第四節
声は、少しずつ戻った。
十日目に、短い言葉なら出るようになった。長く喋ると、途中で掠れて、そこから出なくなる。歌えるかどうかは、試していない。
試すのが怖かった。
出なかったら、それで確定してしまう。
塔から使いが来たのは、その翌日だった。
行くと、シリルさんはいつもの部屋にいた。机の上に紙が広げてある。蝋板ではなかった。紙のほうが大きい。
「ナナセ殿。声は」
「少し、出ます」
「では、短く答えてください。私が長く話します」
その人は椅子を勧めた。私は座った。
いつもの、半歩ぶん近い距離だった。
「本日お呼びしたのは、検証ではありません。数の報告です」
「はい」
「今年の騎士団の死者数が確定しました」
私は、顔を上げた。
「七名です」
その人は紙を回して、こちらへ向けた。
数字が並んでいる。読めた。左に月の名前、右に数。並び方が規則的で、下のほうに合計があった。
「昨年は二十六名。その前が二十二名」
「はい」
「今年、七名」
私は、その数を見ていた。
「十九名、減っています」
その人は、紙のもう一枚を出した。
「これは、あなたが同行した遠征と巡回の一覧です。二十回。そのうち、あなたが同行した回の死者はゼロ」
「はい」
「同行しなかった回の死者が、七名です」
言葉が、そこで止まった。
止まったのは、その人ではなかった。私の側だった。
「ナナセ殿」
「……はい」
「顔色が変わりましたが」
「あの、大丈夫です」
「大丈夫ではないと思いますが、続けます」
その人は続けた。
「七名のうち、二名は先日の北の門です。三名は秋の東の遠征。残る二名は、夏の巡回です」
「はい」
「いずれも、あなたは別の場所にいました」
「はい」
「あなたが行けなかった場所で、人が死んでいます」
私は、机の紙を見ていた。
数字が並んでいる。並んでいるだけだった。名前は書かれていない。
「これは、あなたを責める資料ではありません」
その人が言った。
「事実の並びです。──ただ、あなたはこれを見て、自分を責めると思います」
「はい」
「責めるべきではありません。あなたは一人しかいない。一人が同時に三つの門に立てないことは、算術の問題であって、あなたの落ち度ではない」
「はい」
「ですが、責めるなと言われて責めるのをやめられる人であれば、あなたはそもそも倒れていない」
私は、少し笑いそうになった。
笑うところではなかった。笑いそうになったのは、たぶん、この人がまったく気を遣っていないからだった。
「あの、シリルさん」
「はい」
「怒ってますか」
「なぜですか」
「言い方が」
「私はいつもこの言い方です」
その通りだった。
「この数は、明後日の評定に出します」
その人は、紙を指で押さえた。
「あなたには、先に申し上げました。──人前で初めて聞くのは、よくありませんので」
「はい」
その人は紙を戻して、それから、別の紙を出した。
「もう一つ、報告があります」
「はい」
「あなたの印は、消えました」
私は、頷いた。
知っている。毎朝、鏡を見なくなった。見ても何もないので、見る理由がなくなった。
「ヴィムに測らせました。あなたが門から戻った翌日と、その五日後です。──いずれも、通っていません」
「通ってない」
「補助魔法が発動していません。ゼロです」
言われても、意外ではなかった。
声が出ないのだから、歌えない。歌えないのだから、効かない。それは分かる。
「ただし、これは平らな詠唱での結果です」
その人は言った。
「歌については、測れていません。あなたが歌えないので」
「はい」
「ですので、力が失われたのか、声が出ないだけなのかを、私は区別できません」
「はい」
「分からないことを、分かるとは言いません」
その人は、そこで紙を置いた。
置いてから、初めて姿勢を変えた。椅子の背に少し体を預けて、指を組んだ。
「ナナセ殿。一つ、伺います」
「はい」
「これは記録のためです。答えたくなければ、答えなくて構いません」
「はい」
「あなたの力は、あってもなくても、世界を救いません」
私は、その人を見た。
「今年七名死にました。来年も死にます。あなたが万全であっても、あなたは一人で、門は三つあり、村はもっと多い。──あなたの力は、死者の数を減らします。ゼロにはしません」
その人の顔は、動いていなかった。
「これは、私が二百日ほど測って出した結論です」
「はい」
「あなたは、それを知っていましたか」
私は、答えられなかった。
知っていた。知っていたけれど、その形では考えていなかった。
私は、いつも目の前の人しか見ていなかった。ティア。詰所の人たち。ベルさん。セシリアさん。ロレンツさん。一人ずつ数えて、一人ずつ見て、それで一日が終わっていた。
全部を足したものを、私は見たことがなかった。
「知りませんでした」
「そうですか」
その人は、頷いた。
「では、伺います」
姿勢が変わらなかった。組んだ指も動かなかった。
「それでも、歌いますか」
部屋が、静かになった。
窓の外で、雪が降りはじめていた。細かい。積もらないやつだ。
私は、口を開けた。
開けて、閉じた。
答えは、すぐに出そうな気がした。歌います、と言えばいい。それは本当だ。たぶん本当だ。
でも、それを言うと、この人が書く。
書かれたものは残る。残ったものを、私はあとで読むことになる。読んで、そのときの自分が同じことを思っているかどうか、私には保証できない。
「あの」
「はい」
「今は、答えられないです」
その人は、少しのあいだ動かなかった。
それから、机の紙を揃えて、束にした。
「よろしい」
筆を取らなかった。
「答えなかったことを、記録しますか」
私は聞いた。
「しません」
「なんでですか」
「答えていないものは、数値ではありませんので」
その人は立ち上がって、棚のほうへ歩いた。
歩いて、途中で止まった。止まって、こちらを向かずに言った。
「ナナセ殿」
「はい」
「私は、あなたが歌わなくなった場合の数値も、算出しています」
「はい」
「来年の死者は、二十四名から二十八名。おおよそ、元に戻ります」
私は、その数を聞いた。
「それを、あなたに見せるべきかどうか、七日考えました」
「はい」
「見せれば、あなたは歌います。責任を感じて歌う。──それは、私が望む形ではない」
その人は、棚に紙を戻した。
「ですので、今のは口頭です。書きません」
「あの」
「はい」
「言っちゃってますけど」
その人が、止まった。
止まって、こちらを向いた。眼鏡の奥の目が、少しだけ大きくなっていた。
「……そうですね」
「はい」
「失敗しました」
その人は、そう言った。
言って、それから、少しのあいだ、本当に困った顔をしていた。




