぼしません」
「……何と」
「慈悲でやるなら、こぼれない食わせ方をします」
団長さんは言った。
「匙を小さくして、口元へ運んでやればいい。そのほうが早いし、寝具も汚れん。私ならそうします」
「では、この方は何をしておる」
「持たせています」
その人は言った。
「折れていないほうの手に、匙を持たせて、自分で食わせている。──こぼれます。毎回こぼれます。それでも、この方は持たせている」
老人は、答えなかった。
「あの者は最初の二日、ほとんど食えませんでした。人に食わせてもらうのを嫌がって、口を開けなかった。──今は食っています」
「アッシュフォード殿。話が逸れておる」
「逸れてはおりません。猊下は、特性なき者にできることはないと仰った。今、私は、特性なしでできたことを一つ申し上げた」
老人は、杖を持ち替えた。
「ヴァレンス殿」
「はい」
シリルさんが前に出た。紙の束を持っている。
「数を出されるのだったな」
「はい」
「聞こう」
「今年の騎士団の死者は、七名です」
広間が、静かになった。
「昨年は二十六名。一昨年は二十二名」
その人は、紙を見ずに言った。
「十九名、減っています」
誰かが、何か言った。声にならない音だった。
「内訳を申し上げます。ナナセ殿が同行した遠征と巡回は二十回。この二十回における死者は、ゼロです」
「同行せぬ回は」
「七名です。すべて」
老人は、しばらく黙っていた。
「──それは、この方の力によるものだと言うのか」
「断定はしません」
シリルさんが言った。
「私は数値の話しかできません。因果は証明できない。──ただ、二十回連続でゼロが出る確率を、私は計算しました」
「述べよ」
「例年、遠征と巡回はあわせて年に百回ほど出ます。そのうち死者が出るのは、およそ四回に一回」
その人は、指を一本立てた。
「四回に三回はゼロです。ゼロが二十回続く見込みは、およそ三百分の一になります」
「三百回やって、一回」
「そうです」
その人は、指を下ろした。
「私は、これを偶然とは呼びません。呼びたい方がいれば、どうぞ」
誰も、何も言わなかった。
「猊下。もう一点」
「なんだ」
「ナナセ殿の力が失われたかどうかは、現時点で不明です」
「印は消えておる」
「はい。ですが、この方の力は歌に出ます。歌が測れていないので、判定できません」
「歌えぬのか」
「喉を痛めています」
シリルさんは、そこで一度、こちらを見た。
「先の門で、隊の者を一人、引き戻したときに」
老人が、私を見た。
目が合った。灰色の、色の薄い目だった。
「──ナナセ・ミオリ殿」
「はい」
「それは、まことか」
私は、答えた。
「分からないです」
広間が、また静かになった。
「あの、私がやったのかどうかは、分からないです。歌ったのは本当です。でも、あの人が助かったのは、押さえてくれた人がいたのと、医者が早かったのと、あと、あの人が強かったからだと思います」
「それだけか」
「はい」
老人は、杖を床についた。
音が、広間に響いた。
それから、その人は言った。
「──先日、神殿の裏で、あなたが歌うのを見た」
私は、顔を上げた。
「ハイムの喉が動いた。私はそれを見ておる」
誰かが息を吸った。
後ろのほうで、ロレンツさんの顔が、少し上を向いた。
「音は出ておらぬ。何も戻っておらぬ。あれをもって、戻る証とは言えぬ」
「はい」
「言えぬのだ。……三年、あの者たちは何も戻らなかった。何も戻らぬまま、私は毎日、あの者たちの前を通った」
その人の声が、少し変わった。
「私は、期待をさせぬために、期待を禁じた。それが神殿の長として正しいと思っていた」
誰も、何も言わなかった。
「先日、ハイムが私のところへ来た」
老人は言った。
「板を持ってきた。書いてあったのは、一行だ」
その人は、そこで止まった。
止まって、杖を持ち直した。
「──また来るか、と」
私は、口を押さえた。
押さえたのは、声が出そうになったからだった。
「あの者は、三年、何も求めなかった。求めても得られぬと知っておったからだ。……知らせたのは、私だ」
老人は、広間のほうを向いた。
「申し立てを、取り下げる」
ざわめきが、大きくなった。
「猊下」
「取り下げると申した」
その人は、杖を左手に持ち替えた。
持ち替えて、それから、こちらを向いた。
頭を下げた。
深く、長く。
広間の全員が、動きを止めた。
「ナナセ・ミオリ殿。神殿は、あなたを異端とした。あなたの印が生まれつきでないことを理由に、書を出さなかった。……その判断について、私は今も、規定に照らして誤っていないと考えている」
「はい」
「だが、規定のほうが誤っておった」
頭が上がった。
「先例がないなら、作らねばならぬ。それを九か月やらなかったのは、私の怠慢だ」
その人は、後ろの誰かに手を上げた。
灰色の衣の一人が、板を持って前に出た。
「書を出す。書式を新たに立てる。──後より現れ、後より消えたる印を、我らは記す」
「猊下、それは前例が」
「作ると言った」
老人は、そう言った。
それから、私のほうへ一歩来た。
「ナナセ・ミオリ殿。書には、消えたことも記される。あなたの印は、あったこと、消えたこと、その両方が書に残る。──それでよろしいか」
私は、頷いた。
頷いてから、声を出した。
「はい」
書は、その日のうちに作られた。
厚い紙だった。表に文字が並んでいる。私は読めなかった。古語だった。
「読み上げましょうか」
ニクラスさんが言った。
私は頷いた。
その人は、書を持って、ゆっくり読んだ。
「ナナセ・ミオリ。異界より来たる者。喉に印を持つ。補助の特性。──印は召喚の日に現れ、九か月と十日ののち消えた」
「はい」
「以上を、神殿が記す」
それだけだった。
思っていたより、短かった。
私はその紙を両手で持った。持って、しばらく見ていた。読めない文字が並んでいる。この国の人も、たぶん、ほとんど読めない。
それでも、この紙があれば、私は門を通れる。市に入れる。宿に泊まれる。名簿に載る。
九か月と十日。
私がここにいた日数を、誰かが数えていた。
十日後の朝だった。
ティアの部屋で手習いをしていたら、廊下が騒がしくなった。
走る音だった。近づいてくる。
扉が開いた。
団長さんだった。外套も着ていない。息が上がっている。この人が走るのを、私は初めて見た。
「ナナセ殿」
声が掠れていた。
「指が」
「え」
「指が、動いた」




