第三節
声が、出なくなった。
次の日の朝、喋ろうとして、息だけが出た。二日目も同じだった。三日目に、少し掠れた音が出るようになって、四日目にはまた出なくなった。
医者が来た。神殿の癒し手も来た。
癒し手の人は、私の喉に手を当てて、しばらく目を閉じて、それから首を振った。
「傷ではありません」
その人は、そう言った。
「傷なら閉じます。これは、傷ではないので、閉じるものがありません」
医者は、湯気を吸えと言った。それから、喋るな、と。
喋るなと言われても、喋れなかった。
ティアは、最初の日に泣いた。
二日目には泣かなかった。三日目には、自分から板を持ってきた。手習いに使う、蝋を張ったやつ。
「みおり、かいて」
書いた。
「ありがとう」と書いた。
ティアはそれを見て、じっと見て、それから、指で一文字ずつなぞった。
「あ、り、が、と、う」
読めていた。この子も、私と同じ速さで習っている。
それから、その板を裏返して、自分でも書いた。
「げ、ん、き、に、な、る」
なる、の「る」が、逆を向いていた。
私は直さなかった。
六日目に、詰所へ行った。
喋れないので、板を持っていった。喋れないまま人に会うのは怖かったけれど、行かないのはもっと嫌だった。
中庭を横切って、詰所の前まで来た。
壁の札の前で、足が止まった。
二列。それから、隣の壁に、もっと多い列。
私は、右から数えはじめた。
いつもの癖だった。数えて、それから、気づいた。
数えなくてもよかった。
読めるようになっていた。
いつからかは、自分でも分からない。ティアの隣に座って、板に同じ字を書いて、間違えて、直されて、それを一年やった。名前を書けるようになったのが夏で、それから、少しずつ。
札には、名前が書いてあった。
一枚ずつ、名前だった。
バルト。ケラー。エッシュ。ミュラー。読める。読めるということが、こんなに違うのかと思った。
二十七枚あったところに、二十五枚しかなかった。
私は、二回数えた。二回とも二十五だった。
隣の壁を見た。
こちらの列は、増えていた。増えた場所が分かった。端のほうの、まだ木が新しい二枚。
その二枚の名前を、私は読んだ。
読んで、しばらく動けなかった。
知らない名前だった。
顔も浮かばない。話したこともない。詰所で見たことがあったのかもしれない。二十七人のうち、私が名前と顔を一致させられるのは半分もいなかった。
北の門の人たちだった。
それだけは、分かった。
「ミオリ」
声がした。
エルナさんだった。詰所から出てきたところだった。腕に布を巻いている。怪我をしていた。
私は板を出して、書いた。
「エルナさん、けが」
「これ? かすり傷。東は楽だったの。二十いたけど、道が狭いところで受けられたから」
私は頷いた。
それから、壁のほうを見た。
エルナさんが、私の視線を追った。追って、少し黙った。
「北」
「──うん」
私は、また書いた。
「二人」
「うん」
書きながら、指が震えた。震えたので、字が歪んだ。
「どっちも、北?」
「そう」
エルナさんは、それだけ言った。
言って、それから、私の顔を見た。
「ミオリ。今から言うこと、ちゃんと聞いて」
私は頷いた。
「あんたが南西に行ったから、あの二人が死んだんじゃない」
私は、板を見ていた。
「北には十八人いた。四十を相手にして、二人。──去年の同じ規模なら、六人か七人死んでる」
書こうとして、やめた。
書きたいことが、うまく文にならなかった。
「団長も、そう言うと思う。数の上ではそう。私もそう思う」
「……」
「でも、あんたが今考えてるのは、そういうことじゃないでしょ」
私は、顔を上げた。
エルナさんは、壁の札を見ていた。
「私も同じ。東が楽だったの、あんたのおかげじゃない。地形。運。それだけ。──私は無傷に近くて、北の二人は死んだ。それだけの話」
「……」
「それだけの話なのに、気持ち悪いでしょ」
私は、頷いた。
頷いたら、涙が出そうになった。出そうになったので、下を向いた。
エルナさんは、何も言わずに待った。
しばらくして、私は板に書いた。
「わたしが行けば、たすかりましたか」
書いてから、消したくなった。消す前に、エルナさんが読んだ。
「分かんない」
その人は言った。
「分かんないよ。誰にも分かんない。──分かんないことを、あんたはこれからずっと持っていくの」
私は、板を握っていた。
「私も持ってる。去年の六人ぶん」
エルナさんは、そこで初めてこっちを向いた。
「持ってる人が多いほうが、まだましだから。──一人で持たないで」
私は、頷いた。
頷いてから、板に書いた。書いて、見せた。
「名前、読めるようになりました」
「え」
「札の名前、ぜんぶ読めます」
エルナさんが、壁を見た。それから、私を見た。
「……読んだの」
私は頷いた。
その人は、少しのあいだ何も言わなかった。
それから、鼻をすすった。うるさいくらいの音だった。
「読めるようになったんだ」
もう一度言った。
「あんた、それ、団長に言った?」
首を振った。
「言いなよ」
私は、また壁を見た。
二十五枚と、増えた二枚。
名前が、全部読めた。
読めるということは、覚えられるということだった。
あの朝、私はこの壁の前で、どれがどれだか分からなかった。分からないものは、数えることしかできない。
名前が読めると、一枚ずつ、別のものになる。
私は、その場で、隣の壁の名前を一つずつ読んでいった。端から順番に。新しいのから、古いのへ。
古いほうは、字が消えかけているものもあった。
消えかけているのも、読んだ。
全部読み終わるまで、エルナさんは横に立っていた。
途中で、詰所から人が出てきた。何人か出てきて、私たちを見て、それから何も言わずに戻っていった。
最後の一枚を読んだとき、日が傾いていた。
鐘が鳴った。冬の鐘は早い。
私は板を出して、書いた。
「何人ですか」
「え?」
「この壁、ぜんぶで」
エルナさんは、壁を見た。
「──百三十四」
私は、その数を頭の中に置いた。
置いて、しばらくそこに立っていた。




