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限界保育士は異世界で休みたい~戦力外の私ですが、子守唄で騎士団を救っているようです~  作者: 蜜豆
第8章「冬の門」

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第三節

 声が、出なくなった。


 次の日の朝、喋ろうとして、息だけが出た。二日目も同じだった。三日目に、少し掠れた音が出るようになって、四日目にはまた出なくなった。


 医者が来た。神殿の癒し手も来た。

 癒し手の人は、私の喉に手を当てて、しばらく目を閉じて、それから首を振った。


「傷ではありません」


 その人は、そう言った。


「傷なら閉じます。これは、傷ではないので、閉じるものがありません」


 医者は、湯気を吸えと言った。それから、喋るな、と。

 喋るなと言われても、喋れなかった。


 ティアは、最初の日に泣いた。

 二日目には泣かなかった。三日目には、自分から板を持ってきた。手習いに使う、蝋を張ったやつ。


「みおり、かいて」


 書いた。


 「ありがとう」と書いた。


 ティアはそれを見て、じっと見て、それから、指で一文字ずつなぞった。


「あ、り、が、と、う」


 読めていた。この子も、私と同じ速さで習っている。

 それから、その板を裏返して、自分でも書いた。


「げ、ん、き、に、な、る」


 なる、の「る」が、逆を向いていた。

 私は直さなかった。


 六日目に、詰所へ行った。

 喋れないので、板を持っていった。喋れないまま人に会うのは怖かったけれど、行かないのはもっと嫌だった。


 中庭を横切って、詰所の前まで来た。

 壁の札の前で、足が止まった。

 二列。それから、隣の壁に、もっと多い列。

 私は、右から数えはじめた。

 いつもの癖だった。数えて、それから、気づいた。

 数えなくてもよかった。


 読めるようになっていた。


 いつからかは、自分でも分からない。ティアの隣に座って、板に同じ字を書いて、間違えて、直されて、それを一年やった。名前を書けるようになったのが夏で、それから、少しずつ。


 札には、名前が書いてあった。

 一枚ずつ、名前だった。

 バルト。ケラー。エッシュ。ミュラー。読める。読めるということが、こんなに違うのかと思った。

 二十七枚あったところに、二十五枚しかなかった。


 私は、二回数えた。二回とも二十五だった。


 隣の壁を見た。

 こちらの列は、増えていた。増えた場所が分かった。端のほうの、まだ木が新しい二枚。

 その二枚の名前を、私は読んだ。


 読んで、しばらく動けなかった。


 知らない名前だった。

 顔も浮かばない。話したこともない。詰所で見たことがあったのかもしれない。二十七人のうち、私が名前と顔を一致させられるのは半分もいなかった。


 北の門の人たちだった。

 それだけは、分かった。


「ミオリ」


 声がした。

 エルナさんだった。詰所から出てきたところだった。腕に布を巻いている。怪我をしていた。

 私は板を出して、書いた。


 「エルナさん、けが」


「これ? かすり傷。東は楽だったの。二十いたけど、道が狭いところで受けられたから」


 私は頷いた。

 それから、壁のほうを見た。

 エルナさんが、私の視線を追った。追って、少し黙った。


「北」


「──うん」


 私は、また書いた。


 「二人」


「うん」


 書きながら、指が震えた。震えたので、字が歪んだ。


 「どっちも、北?」


「そう」


 エルナさんは、それだけ言った。

 言って、それから、私の顔を見た。


「ミオリ。今から言うこと、ちゃんと聞いて」


 私は頷いた。


「あんたが南西に行ったから、あの二人が死んだんじゃない」


 私は、板を見ていた。


「北には十八人いた。四十を相手にして、二人。──去年の同じ規模なら、六人か七人死んでる」


 書こうとして、やめた。

 書きたいことが、うまく文にならなかった。


「団長も、そう言うと思う。数の上ではそう。私もそう思う」


「……」


「でも、あんたが今考えてるのは、そういうことじゃないでしょ」


 私は、顔を上げた。

 エルナさんは、壁の札を見ていた。


「私も同じ。東が楽だったの、あんたのおかげじゃない。地形。運。それだけ。──私は無傷に近くて、北の二人は死んだ。それだけの話」


「……」


「それだけの話なのに、気持ち悪いでしょ」


 私は、頷いた。

 頷いたら、涙が出そうになった。出そうになったので、下を向いた。


 エルナさんは、何も言わずに待った。


 しばらくして、私は板に書いた。


 「わたしが行けば、たすかりましたか」


 書いてから、消したくなった。消す前に、エルナさんが読んだ。


「分かんない」


 その人は言った。


「分かんないよ。誰にも分かんない。──分かんないことを、あんたはこれからずっと持っていくの」


 私は、板を握っていた。


「私も持ってる。去年の六人ぶん」


 エルナさんは、そこで初めてこっちを向いた。


「持ってる人が多いほうが、まだましだから。──一人で持たないで」


 私は、頷いた。

 頷いてから、板に書いた。書いて、見せた。


 「名前、読めるようになりました」


「え」


 「札の名前、ぜんぶ読めます」


 エルナさんが、壁を見た。それから、私を見た。


「……読んだの」


 私は頷いた。

 その人は、少しのあいだ何も言わなかった。

 それから、鼻をすすった。うるさいくらいの音だった。


「読めるようになったんだ」


 もう一度言った。


「あんた、それ、団長に言った?」


 首を振った。


「言いなよ」


 私は、また壁を見た。

 二十五枚と、増えた二枚。

 名前が、全部読めた。

 読めるということは、覚えられるということだった。


 あの朝、私はこの壁の前で、どれがどれだか分からなかった。分からないものは、数えることしかできない。


 名前が読めると、一枚ずつ、別のものになる。

 私は、その場で、隣の壁の名前を一つずつ読んでいった。端から順番に。新しいのから、古いのへ。

 古いほうは、字が消えかけているものもあった。

 消えかけているのも、読んだ。


 全部読み終わるまで、エルナさんは横に立っていた。


 途中で、詰所から人が出てきた。何人か出てきて、私たちを見て、それから何も言わずに戻っていった。


 最後の一枚を読んだとき、日が傾いていた。

 鐘が鳴った。冬の鐘は早い。

 私は板を出して、書いた。


 「何人ですか」


「え?」


 「この壁、ぜんぶで」


 エルナさんは、壁を見た。


「──百三十四」


 私は、その数を頭の中に置いた。


 置いて、しばらくそこに立っていた。


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